迷宮入りになるらしい。読む価値ある?
「君はフォトグラフィックメモリー保持者じゃないのか?」
香川高知は近所の派出所から自宅に向かう女子高生の背中に問いかけた。
©遥彼方さま
親友の死を目撃したはずのその娘は虚ろな瞳で振り向いたが、かわいい顔をしているのに悪意のような生気が顎から目元へと広がっていく。
「刑事さん、その問いに何の意味がありますか? 私がイエスと言おうとノーと言おうと、何も変わらない」
「そうだな。オレは何も立証できない」
「世界は個人の感覚器官でしか知覚できません。刑事さんと私の目に映るものが同じかどうかなんて、誰にもわからない。元より脳の中なんて……」
成績優秀過ぎる少女は、香川には全く畑違いな哲学書紛いの言葉を吐く。返答に窮したら相手は容赦なく背を向け歩き去った。
「この空が灰色に見えるのはオレだけってか。事件はお宮入りと……」
香川刑事は梅雨前の6月の空を見上げて肩を落とした。
―◇―
捜査一課の香川高知は緊急出動を受けて後輩の松山媛と現場に向かった。都内の有名私立医科大学パスツール院付属高校の美術室で、高2女子が部活動中に死んだという。
「どうして殺人課の私たちが?」
媛が聞いたが、刑事になって7年の香川の頭にも満足のいく答えはない。
「現場見ずに不用意なことが言えるか」とつっけんどんに返した。
美術室に入ると、アトリエと呼ばれる場所特有の匂いがした。油絵具やテレピン油、シンナーなどもあるのだろう。
鑑識チームが忙しなく動いていて、床にはもう死体はなく白い人型になっている。
すぐ横のイーゼルには抽象画、キャンバスに摩訶不思議なパステルカラーの幾何学模様が飛び交っている。
香川は姪っ子が好きな、ドリーミーカラーのユニコーンを思い出していた。
「ナオさん、どうしてオレらの出番?」
香川は顔見知りの鑑識リーダーに声をかけた。
「お疲れ様。まあまずこの写真見てよ。ガイシャ」
ナオが見せたタブレット画面には女子高生が横たわっている。短めのスカートがめくりあがり瑞々しい左太腿が露わ、しかるべき位置から微妙にずれている下着が見えてしまっている図だ。
「え? 襲われた?」
「いや、傷ついてはないんだよねーって、やっぱりそっちに目がいくと思うけど、口のほう」
乱れた長いストレートヘアに縁どられた鼻は高く、目は閉じているが美人の類だろう。おかしな点は口から吐しゃ物というか、泡を吹いていること。
変死体には慣れているはずが、香川は思わず顔を顰めた。
「アレルギー反応?」
「詳しいことはまだわからないけど、喉も腫れてないし、首にじんましんや赤い斑点が出てるわけでもない」
「絵具って舐めたら毒だと言われません?」
机の上に置いてあるものを吟味していた媛が口を開いた。
「この子が使ってたのはアクリル絵の具だね。たいした毒性はないよ」
34歳で香川と同い年ながら鑑識課たっての切れ者と呼ばれるナオは、場数を踏んでいるせいか飄々としている。
「でも毒ってこの部屋にはいろいろあるはずだろう?」
「まあね。油絵の筆を洗うぺトロールとかかな。確かに匂ってるね。窓開けたいけど、髪の毛やら埃やら、まだ床の証拠採取全部済んでないんで」
とチームを見渡した。
「で、それ飲んだら死ぬか?」
「筆洗い? 大量に飲まなきゃムリ。胃の中見ればすぐわかるから報告待ってよ」
香川は結論を急ぎ過ぎかと肩をすくめて、媛のほうへ寄った。
ガイシャは右利き、右手に筆を持ち、左手にパレットがあったはず。急に倒れたなら筆やパレットは床に落ちていそうなものだが、それらはイーゼルの隣の、死体位置から向かって左の作業机の上だった。
筆洗器の中の液体は匂いもせず、触ってみたら濁ったピンクのただの水。
その横にいくつかの絵の具のチューブが転がっている。
そして、「英語」「三原亜里沙」と書かれたA4ノート。
「なぜこれがここに?」
媛の声音が香川の注意を促した。
机の左端、絵とは反対側、パレット等から最も遠く離れたところに、薄茶色いクロス装丁の本が一冊。
「なんかいかつい本だな、図書館のか?」
描いていた絵からしたらラノベとか読んでそうだが、それは大人の偏見というものだろう。
「わざわざ大学図書館から……」
香川には媛がなぜそうも引っ掛かるのかわからなかった。置いてあった位置からして、絶対にガイシャの借りた本だとも言い切れない。誰かがぽんっと置いていったような感じだ。
「題名は?」
返ってきた声は震えていた。弱冠20代で刑事課に引き抜かれたやり手と呼ばれる媛には全く似合わない。
「ボードレール、『悪の華』です……。19世紀終わり頃、非道徳だと発禁になりかけて改稿を余儀なくされた詩集……」