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空から来た魔女の物語 -site B-  作者: 咲雲
魔女の森と三兄弟
58/70

57 とりたてて思い出すこともない、ありふれた日

元は2話だったのを1話にまとめて大幅加筆修正しました。

長いので時間に余裕のある時にお読みください。


「よっしゃ、もうちょっとで……!」


 鬱蒼と生い茂る森の最奥。削りに削った敵の前で双刀を構え、いざ必殺技を放つべくスキルを選択した瞬間だった。

 ぽろん、ぽろろん、と嫌に可愛らしい警告音が響く。


「ええええっ!? ここで来るかよお……!?」


 プレイ可能時間が残りわずかになっていた。

 エリアボスに突入する手前でチェックした時は、もっと時間に余裕があった。これぐらいなら間に合うかと思ったのに……。


「前哨戦モンスターが厄介過ぎるんだよ! ああもう」


 相当厄介らしいと噂されてはいたけれど、ここのボス討伐後に確実に入手できるアイテムがとてもおいしそうだったので、何としても手に入れたかったのだ。

 事前に徹底的にレベル上げをし、装備やアイテムの準備も万端、万全の状態で挑んだわけだが、あいにく残りプレイ時間だけが少々足りなかった。


 というより、余裕があると思っていた時間の大半を消費させられるほど、本番ボスよりも前哨戦モンスターが厄介だったのだ。

 同じ株から生えた三つ頭の植物系吸血モンスター。棘の生えた触手がうねうねうねって攻撃を妨害し、捕まると引き剥がすまでライフポイントを吸収され続け、さらにそれぞれの頭から毒・麻痺・混乱・腐食いずれかの状態異常をもたらす噴霧攻撃を仕掛けてくる。しかも防御力もやたら高く、中途半端な攻撃ではなかなか削れない。

 ようやく頭ふたつ潰した直後、残った頭が回復液を噴霧し、すべての頭を復活させてしまった日には心が折れるかと思った。


 さすが「もうこいつらがボスでいい」と悪名高い前座詐欺モンスターである。

 その直後にボス戦。しかもさほど間を置かずの連戦。

 このエリアを担当した開発チームの悪意の結晶。


「仕方ない。ここでセーブしとかないと強制退避で次回やり直しだし。残念だけど今日はここでやめとくか……」


 アイテムの〈記録帳〉を選択すると、ふおん、とメッセージが表示される。


《ここまでの調査結果を記録し、一旦終了しますか? Yes/No》


「いえーす!」


 投げやりに叫んだ瞬間、BGMとともにタイトルが表示され、そのままゆっくりとフェードアウトした。





 接続が解除され、四肢に現実感が戻ってくる。

 専用ゴーグルを取り外し、「ん~っ!」と猫のように伸びをした。

 いくらゲーム専用のリクライニングチェアでも、ずっと同じ姿勢でいたらさすがに身体が固まってしまう。


「次回はボス戦の真っ只中でプレイ再開かあ……ミスりそうであんまりしたくないんだけどな」


 再開直後は状況の把握までにタイムラグが生じ、攻撃をくらいやすいので、戦闘中のゲーム中断はなるべくしたくない。しかし強制退避になれば、ペナルティとして次回プレイ時に医院やどこかの施設で目覚め、〝戦闘に敗れて大怪我を負っていたが一命を取り留めた〟設定から始めることになってしまう。

 つまり、せっかく倒したあの前座詐欺どもを、もう一度最初から排除しなければいけなくなる。


 あのモンスターを配置した運営の悪意はともかく、システム自体は嫌がらせではない。起動と同時に脳波や心拍数その他もろもろのチェックが開始され、寝食そっちのけで没入しているとそのうち警告が始まるのだ。中にはナビゲーション用のキャラに《危険だ早く戻れ!》みたいな台詞を喋らせるゲームもある。

 無視して一向にやめようとしなければ、ゲーム世界からの強制退避。プレイ中に衰弱死したり廃人になったり寝たきりになった洒落にならない前例を踏まえ、今は全ゲームにこういう強制終了システムがあるのだ。

 それでものめり込み過ぎて強制終了を繰り返し、何度起動させても《あなたはまだプレイを再開できません》のメッセージに阻まれ、「遊べないゲームを売りつけるな、金を返せ!」と暴れた馬鹿が先日逮捕された。

 ああはなりたくない、と多分誰もが思いつつ、ついつい手を伸ばしてしまう。恐ろしいオモチャである。


「っと、やば。そろそろ時間だわ」


 のんびりしていたら、待ち合わせ時間が近付いていた。

 ささっと着替えて時短メイクを施し、人前に出られる程度の見栄えになった全身を確認すると、適当に中身を詰め込んだバッグを肩にかけて部屋を出た。





 待ち合わせのカフェに入り、いつものテーブル席に目をやれば、ひらひら手を振る女性の姿があった。

 窓から明るい光が差し込み、柱が店内に影を投げかけ、流れる音楽も雰囲気もとても好みだ。

 窓に映る海と陽気な街並みの光景は、ほとんどが晴れ。ごくたまに雨。個人的に晴れの日が好きだが、たまの雨もいつもと違う雰囲気があって悪くない。


「ごめん、ちょい遅くなった」

「んー、別にそんな待ってないからいいわよ。またゲームでもしてたの? くれぐれも十八禁はやめてよね?」

「ちょっ!? ――あのね母さん、冗談でもやめてくれる? 私ゃ全年齢主義なの! 誰かが聞いてたら『あいつそんなのやってんだな』って思われちゃうでしょ!?」

「大丈夫よ、誰も他人の会話なんて興味ないだろうし」

「あんただって他人がぼそぼそやってたら興味本位で聞き耳立てるでしょーが!」

「そーいやそーね。ごめんごめん、あっはっは!」

「ごめんあっはっはじゃねえ……!」


 注文パネルを表示し、スクロールさせながらサーモンのクリームパスタセットと、旬の果物のフルーツタルトを選ぶ。

 この時間に来た時は二人とも朝昼兼用だ。食の好みも似通っていて、母親はトマトクリームパスタセット、旬の果物のアイスクレープを注文した。

 ドリンクは二人ともホットコーヒー。

 注文パネルを消すと、あとはスタッフが料理を運んでくるのを待つだけ。

 料理がテーブル脇の壁に内蔵されたレールを通って運ばれてくる店もあるが、だいたいが安っぽくて味気ないイメージだ。出来上がった料理を取りに行くフードコートも、自分達はあまり好きではない。お手伝いさんロボが普及し、自宅に自動料理機のある家庭も多くなったけれど、未だに料理を趣味にしている者や、外出先で食べるのが好きな人も多かった。

 店によって味が変わるし、何より気分が変わる。オール機械化が急激に進み始めた時代から、こういう懐古趣味の店の価値は定期的に見直され、今も根強い人気がある。

 このカフェは学生アルバイトが多く雇われていた。男女ともにギャルソンエプロンが格好いい。が、爽やかさと初々しさを可愛いと感じてしまうのは、オバサンに突入してしまった証拠だろうか……。


「あんたがやってるのって、ええと、多人数参加型? RPGだっけ。あたしの同僚もハマってるみたいなのよね。休憩時間になると、会話がいっつもその話題」

「私は単独(ぼっち)型でプレイしてるよ。自分以外のキャラ、みんなAI。なんだってゲームの中でまで人間関係に気い使わなきゃなんないの? っていう人向けのゲーム」

「堂々とぼっち宣言してんじゃないわよ……」

「放っといてあげてください。向き不向きの壁は誰にでも立ちはだかるのです」


 だからその憐れみをこめた眼差しはおやめ、母。


「でもそれだったら、クオリティ下がったりしない?」

「案外そうでもない。大人数が参加した大規模なやつって、負荷とかプレイヤー個人の機器のスペックとか色々気にしなきゃいけないことが多いんだってさ。特にレイド戦とか盛り上がるんだけど、プレイヤー個々の制限時間も計算に入れなきゃいけないから大変らしいよ。単独(ぼっち)型はそういう気遣いが要らない分、短時間で作り込みやすいんだってさ」

「へー」


 まるで興味なさげな相槌が返ってきた。「レイド戦って何かしら?」とか思っていそうだ。

 大勢のプレイヤーで、ケタ違いにでかい敵を倒す大規模な討伐戦のことだよ、と以前教えたのだが……まあいいさ……。


「よくわかんない世界ね」

「いいの。わたしゃ、古き良き定番ストーリー型RPGが好きなの」

「ふうん?」


 彼女はゲームより服や靴や美容にお金をかけたい、女性として正しい健全な女性だった。

 スタイルが良くお洒落でメイクも上手い彼女は、実年齢よりかなり若々しく、並んで歩けば姉妹か友人と間違われる。頑張っても「そこそこ?」とハテナマークが付く程度にしかならない娘は、今日も上から下まで完璧な装いの母から、そ、と目をそらした。


 多人数参加型のゲームに興味がなかったわけではない。同じくゲーム好きの友人に再三誘われ、試したことはある。

 自由度が高くスケールも大きいので、確かに楽しかった。

 ただ、こちらの都合で勝手に中断できないのが徐々に億劫になってきた。おまけに自分がいない間もそのゲーム世界の時間は流れるので、気付けば浦島太郎状態になっていたりする。

 ちょっと向いていないかな? と感じ始めた頃、致命的な出来事が起こった。

 友人に誘われて登録した〈冒険者ギルド〉にかなりチャラい男がいて、リアルでは普段何をしているのか、学生なのか社会人なのか、どんな勉強あるいは仕事をしているのか、どこに住んでいるのか、根掘り葉掘り訊かれたのだ。

 アバターを双剣使いの女エルフ設定にしたのが、そいつの興味を無駄に惹いたのかもしれない。絶対に答えはしなかったけれど、あまりにしつこいので、気持ち悪くなってとうとうそのゲームをやめた。


 世界観にどっぷり浸かりたくてゲームをしている身としては、現実世界のあれこれを臭わせられたら白けるのである。

 平気な者は平気だろうし、これは個人の楽しみ方の違いだろう。しかしあのチャラ男は論外だった。個人差で片付く問題ではない。

 奴の迷惑行為はほかにも及んでいたらしく、後になって運営から警告をくらったらしいと聞いた。

 ざまあ、とは思うが、もう一度やってみようかという気は起きず、そのまま単独(ぼっち)プレイ型に回帰したのだった。


「同僚といえばね。なんかその人の親戚が変な人権保護団体に入ったみたくて、ほとほと困ってるらしいわ。なんでもこういう店とかに、『清掃ロボがあるのに掃除を従業員にやらせるのは虐待だ!』とかって抗議文送りつけてるみたいなの」

「ふぁっ? 仕事なくなった従業員がクビにされる分には問題ないわけ?」

「言ってることおかしいわよねー? でも正直に『おかしいんじゃない?』って言うと身の危険を感じるレベルだから、止めようがなくて悩んでるんだって。おまけに親戚だからあなたも入りなさいって勧誘が酷いらしいわ」

「え。かーさん、それ、カルト教……」

「あたしも聞いててそう思ったわよ。なんでそういうのにハマるのかしらね」


 人がどんどん不要になっていく世界で、人の存在価値を守るために模索する人々がいる。この店も、国と食品メーカーが実験的に始めたチェーン店のひとつだ。メインは人、給仕ロボは利用しない。店の利用者やスタッフの評判は良く、自分達親子も気に入ってよく利用していた。

 その一方、後先考えずに気分で騒いで滅茶苦茶にしたがる人々もいる。考えることはAIにやらせ、労働はロボットにやらせればいい。もうそれが可能な時代に入っているのだから、人類を労働から解放せよ、というのが彼らの主張だった。

 こういう人間にはなりたくないな、と大多数は遠巻きに眺めている。彼らが声高に唱える〝全国民の願い〟には、真っ黒な壁の穴に腕を突っ込むような、うすら寒い不吉な予感しか覚えない。


 料理を食べ終え、デザートに舌鼓を打つ。

 食事中は二人ともずっと無言だが、お互い美味しいものに集中しているだけと知っているので、漂う空気は穏やかなものだ。

 コーヒーにほっこりしながら、母親が「ところで」と会話を再開させる。


「こないだお父さん家に行ったんだけど、あんたしばらく会ってないんだって? ゲームばっかしてないで、たまにはご飯ぐらい一緒に食べてあげなさいよ」

「し、仕事が忙しかったんだよ」


 嘘である。ちょっと前に買ったゲームにハマりまくっているのである。

 旧時代の技術で凶暴化した動植物が大陸を覆い尽くす勢いで繁殖し、トラブルでその大陸に流れ着いた船の調査員達が、生き残りをかけてそれらを調査して討伐して調査して討伐して武器を開発して薬品を調合して調査して討伐して……

 うむ。反省しよう。ちょっとぐらいは父にも家族サービスをしてやらねば。


「ここんとこずっとお誘い断られてるって、しょぼーんってしてたわよ。あんたが前にプレゼントした林檎の鉢植え、あれ世話してる背中がもう哀愁漂って切ないのなんのって」

「ぶはっ」


 テーブルの上で枝が折れんばかりに大きくなってきた林檎の実と、霧吹きでしゅっしゅと土を湿らせている父の姿を想像し、つい吹き出してしまった。


「笑うなんて酷いでしょー? あたしだって我慢したのに」

「や、やめてもう……私、そーゆーの弱い……」


 次のランチは父を誘ってみよう。都合がつかなかったとしても、多分お誘い自体を喜ぶはずだ。

 しかしあの林檎……熟れてもちゃんと食べられるのか、父よ。

 勿体なくて食べられない、なんてことになったら、もっと勿体ないのだが。美味しい品種なのに。


「なんで母さん、父さんと離婚したの?」

「生活スタイル合わなかったから。前に言わなかったっけ?」

「いや聞いたけどさ」

「もしあんたが結婚するとか言い出したら、もっとしょぼーんってするかもね」


 さあ、嫌な話題が来たぞ。


「特に相手はいないの?」

「いないっす」

「ふーん。まあ結婚したけりゃすればいいし、したくなきゃしないでいいんじゃない? いざとなりゃ見合いでも契約結婚でもやりようはあるでしょ」

「待て。見合いはともかく契約結婚てどうなんすか」

「最初にお互いの都合を照らし合わせて一致させて結婚すんだから、ある意味ヘタな見合いより上手くいくんじゃない?」


 そんなものを娘に提案するな母よ。

 しかしどうしよう、正論だと思ってしまった。己のモラルにちょっと問いかけたい。


 ただ、こんな問題発言をかましてくれる割に、彼女は意外にも子育てにはきっちりしていた。色々いい加減な言動が目に付くし面倒くさがりなのに、娘のことはよく構っていた。

 他の家の親子はもっと、一定の距離感のようなものがあるのに。


「だっておかしいじゃない? 道具に自分の子の面倒ぜんぶ丸投げしてる動物なんて、ほかにいないでしょ? おかしいからおかしいって言うと、なんだこいつって反応が返ってくんのよ。あれほんとイラッてさせられたわ。ちっちゃいあんたを毎日抱っこしてると、構い過ぎって呆れられんのよ。あんたの父さんにもたくさん抱っこしてやってよって言うと、疲れてるだのなんだの言って面倒くさがるわ、あたしが用事で出てる間に育児ロボットに押し付けてるわで」

「お、おう? そんなことあったんだね?」

「あったのよ。――まあ、あたしだって、いつも面倒見られたわけじゃないんだけどね。だって仕事してんだからしょうがないし。ある程度育児ロボットを頼るのはいいと思うわよ。だからって、手ぇあいてる時まで全部機械任せにすんのはどうかっての。機械の子じゃないんだからさ」

「うん。そうっすね」

「うち、ご先祖様の代から自分の子は自分で育てろって主義なのよね。別にそれ、なんにもおかしいことじゃないわよねえ? ナチュラリストとか言って変な目で見てくる奴とかたまにいんのよ。あれ、ほんとわけわかんないわ」

「へえ……」


 今になって知る事実。そんなことがあったのか。

 ひょっとしたら夫と別れたのは、そういう点で微妙にストレスが溜まっていたせいでもあるのかもしれない。

 東谷一家は、家族仲が良好だ。離婚してからも元夫婦間に気まずさは欠片もなく、父も娘を大切にする父親だった。けれど父がそうなったのは、この母の影響があったからかもしれないと今にして思う。


「父さん、私に結婚して欲しいって思うかな? 思わないかな」

「半々じゃない? 結婚報告されたらショックだけど、いくつになっても独身だったらそれはそれで心配するってやつじゃないの?」

「パパってママより心が複雑で繊細だよね……今度会ったら優しくしてあげようっと」

「そーしてあげなさい。それはともかく、ちっちゃい子って可愛いわよお! あんたも将来、子づくりしてもしなくても好きにしていいけど、子供できたら可愛がんなさいよね」

「へいへい」

「ヘルスチェック問題ないのにぐずってたら、こんな感じに抱っこして、左胸に頭持ってくるようにしたらいいっぽいわよ。なんか心音が安心するらしいの。母さんの母さんから受け売りなんだけどね~、嘘なんだかほんとなんだか」

「どっちだよ」


 突っ込むと、彼女はからから陽気に笑った。




 …………






◆  ◆  ◆




「…………」


 薄青い光に促され、重い瞼を開けた。

 時間の経過とともに眠気は去り、ここがどこだったかを思い出し、徐々にひんやり胸の内側を満たす。

 椅子も何もかも、すべて取り払って広々としたリクライニングホール。

 その中央に置かれたシンプルなベッドマットの上で、目の前の遠い円天井を見つめた。


 目覚めればいつも傍にあったはずのそれらは、もうどこにもない。


 のっそりと身を起こし、その瞬間、自分の頬が濡れているのを知った。

 新しく熱い液体があふれて伝い、シャツの前にぽたりぽたりと跡を残す。

 片手で前髪をくしゃりとまぜ、不可解な液体をぬぐうこともせず、立ち上がってぺたぺた歩き始めた。


 裸足のまま〈スフィア〉から出る。早朝の清々しい空気が肺に浸透し、いま自分がここに生きていることを実感する。

 昨夜は湿気が多かったのか、辺り一帯に朝もやが立ち込めていた。

 まるで雲の中を進むように、菜園の通路を抜け、果樹区画へ向かう。

 背丈の揃った木々の前をゆっくりと歩き、林檎の木の前で止まると、その場にしゃがみこんで膝を抱えた。



 ――おとうさん。



 肌寒さを覚え、以前は気にならなかった静けさに圧し潰されそうになる。



 ――おとうさん。おかあさん……。



 彼らは、私がこんな所に独りきりでいることを知らない。

 百年前に滅びていると言われても、つい最近まで彼らが生きていた記憶が私の中にはある。

 生きている彼らの記憶しか残っていないのだ。


 ――この記憶が何もかも、すべて自分自身のものではなく、とうの昔に死んだ人間の人生のコピーだなんて――


 仮に百年もなく、後から存命だと判明したとしても、彼らの傍にはオリジナルの東谷瀬名がおり、今ここにいる〝瀬名〟は彼らにとって知らない子でしかない。

 まったく心当たりのない子。自分達の知らない間に勝手につくられていた子。いきなり親呼ばわりをされても困るだろう。

 ならば今、自分がこうして泣いていることに果たして意味はあるのか。

 彼らの笑顔を、言葉を思い出し、そのぬくもりを恋しがることに意味はあるのか。


 〝私〟の名前は〝東谷瀬名〟だ。

 一度死んで生まれ変わり、転生前の記憶を損なわずに持っていた。

 どうせ誰にも迷惑はかからないのだから、そういう設定でいい。

 細かいことは気にせず、新たな人生を前向きに楽しんでしまおう。


 そう決めたはずなのに、今さら蒸し返すように胸を抉ってくるこの感覚。


 何故こんな状態になったのか、原因は考えるまでもない。

 愛くるしい小動物に、まんまと情が移ってしまったのだ。

 しかしあの子らはいなくなってしまい、自分を襲っているこれの正体は、おそらく〝喪失感〟と呼ばれるものだった。

 朝から晩まで一緒にいて、こまごまと面倒を見て、これでもかと可愛がった。

 一緒に食事をとり、森を散歩し、じゃれついてくるのを構い。

 頻繁に身体を接触させるようなコミュニケーションなどそうそう取らない、他者との触れ合いが希薄な時代に生まれ育ったはずなのに、そのやり方を〝瀬名〟に教えたのは、間違いなく〝お母さん〟だった。


 そんなもの、ずっと忘れたままだったら、きっと今も平気でいられたのに。


 叫び出したくなるような感覚を、己の両腕に爪を立ててのみこみ、代わりに新たな嗚咽が吐き出される。

 どうして今、自分は、こんな所にひとりなんだろうと。




 いつしか薄青いもやが白く輝き、幻想的な朝もやの海がすっかり晴れ渡って、太陽が快晴の空の真上に差しかかっても、その場から動けなかった。


 そのしばらく後、どうやら日射病で倒れ、Beta(ベータ)に回収されたらしい。




一度はここを通過するかな、という所です……。

鬱展開を長く続けるのは苦手なので、これ以降は浮上していきます。

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