67 尽きぬ悪意の【大蛇】 (前)
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赤黒く照りかえる鱗。毒々しい緑色の筋。中央にぎょろりと光る大きな眼がひとつあり、その両脇にやや小さめの眼が四つずつ。
九眼の蛇【ヒュドラム】。
あるいは神話にて、〝尽きぬ悪意の化身〟とも呼ばれている。
毒のない種だが、ひとたび獲物を定めればどこまでも執念深く追い続ける性質が、さながら地獄界へ引きずり込まんとする悪鬼と恐れられ、厄災種に指定されている魔物の一種であった。
計九つある眼のうち四つを潰され、【ヒュドラム】は今、怒り狂っている。
己の頭の中を貫き通って行った何か、それの発生源を即座に見つけ出すと、深く地下へもぐりこみ、そして地下からそれを狙って踊りあがった。
土や岩石とともに宙へ舞い上げ、逃げ場を失ったそれを丸呑みにせんと、可動域の広い大口を開け――
(――……?)
おかしい。
変だ。
――呑み込めない。
かつて、己より大きな獲物を何度も頭から呑み込んできた。
上顎と下顎をこれだけ開いていれば、余裕で丸呑みにできるはずなのに。
閉じようとした口が、何か「ぽにょぅん」と妙な弾力のあるものに阻まれている。
鋭い牙も、何かに突き刺さっている感覚があった。
おかしい。こんなに大きな生き物だったろうか?
舌をちろちろ這わせるも、何の味も臭いもない。
なのに、「ぷにょ」「ぺにょん」と変な抵抗感だけがある。
何だこれは。肉ではない。でも何かがある。
何だこれは?
? ? ?
◆ ◆ ◆
「……ひっ、ひぇっ、ひぃぃ……」
……ただ今、まともな声がでません。
目の前で肉感も生々しい喉がうごめいていた。咄嗟に強化したスライム型結界が功を奏し、ボールのように弾力を持ったそれのおかげでかすり傷ひとつ負わずに済んだが、その後も悪夢が続いていた。
大型恐竜やワイバーンなどと張り合えそうな巨大生物が、「あーん」と文字通り大口をあけ、現在進行形で胃袋にご招待されようとしている。
なんだこんなもんか~、とか舐めたクチきいてすんません、猛省しております。
だからもう勘弁してください!!
とても怖い。真剣に怖い。目の前で喉肉がうごうご言っているのはもちろん、ちょっと見上げれば頭上に湾曲した鋭い牙の先端がきらりと光って、やっぱり怖い。
もしもスライム型結界の範囲をもっと小さめにしていたら、あるいは強度や弾力が不足していれば、あれが今頃、ぶっすりグッサリと。
そうでなくとも、ごっくんと。
「――あああぁあーくさぁああぁーんん!! 何とかしてーっ、これ何とかしてよぉおおおう!!」
《落ち着いてくださいマスター、私に戦闘能力はないのです! ひとまずヤナに、ここから離れるよう命じてください!》
「っ!」
ハッと我に返って視線をめぐらす。漆黒の魔馬がどことなく心配そうに、うろうろとこちらを見上げていた。
視線がこちらを案じてくれているように感じたので、顎をしゃくって「早く離れろ!」と示した。この【蛇】の興味が私に向いているうちに。
ヤナが迷いを吹っ切り、従順に距離を取っていくのが見えてホッと息をつくのも束の間。
《まずいですね……マスター、この大蛇、見えています》
私の肩まで飛んで来て、小鳥が言った。
「は? それどういう……」
《先ほど眼がヤナの姿を捉えていました。地下を主な棲み処とするなら視力は退化しているかと期待したのですが、そうでもないようです。眼の位置から視界も三百六十度、上下方向にも広いと思われ、死角がほぼありません》
「!」
四つも潰したのに、まだそれか。だいたい、頭を貫通したというのに――……
いや待て、蛇と人の脳は違う。実は巨体の割にちんまりとささやか過ぎて、肝心の脳を掠めもしていなかったのか?
《いいえ、これは生存機能のみを司る単純な脳ではなく、霊長類並みに感情や思考も発達した脳です。二発とも貫通していますが、距離があったため、魔素弾通過時の破壊の度合いが少なかったのです》
だからピンピンしてるって?
冗談はやめて欲しい。異物が脳内を通過したのに、致命傷にならないなんて。
明確な悪意をもって、復讐に燃える【蛇】。
つまり――考えたくはないが、私がもしこいつに喰われてしまったら、次はヤナが狙われる。
熱や振動、臭気、おそらく魔力も感知できて、肉眼の視力も問題ないとなれば、魔馬でさえ逃げきれない。蛇の移動速度はそれほど速くないはずだが、これほどの大型種なら、きっとヤナの全速力をも凌駕できてしまうだろう。
そもそも、これが地中にもぐって私の足もとに辿り着くまで一分あったかという話だ。このあたりの地下に大空洞はなく、硬い岩盤をやわらかい砂のように難なく泳ぎ、凄まじいスピードでここまで来た。こいつ自身の体格や体重が邪魔をして速度が鈍るとか、そんな期待は一切できそうにない。
何よりこれの接近を、ARK・Ⅲでさえ気付けなかった。地下の索敵は精度が落ちると自己申告していたけれど、この小鳥の感知能力の及ぶ範囲外から、地下の障害物をものともせず、こいつはそれほどの高速で攻撃をしかけられるわけだ。
しかも、知能が高いときている。間違いなく私を〝敵〟と認識し、逃げ隠れしようがどこまでも追って来るだろう。
「ARK・Ⅲ。この【蛇】、なんていう魔物かわかる?」
震える声を絞り出した。騎士団の皆様に「名乗るほどのもんじゃございやせん」と言い残してスタコラばっくれるにも、愉快で気ままなスローライフ道を邁進するにも、生き延びた先にあるすべての道は「まずこいつを倒す」以外に繋がっていないとわかって。
《九眼の蛇【ヒュドラム】の特徴と酷似しているように思われます》
「は。――はぃぃっ!? ちょ、それ、厄災種とか言わないよね!?」
《それです》
「嘘っ!? なんでっ!? なんでそんなのがこんなとこにっ!?」
古き時代から正式な学名のようなものがつき、ありふれた他の魔物とは別格の存在とされている伝説級の魔物。
九眼の蛇【ヒュドラム】の発見報告例は、南方の魔素濃度が高い熱帯地域に集中しており、この国には一度として出現例がなかったはずだ。
まさかの記念すべき第一回目が今ここ、だと?
「こんなもん、どうやって倒せって……!?」
ここにきて、対魔物の戦闘経験の浅さが浮き彫りになった。人間のゴロツキや中~上級程度の魔物を相手どる時とはケタ違いの大物を前に、……訂正、まさに今その口の中にいる状況から、どうやって脱すればいいのか。
――腹の内部からチクチクぷすぷす、一寸法師大作戦、なんて案外いけたりして?
煮えた頭にふと湧いた作戦を全力で振り払った。
【ヒュドラム】に丸呑みにされて生還した者の前例がない。こいつの腹の内部構造がどんなふうになっているのか微塵も情報がないのに、初っ端から捨て身の最終手段に出てどうする。
滅多にエンカウントしないような大物は、他の魔物と比較して襲われる心配が格段に低いからこそ、倒すための決定打もほとんど判明していない。本来なら自国にいないはずの種類ならなおさらだ。
他国の魔物については遭遇確率の低さから、偶然通りかかったタマゴ鳥が撮影したり、書物や噂話から情報を得る程度で、詳細な調査対象は国内の魔物に絞られていた。
つまり私だけじゃなく、ARK・Ⅲもこいつの具体的な倒し方を知らない。
血の気がざああ……と引いていった。
《困惑しているようです》
小鳥がささやいた。私ではなく、【蛇】のことだ。どうやら【蛇】さんは、「これは何だろう?」と首を傾げているところらしい。
大人しい今のうちです、と言いたいのだろう。わかるが、じゃあどうすればいいのだ。どうにかせねばと感情に急かされ、頭が空回りする。
どうしよう、どうすれば。
「……ん?」
おもむろに【蛇】がもごご、と口を動かし、スライム結界からゆっくり牙が引き抜かれていく。
……あっ。もしや、「なんだこりゃ、ぺっ!」ってしてくれる展開かな?
きっとひと呑みにするつもりだったろうに、わけのわからない結界のせいで出来なかったのだから。目測と異なる獲物の大きさに戸惑い、とりあえず正体不明のブツは吐き出すことにしたか。
それなら、なんとかやりようは思いつける。
ひとまず「ぺっ」してもらい、心臓に悪い状況から出て、一定の距離を保つことができれば。
心を落ち着けて、それから改めて作戦を組み立てて。
それから。
それから……
………
…………
………………。
◇
ハの字に垂れ下がっていた瀬名の眉が吊り上がった。
合わなかった歯の根が合わさり、唇をぎり、と一文字に引き結ぶ。
黒に近い焦げ茶だった虹彩が、鮮やかな琥珀の色を帯びた。
《……!》
弾力をもって包んでいた柔軟な結界は、一瞬にして凶悪な棘を生やし、放射状に伸びた。
その棘は人ひとり分の胴回りほどありそうな巨大な剣となって、【蛇】の顎から頭部から無数につらぬき、さらに長く伸びる。
貫通した一部の先端は地上に突き刺さるほど。
聖銀のごとき魔を祓う鋼の力を。それが彼女の与えたイメージだった。
そうして形成され、結界から生えた数多の剣は、水や風や何らかの現象ではなく、ただひたすら〝より強く鍛えあげられた魔力〟そのものとなった。
青のような黄金のような淡い燐光を纏い、魔力の感知能力が低い者さえ視認できるほどにくっきりと、より鋭く磨きあげられた魔力。
――これはどうやら、魔術士の発動光と同様の現象が、マスターの体内で起こっている。
ゆらめいて輝く鮮やかな琥珀の双眸に見惚れながら、小鳥は主の変化を分析した。
【蛇】が怒りとも苦痛ともつかぬ奇怪な悲鳴をあげ、喉の奥から凄まじいエネルギーを放出した。
ただの吐息ではない。
「蛇のくせにドラゴンブレスって、そんなんあり? ……やっぱ一寸法師大作戦はナシだわ」
そのドラゴンブレスを最も近い場所で浴びながら、口角をわずかに持ち上げ、声からは完全に震えが消えている。
ああ。極限の状況下に〝キレ〟て、戦闘モードに入られたらしい。
興味深い、と小鳥は思った。
ならば自分は、主のサポートに徹するのみ。
あれをしてください、これはしないでくださいと、いちいち細かく指示はしない。無駄なやりとりに時間は割かず、ただ必要と思われる情報を与え、求められる情報をいつでも提示できるよう準備する。
≪【蛇】の体内のエネルギー炉が暴走する可能性は?≫
≪ありません。これを≫
頭部を失ってなお稼働し続けるエネルギー炉のたぐいは、この【蛇】の体内にはない。自爆機能も、刺激を与えれば爆発する仕組みも物質もない。
先ほど取得したてのデータを見せた。全身を透過表示した映像は、スケールを無視すればどこにでもいる蛇のようだ。
ただし、熱と魔力を視覚化した表示に切り替えれば異常性が露わになる。
爬虫類のそれとは異なる巨大な脳が活発に輝き、頭蓋の後ろから生じた魔力が背骨、肋骨を通って、コイルのようにぐるぐる円を巻きながら巡る。
それはやがて肺に集中し、眩しいほどに輝くそこから、灼熱の吐息となって吐き出された。
早送り表示でおよそ三秒に短縮した映像。瀬名の理解にはこれで充分なはずだ。
司令塔は脳。これが正しく命令を発さなければ、魔力は正しく動かない。
そして興味深いことに、この【蛇】の魔道具に相当する器官は、骨と肺である。
――〈フレイム〉展開 照明弾――




