15 たびびとレベル1、森を出る
成長編もしくは準備編ラストです。
肉体年齢十五歳、春。
一念発起し、町へ向かう決意を固めた三月。
人という生き物は、一度豊かな食の沼に浸かったら、なかなかそこから這い出せないものだ。
肉や卵がなくたって、野菜・果物・穀物類は常に過剰供給、調味料だってたくさんあるんだからいいじゃないか。
衣食住に不足はなく、万能お手伝いさんがいて、周辺の調査担当がいて、諜報鳥がいて、防犯システムだって完璧だ。
なのに、こんなに恵まれておきながら――恵まれているからこそなのか、どうしても欲望が抑えられない。
私はハンバーグが食べたいんだ!
親子丼が食べたいんだよ……!
いくら安全面は問題ありません、栄養バランスも完璧ですよと言われようが、水分を加えて練り練りしてふくらんだあの物体を肉とは呼びたくないし、あの液体を溶き卵とは認めたくない。
心おきなく、何の不安もなく、まともな食材で作られたまともな料理を食べたいのだ……!
◇
行き先は〝黎明の森〟から最も近い町、ドーミア。
私のヒキコモリ虫が出てきて前言撤回する前に進めてしまえと思ったか、ARK氏がドーミアの市の品揃えや物価の最新データをいそいそと寄越してきた。
手際がいい。実は一連の流れ、こやつの計算のうちだったのでは……いや、この小鳥はいつだって腹黒いのだ。いちいち気にしていたらもたない。
「どれも肉の塊でかくない? 業務用?」
《業務用と一般家庭用の区別はありません。これが標準です》
単位はレカ。1レカが1キログラムぐらい。少なめで頼んでも半レカ。親しい友人知人でもない限り、それ以下の量では売ってもらえない。
魔物の肉なので、部位や質だけでなく季節や捕獲数でも価格が変動する。
「……【プリトロ鳥の肉】? しかも【プリトロ鳥の卵】も一緒に売ってるとは、両方買えということかな? 買えと言ってるんだね?」
《討伐難易度はさほど高くなく、冬以外はいつでも売られているため、割とポピュラーな肉のようです》
強くない代わりに繁殖力が旺盛な食卓の味方。どうか親子丼に適した食材であって欲しい。
肉の価格は部位にもよるが、1レカ(約1キロ)でだいたいヴィナール銅貨50~60枚。これは安いのか高価いのかどっちだ。わからぬ。
卵は1個で銅貨30枚。待て、おかしくはないか。鶏の卵の三倍は大きさがあるが、肉の半レカと同額だ。これは安いのか高価いのか?
《他店舗も含め、過去の価格帯の推移を見ると安いほうでしょうね。卵は肉より稀少なので値が上がりやすいのです》
なるほど、ぼったくりではないのか。ならばこれは買いだ。
ミルクもあったのでこれも飲んでみたい。液体は1ガロおよそ1リットル。
リストに目を通し、とりあえずこれだけは欲しいというものが決まった。
「【プリトロ鳥の肉】、部位は太腿を半レカ、銅貨30枚。【プリトロ鳥の卵】、1個銅貨30枚。【魔水牛の肉/廃牛】、腹のお肉を半レカ、銅貨40枚。【魔水牛の乳】、1ガロ銅貨6枚。……うん、こんなとこかな?」
行ってみれば買いたいものがほかにも出てくるかもしれないし、味が好みに合うか不明なので、いきなり大量買いはしない。
【魔水牛】は要するに乳牛だ。見た目は毛の長い水牛。ミルクを絞るために飼育していたのが高齢になり、食肉として売り出されたらしい。家畜化できる種類はそう多くないけれど、なくもない、そのひとつだ。
廃牛は若牛の肉や、野生の肉より安価。野生だと普段は水の中にいるので討伐難易度が高く、お値段もそれなりに上がる。味と栄養価は野生のほうがいいらしいので、舌に合えばいつか食べ比べてみたい。夢は拡がる。いや、食の沼が拡がる?
《そのためにはまず、現金収入ですね》
「うっ。現実に引き戻しやがって……」
さて、冬の間にせっせと増やした趣味の産物たるお薬各種だが、無事売れてくれるのだろうか?
焼き物の器に入れた塗り薬、丸めて固めた錠剤、乾燥させた薬草などそれぞれ数種類。一般的な薬師は非戦闘員で、引き出しのある大きな薬箱に入れて運ぶらしいけれど、私の場合はアクロバットな行動が多くなると予想されるので、運びやすく身体にフィットする薬鞄だ。
森の中の樹皮や葉から繊維を取り、革製品に似せて加工された一品で、内側にも外側にもポケットがたくさんあり、割れ物とそうでないものを分けてどんどん仕舞っていく。ファスナーはなく、ポケットの蓋をとめるのはボタンか金具だ。
財布はなく、お金は金子袋に入れる。服の内ポケットに仕舞う空っぽの布袋が軽くて寂しい。
《ドーミアは四月の初めに春祭りが開催されるため、今月頃からどんどん人が増えます。何を並べても飛ぶように売れると言われる時期ですし、薬の需要も多いと思われます》
「だといいんだけど」
保温性の高いインナー、裾長の上衣、厚手のベスト、黒いズボン、カウボーイ風のブーツ。いつもより冷え込みのゆるい早朝だが、それでもなるべく温かめの装いに身を包んだ。
胸当てを装着し、クロスしたデザインの剣帯を締め、しなやかな黒手袋に指を通す。腰に佩くのは、「しゅん……」と落ち込んだ日以来の再会となる、調整完了済みの魔導刀だ。
「おまえあれから元気にしてたか? 空回りしても怒らないから、もうへこまないようにな。ARKさんにいじめられたらちゃんと言うんだぞ?」
《心外です》
そうそう、蟲よけも忘れてはならない。小さな蟲が少しずつ起き出す季節だ。植物由来の忌避剤をくまなく全身にスプレーし、予備を鞄のポケットに仕舞う。
薬鞄を背負い、青い小鳥が羽ばたいて肩にとまる。
さあ、出かけようか。
◇
千年樹の巨大な足元を潜り抜け、時に乗り越えながら、アスレチック感覚ですいすいと森を進んだ。
疲れにくくなった身体は、頭より遥かに高い位置まで塞ぐ倒木でさえ、ほんの小さな足がかりだけでひょいとクリアさせてくれる。
上背と筋肉量の増加で昔より体重は増しているはずなのに、むしろ軽くなっているような気さえした。
吸い込む空気はひんやりとして、濃厚な緑が香る。
冬が過ぎ去って間もない大地は、時おり陰の部分が白く凍り、そこから噴き出さんばかりに、草のような苔のようないくつもの芽が顔を覗かせている。
「こんなフィールドあったなあ……懐かしいわ」
仮想現実体感型RPGの電脳世界が脳裏によみがえる。
趣味に走ったアバターを操作し、ファンタジー世界の街道を歩いた。
乗ろうと思えば馬にも乗れた。捕獲した魔物にも乗れた。あれは本当に楽しかった。
武器のこだわりは二刀流。それぞれの手に剣を握って、舞うようにモンスターと戦うスタイルが好きだった。
武器はダガーやメイスではなく、片手用の剣でなくてはならない。これは決して譲れないポイントだった。
ところが現実に試してみると、これが難しいなんてレベルではなかった。威力を落とさず、かつ周囲に被害を与えないよう意識しながら、それぞれの剣を振るわなければいけないのである。
どんなに練習を重ねても、卑怯レベルまで底上げされた身体能力を駆使しても、一向に上達しない自分の素人加減に嫌気が差して、素直に剣を一振りに戻したら、あっさり上達速度が戻った。
結論として、私は二刀流の才能が皆無だったらしい。残念無念だった……。
ついでに弓の才能もあまりなかった。的のどこかには当てられるようになったぐらいで、そこからは一向に上達しなくなった。これに関しては当たりさえすればいいと思っているので、そんなに不満はない。
あまりにもリアルで美し過ぎる世界が廃人を量産し、深刻な社会問題になった初期のゲームは速やかに提供中止となった。それ以降は地面を踏みしめたり、頬に風を受ける感覚などの五感が大幅に制限され、風景もあえて電脳世界とわかるよう、どこかに粗さを残さなければいけなくなった。
子供が現実とゲーム世界を混同した事故も急増し、飲酒と同レベルで未成年のプレイが禁じられた。でもそんなふうに質を何段階下げても、顧客の年齢層を引き上げても、体感型ゲームに魅了される者はあとを絶たず、私もそのひとりだった。
今にして思えば、随分怖いものをプレイしていたんだな。
私が知っているのは、画質も体感精度も既に劣化させた頃のゲームだ。初期のプレイヤー達が、もしこれに近い世界を体験していたのだとすれば、そりゃあ誰も現実に復帰したがらなくなくなるだろう。
ただ、たとえ制限がなかったとしても、さすがにここまでのものは製作できなかったに違いない。風景や音はともかく、感触や匂いなどのリアルさにはどうしても限界がある。
森林の匂いなんて、誰も嗅いだことはなかったろう。
そのあたりは想像だけでは補いきれない部分だ。あえて無臭の設定にしているゲームが多かったのは、過ぎたリアルさを禁止されているからだとばかり当時は思っていたけれど、単に本物の森や大地の匂いを、誰も再現できなかったからかもしれない。
幸いこちらは、生の異世界。
映画でもゲームでもない、リセットもデータ保存も、一時停止もきかない現実。
だからこそ、もういっそのこと開き直り、まったくの新世界で新しい自分〈セナ=トーヤ〉のささやかなる冒険が始まるこの現実を、心ゆくまで楽しんでしまおう――そう思うのも、アリなのではないか。
「なんて、私がそんなふうに考えてたら怒る?」
《いいえ。あなたは現実を受け止められず、自棄になって浮かれているわけではありませんので。それに、鬱々とネガティブな思考に陥って身動きができなくなるより、ポジティブに進むほうが健康的でよろしいでしょう》
肯定的でいながら、ぴりりとスパイスの効いた答えが返る。最近では、この口調が妙に癖になりつつあった。
いつもながらこの人工知能様の辞書は、〝オブラート〟という単語だけぽっかり抜け落ちている。
小さく苦笑が漏れた。
――苦笑。さりげない苦笑い。
この程度なら、表情はほとんど変わっていないかもしれない。
――まさか、表情筋が何年もろくに使わなければ、本当にまともに動かなくなる代物だとは知らなかった。
社会人時代のにっこり余所行きスマイルを浮かべたつもりが、ほぼ無表情だと気付いた日には心底焦った。
鏡に向かって毎日笑顔の練習を続け、ようやく〝微笑〟と〝かすかな苦笑〟を習得した。少しでも表情が浮かべられるようになって安堵したものの、これには参った。
肉体年齢十歳の頃から今までずっと、話し相手はARK・ⅢとAlphaとBetaだけだったのである。
彼らは人型ロボットではないので、当然ながら表情はなく、笑いかけられることがなければ、笑い返すこともなかった。
それで何ひとつ困らなかったのだ。
「ARKさんでもうっかりすることあるんだねぇ」
《なんのことでしょう》
「だって顔の筋肉ぜんぜん動いてなかったら、人と話す時にマズイじゃん。無表情で問題ないと思ってた?」
《いいえ。むしろ、より良い表情を浮かべられるようになっていただくつもりでした。ですので、現在のマスターは理想的です》
「はい?」
《大袈裟な変化ではなく、かすかな表情の変化がミステリアスな雰囲気を演出します。無表情でいれば実際の心境がどうあれ、外見上は冷静に落ち着いているように見えるでしょう》
「……うん?」
《普段クールな人物のわずかな笑みは、それだけで一層やわらかい印象を相手に与えます。困った様子の小さな微笑みは、思わぬ一面といったふうに、周囲に親近感を抱かせるでしょう。何より、いかなる状況下でも大きな動揺を浮かべない表情は、その人物がまるで常に泰然としているかのような錯覚を抱かせます。とても完璧です、マスター》
「…………」
まさかの、ARK氏による〝完璧なセナ=トーヤ〟プロデュース計画の一環だった。
「……ARKくん? もしや君、もしやと思いたかったけれど、もしや僕を育成ゲームのキャラに見立てて、遊んでいるのではあるまいね?」
《…………気のせいです》
「おおおおおおおーいいいいー!? その溜めの時間はなんだああああ!?」
《単にお答えするまでに間が空いただけです。ままあることでしょう》
「やっぱりゲーム感覚だな!? てめぇ俺をゲームキャラと思ってやがるな!? 正直に言え!!」
《マスター。それを人は言いがかりと呼びます。あとそのお言葉遣いは、キャラクター的に少々》
「少々じゃねーよ!! おまえなああっ」
《ところで、着きましたよ》
「はい?」
ふと顔を前に向ければ、樹々が随分まばらになっていた。
――もうすぐそこが、森の出口である。
「…………」
こんなところまで来るのは初めてだ。
森を抜けたことなんて、ただの一度もない。
だというのに、感慨の欠片もなかった。
言うまでもなくさっきのやりとりのせいで、しみじみ実感するタイミングを完全に外してしまったのだ。なんたることか。
〝外〟を目前にして変に委縮したり、怯えて引き返したい気分にならずに済んだのはいいけれど。
「……私の感動を返せ……」
呟きは、そよ風に流れていった。
読んでいただいてありがとうございます。
とうとう森の出口。しかし人が出てくるところまでは行きませんでした。
主人公の一人称↓
基本「私」
時々「僕」
チンピラな気分の時「俺」
次は章が変わります。




