56 不思議な森の夢の終わり
しばらく多忙で更新できず申し訳ありませんでした。再開いたします。
《〈フレイム〉の調整をいたします。お預かりしてよろしいですか?》
ぼんやり頷きながらアームガードを外し、その後念願のシャワーを浴びた。
勢いのある湯が肌の上を弾け落ちる――なのに、どうしてか実感が薄い。いつもなら「さいこ~♪」と溜め息をつく瞬間なのに、何故だろう、ここに他人が立っているような違和感しかなかった。
ざっと身体を洗い、機械的にシャツを身につけて、照明を落としたリクライニングルームの、だだっ広い空間のど真ん中にあるベッドマットへ転がった。
疲れているのかもしれない。
天井いっぱいの星空が妙に落ち着かず、瞼を閉じれば、両脇にハンドサイズのタオルケットで身をくるんだ毛玉がモソモソくっついてきた。
「潰しそうで怖いから、もう少し離れなさい」
「や」
「や~」
「つぶえないもん」
「……そうかい」
これだと寝返りを打ちにくいんだがな……そう思った直後、三匹の毛玉は両脇から肩の上の位置にモソモソ移動した。これなら確かに潰れる心配はなかろうが、髪の毛が接触してくすぐったい。……まあいいか。
小動物の小さな寝息を耳元に、冴えていた頭が徐々にゆるんで、いつの間にか眠っていたらしい。
瞼を開けたらいつものように、いつもと変わらない一日が始まった。
どうということもない日だ。顔を洗って朝食をとり、服を身につけて、剣帯を装着。
胸当てとアームガードは預けたまま、今日は魔導刀のみ携帯する。この森の中で武器の出番などないけれど、この重みにすっかり慣れてしまった今は、近くにないとどうも落ち着かない。
「せな?」
「どこ行くの?」
「果物の収穫。――こら。歩きづらい」
外に出ようとしたら、毛玉達が足もとにじゃれついて来た。
いつも何かしらの果物が熟れていて、放置していてもそのうちAlphaやBetaが収穫してくれるのだが、なんとなく自分で採りに行きたくなったのだ。
「ぼくもいく!」
「ぼくも!」
「ぼくも!」
何も楽しいことなんてないんだが……まあいいか。
籠を提げて、四人で果樹園に向かった。いつもながら季節感まる無視の、突っ込んではいけない果樹園である。
「何が食べたい?」
「りんご。かおりもすごくすき」
「ぼくはみどり色のぶどう! ええと、ますかっと?」
「ぼくはももがいいな」
ちびっこ達を持ち上げてやりながら、それぞれ一押しの果物を自分で採らせてみた。果実の重みを支えられる枝にはそれなりの頑丈さがあるけれど、そのまま引っ張らずに傾けたり折ったりして、案外あっさり収穫できていた。
桃の皮には刺毛がみっしり生え、皮膚の薄い箇所に刺さって炎症を起こすことがあるらしく、桃好きのノクトには、手や顔まわりに保護クリームを塗っておいた。精霊族は本来、植物が原因の皮膚炎やアレルギー症状とは無縁と思われるものの、こんな幼児の情報は無いに等しく、用心しておくに越したことはない。
小さな身体にのしかかる、大きな果物に転ばされそうになりながら、すぐに危なげなく立てるようになった。見た目よりほんのちょっとだけ力が強いのは、可愛くても男の子だからだろうか。
エセルなどはマスカットの房を頭の上からかぶり、バランスが上手に取れているのはいいけれど、はたから見れば緑の球体の連なりに足が生えて……知っていてもつい二度見する光景だ。
シェルローが上手に収穫できた林檎を抱え、嬉しそうにしているのを地面に下ろした後、不意に刺激された記憶が胸をよぎった。
緑の葉。小さな鉢植え。しなる枝。
ぼんやり果樹を眺めていたら、誰かに話しかけられた。
適当に返したけれど、はて、どんな内容だったか……私はどう答えたんだったか。
ぽいぽい果物を放り込んだ籠を一旦Alphaに渡し、いつものように森を散策した。しばらく歩き回って小腹が空くと、〈スフィア〉に戻って昼食の時間。
ちびっこはずっとトテトテついてくる。時々思うのだが、そんなに私の後をついてきて何が楽しいのだろう? 何故かこの毛玉達は私の足もとでうろうろするのが好きで、膝に座るのも好きだ。そんなに座り心地なんてよくないだろうに。
幼児だから頭が大きく、見おろせばほとんどを髪の毛が占める。淡い金と白金と虹銀の三色毛玉が転がってきたら、見るからにツヤツヤさらさらフワフワなそれらを、つい撫でてみたくなる。
テーブルにつくと料理が並び、小さな歓声があがった。
「おにくだ!」
「おにく~♪」
「♪」
ランチは鳥の照り焼きとほかほかご飯だった。
野菜スープだった朝食と明らかに食いつきが違う。はぐはぐはぐっ! と音がする勢いだ。
「慌てると喉がつまるからゆっくり食べなさい。……肉は好きか?」
「うん! とってもおいしい!」
「おにくすき!」
「ぼくもすきー♪」
「……そうか。ほんとに肉好きなのか。つうかマジで肉喰えるんだここのエルフ……」
《雑食で助かりマスね~。メニューに気をつかう必要がないデス》
「うんまあそうなんだけど。正当派エルフって、眉をひそめて鼻をおさえつつ『肉を食すなど信じられん』とか、場の空気崩壊もののセリフ吐きそうなイメージだったのに……ここのは正当派じゃなかったのか」
《いいんじゃないデスか? そんなんと一緒にゴハン食べたってまずくなるだけデショ。とゆうかマスター、正統派エルフがベジタリアンって、どこ情報なのデスか?》
「え!? 違うの!?」
《それに、神経質な冷徹高慢キャラはお嫌いなんデスよネ?》
「だって、何だかんだで世界がやばい時には心強い味方になってくれたりとか、ツンツンからの熱い友情展開が萌えたぎるんだよ……そういうのが好きなんだよ! 放っといてくれ……!」
《好みって奥が深いのデスねえ……》
Alphaの顔と思しき部位に生温かい半眼を幻視した。
某A氏が人型から掛け離れたお手伝いさんロボットを起動させたのは、私の視線攻撃に対する脆弱さが十年や二十年ごときで治りはしないと踏んだからで間違いない。その通りだ。
照り焼きランチをたいらげた後は、採れたて果物を使ったデザートだ。
アップルパイのピースに桃のシャーベットが添えられ、ドリンクはマスカットジュース。白い皿にちょこんと盛られたスイーツは、見た目からして美味しい。
ちびっこ用のドールサイズの皿に、玩具のようなフォークとスプーン。ほどよい大きさに切り分けられたアップルパイとシャーベットは、私の口ならひとくち分もない。小さすぎる手にハラハラするけれど、なんとか問題なく食べられているようだ。「ん~♪」と幸せそうにほっぺたをおさえている。
幸せそうだ。
さっき果樹の前で余計なことを口走った気がしたけれど、考え過ぎだったか。
夏の森を眺めながら、パイとシャーベット、氷を入れたジュースは爽やかに甘く、贅沢で最高のひとときだった。
多分美味しいはずなのに、やけに喉を通りにくいのが忌々しい。
◇
夕方。妙に食の欲求が湧かず、ちびっこ達にだけ軽く夕食をとらせ、陽の沈み切らない時間帯にシャワーだけ浴びた。
私の不在時はAlphaが風呂の世話をしてくれていたらしい。湯舟はお子様用に拵えた桶だったそうで、私が抱っこして浸かる時とテンションが違っていたそうな。キャッキャウフフにじゃれる方向ではなく、黙々と粛々と〝ザ・真面目〟な湯あみだったらしい。この仔犬どもが? 想像がつかない。
今日はそれ以外にも違う点がある。石鹸もシャンプーも使わない。使えば確実に明日まで香りが残るからだ。
――〈スフィア〉内のものは、できるだけ彼らには残さない。
そのためにARKは植物性の繊維のみを使い、この国の一般的な衣類とほぼ変わらない生地を作った。それを小さな貫頭衣に仕立て、明日はそれを着せる予定でいる。
バスルームを出て、服を着て、さてどう過ごそうか。眠るまでの数時間を、いつもはどう潰していたのだったか。
…………。
「せな?」
「どこいくの?」
「用事」
チェスボードの周辺でスタンバイする毛玉を視界に入れず、それだけを告げて外に出た。
森の中で太陽が沈むのは早い。足もとの影は既に闇との境が曖昧になり、真昼の熱を長々と引きずることはない。菜園の水路のせせらぎを背中に、これから何かを植えるのか、それとも造る予定なのか、倒木と草と岩がそのままに放置されている場所に足が向かった。
樹々の生い茂る向こう側の闇は、こちら側よりもずっと深い。
何年も前に倒れた巨木には苔が生え、新しい芽が出て、活き活きと野花に囲まれていた。陽の射さない地下へは縦横に根が伸び、ゆるみかけていた一部の地盤は既に強固に変貌している。
ほんの数年で、もうこうなっていた。
植物とは人が管理しなければ育たないものだと思っていた。守ってやらなければ育つことさえできない、か弱い存在。何故〝あの頃〟はそう信じていたんだろう。
手をかけずに放置していれば、呑み込まれるのはこちらだ。本当はそういうものだったのに。
季節柄、水分を含まない枯れ木は少ないけれど、皆無ではない。乾燥して自然に剥がれ落ちた樹皮や枝を拾ってまとめ、簡単に組み上げて、枯れ草をくしゃりと握って火種にした。発火石を打ち鳴らし、端から朱い点が拡がるのを確認すると、組んだ枝と皮の囲いにゆっくりと差し込む。
ぱちぱちとかすかに爆ぜる音が内側から増えてゆき、やや離れて、倒木の近くにある平たい岩に腰を下ろした。
時おり枝を追加し、ゆらぐ火を見つめ続ける。
静かだった。
吸い寄せられた視線を固定したままどのぐらい経ったのか、さくさくと軽い音が近付いて来た。
音は三つ。――ARKが出したのか。私がいなければあの子らは勝手に出入りできない。
いくら森に強い種族でも、こんな暗い時間帯に、小さい子だけで外に出すなというのに。
「…………」
ちびっこ達はしばらく突っ立った後、焚き火の周辺の手頃な石を椅子代わりにして座った。
私の視線は幻惑的な揺らめきに囚われたまま。それ以外への関心はどんどん消え失せ、私の内側にある何かが、端から静かに燃え尽きて灰になっていった。
やがておずおずと小さな声が、しんと降り積もる沈黙を裂いた。
勇気を振り絞った、そんな声だった。
「あの、……なまえ。――せなのなまえ、どんなふうにかく、の?」
「――――」
なんだいきなり。
名前?
名前。名前か。
声のほうに視線を向けた。淡い金髪が闇にぼんやりと浮かび、まさしく妖精か精霊の子供といった風情だ。
焚き火にきらめく翡翠の瞳が綺麗だった。どうしてか耳がへにょ、と垂れ、怯んでいるように見える。
それにしても名前。名前。セナ=トーヤ=レ・ヴィトス。この国用の名前。こんな仰々しいのにしなくていいという苦情は封殺され、あきらめは大事なのか試合終了なのかどちらか、心の中でせめぎあった名前。結論が出る前に、〝慣れ〟という普遍の結果に落ち着いたそれ。
教えていなかったか。さらりと書けばいい
「…………」
追加用に置いてあった枯れ枝を手に取った。
「私の名前は、とても複雑だよ」
唇に笑みが浮かんだ。この時自分がどうして笑っていたのか、後で思い返してもよくわからない。
どうして自分がそれを書いたのかも。
東 谷 瀬 名
「とう、や、せ、な。――瀬名、だよ」
そう。これが私の名前。
こうして書くと、この国の文字と本当に形が違う。この国の人々には文字にすら見えないかもしれない。
土の上を引っ掻いた線に、ちびっこ達は唖然としていた。さもあらん、彼らの知っている古代語とはまるで違うし、最近どんどん憶えてきた光王国の公用語ともまったく違うのだから。
「……せな?」
「うん」
「……東、谷、瀬、名…………瀬名……」
「うん」
「瀬名……」
そうだよ。何をやっているんだろうね私は。こんな無意味なことを。
だから何だと。
我ながらくだらない感傷に呆れる。
「ん? ……こらこら。どうしたいきなり……」
何故かちびっこ達がぼろぼろ泣き始めた。
しかも大泣きである。待てこれ、私のせい? 私いじめた?
とりあえず頭をヨシヨシしてやれば、ますます酷くなってしまった。
嗚咽と一緒にしがみついてきたので、私がいじめっこ認定されているわけではないらしいと安堵したはいいが、どうしたものか。
「瀬名……」
「はいよ?」
「また……あいに、くる、よ……」
「ん? そうか」
「ほんとう、だよ。かならず……あなたに、また、会いにくる」
ふーん。そうか。まぁこの歳の子は興味の対象がうつろいやすいし、その時は真剣でも、真剣だったこと自体をあっさりと忘れてしまうものだ。
種族的にも性格的にも、約束はきちんと守るいい子達だ。私とARK氏が「話すな」と約束させたことを、大人達にベラベラ喋るような心配はしていない。
喋ってはいけないことに関し、いい子で沈黙を守り続け、やがてここでの日々は遠ざかるだろう。
精霊族はこの世界の人々と一線を画す存在。
私達の存在はそれ以上に、この世界そのものと隔絶している。それだけの話だ。
ただの変わった夢。
ここでおまえ達が過ごしたことも、おまえ達が見たものも、すべて。
【瀬名】
「ん?」
【瀬名。わたしは、……わたしたちは、あなたに、嘘なんてつかない】
「そうか」
【約束する。かならず、会いにくるよ。そうしたら、ずっと、そばにいるよ】
「そうか」
【嘘じゃない。わたしたちがずっと、一緒にいる】
【皆で瀬名をまもる。絶対だ。約束する】
【そうしたら、今度はわたしたちがぎゅっとして、あったかくしてあげる。約束だよ】
「……はいはい。じゃあ約束ね」
なんでいきなり古代語? と思ったけれど、一生懸命気持ちを伝えるには、使い慣れた本来の言葉のほうが語彙が多くて良いからか。
仕上げのように、軽く背中をぽんぽんと叩いてやった。
ちびっこ達はしばらく泣きやまなかった。
その夜はもう一度シャワーを浴びて、ちびっこ達の顔を洗い、手足の土汚れを落とした。
そしていつものように同じ寝床で、皆でくっついて眠った。
早朝、まだ完全に太陽の昇りきらない時刻。ドーミアのパンと腸詰肉、ふんわり焼いた卵の朝食を摂った後、いつもと違う着替えを渡した。
サイズ以外は、この国の平民がよく身につける標準的な布地の服だ。
《一名。先ほど魔馬単騎で到着し、森の外にて待機しております。踏み込む素振りはありません》
「そうか」
ウォルドを経由し、私が〝彼ら〟に求めたことはひとつ。
――決してこの森に入らないで欲しい。誰一人。
それだけだ。
着替え終えた三人を見おろした。賢い子供達は、もうすべて悟っているようだ。
初めてこの森に来た日の、骨と皮だけだった子供達とは違う。彼らは健康を取り戻し、肌の色ツヤは良く、飛び跳ねて遊び回れる体力もついた。
「その小鳥についていきなさい。行けばわかる」
菜園の前で三人に告げ、そして〈スフィア〉に戻った。
迎えに来たのが誰なのか、急に態度を変えた彼らが自分にどういう思惑を持っているのか、何もかもがどうでもよかった。




