12 地道な下準備、おおむね充実した日々
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冬というものは、想像を絶する恐ろしさであった……。
この大陸の北に位置するエスタローザ光王国の冬は深い。例年は〈スフィア〉の中からスクリーン越しに眺めていたせいで、雪なるものに現実味がなく、自分の身長より高い位置にまで雪の層が積み上がっている光景に、ついうっかり羽目を外してしまった。
日頃からヒキコモリ禁止令を発しているARK氏が、珍しく《遠出はお控えください》と注意してくるのに対し、いつもと言ってることが違うじゃん! と妙な反抗心を発揮してしまったのが間違いだった。いつもと言ってることが違うからこそ用心しなきゃじゃん、馬鹿か自分!? と骨の髄まで思い知る目に遭った。
生まれて初めて雪を間近に見て、はしゃいでノコノコ森へ遊びに行ったのである。
ふかふか帽子にイヤーマフ、厚手の手袋に保温性の高いインナー、上から下まで完璧なARK印のフル装備は、おそらくこの世界では比類なき防寒性を備えていた。だから、「思ったより寒くないじゃん? これなら大丈夫大丈夫♪」と勘違いをしてしまった。
雪の上はダメとARK氏にさんざん言われていたので、折れて横たわる大樹の上をすたすた歩いた――いつもと同じ感覚で。
つるり。
すってんころり。
ぼふっ。
……いや、本当に、本気で死を覚悟しかけた……。
自分の身長を軽く超える深さの新雪。上の新しい層はやわらかく、落下の勢いと体重のぶんだけ深く深ーく沈むのだ。
そして最初に降った雪が、後から降った雪の重みで圧縮されて、底のほうは氷になっているのである。ふわっふわに見せかけてクソ重いとか詐欺だ。
そう、重かった。まるで身動きできないのである。マヌケな態勢で硬直した私の胸の上で、巣作りでも始めそうな風情でちょこんとくつろぐ憎々しい小鳥さんから、周囲の雪だけでも単位がtですよと聞かされ、己の血がサーと引いて行く音を久々に聞いた。以前耳にしたのはいつだったか……最初に就職した会社がどうもブラックではないかと勘付いた頃だったか?
ともかく、感動できたのは最初の内だけだった。
小鳥さんがいるから助けは訪れると信じていたけれど、雪が顔面に崩れ落ちて窒息するのが怖くて、体勢を変えることも下手にもがくこともできず、どんどん全身が冷えていくのである。あれは本当に生きた心地がしなかった。
ころりと転がったおにぎりで釘を打てるようになる寒さ。それを甘く見たらこういう事態になりますよ、と、ARK氏のためになる教育的指導の一環だったのかもしれない。
間もなくBeta君が作業用ロボットをお供に駆けつけてくれて、せっせせっせと穴を掘って救助してくれたのだが、あれ以来、雪がちょっぴり苦手になったのだった……。
ともあれ。
肉体年齢十四歳、春。
春。春である。素敵な響きだ。
ほっこりぬくぬくな空気。金粉が混じっていても不思議ではない木漏れ日の煌めき。
まだまだ夜になれば冷たい風も吹くし、防寒着は手放せないが、昼間は充分にぬくもりを実感できるようになった。
世界のすべてがカキーンと凍りつく、あの極寒の日々は過去になったのだ。
毎年戻ってくるよねとか、そんな野暮は言いっこなしである。
とにかく今は雪もすっかり融けた芽吹きの季節。日陰に雪だまりを多少見かける程度である。
せっかく明るい季節に入ったのだから、明るい未来へ目を向けるとしよう。
今年はチャレンジしてみたいものがあるのだ。ARK氏が前に言っていたこと――自分自身にとって動きやすい動きを、身体を動かす過程で、自分自身の感覚で判断しなければならない――について、ふと思い出したのである。
それはパルクールという変わったスポーツだ。気に入ったアクション映画のメイキング集にて存在を知り、関連映像を貪るように探しては、時間を忘れて見入ったものである。細かい技の名前までは調べなかったけれど、人間離れした動きの数々は圧倒的で、記憶にしっかり焼きついていた。
周囲の地形、環境すべてを利用し、全身を使って速やかに目的地まで移動する。移動ルートは手すりの上や屋上など、本来なら〝道〟として認識されない場所ばかり。時代とともに名称が変わったり、分野が細かくなったり統一されたり色々な変化を経ているけれど、基本が大きく変わることはない。
ゲーム世界の中ではなく、作り物の映像でもなく、生身の俳優がそれを演じているからこそ凄まじい迫力があった。まるで人体そのものがバネでできているかのような、軽快にして美しく、一歩間違えれば大怪我では済まない、危険で、鳥肌ものの魅力に溢れた動き。
――私もこんなふうに動けたらいいのに。
ささやかな夢想は、「まあ自分にはこんなの無理だよな」と常にセットだ。
けれど思いついてしまったのだ。
ひょっとして今の自分、これできるんじゃないの?
思い立ったら衝動を抑えられなくなった。
〈スフィア〉の中には本格的な訓練施設がなかったので、マットをいくつも並べて、まずは宙返りに挑戦することにした。
一発でできた。直前の緊張が嘘のように、軽くぽーんと成功した。
連続宙返りも後方宙返りも、ひねりを入れるのも成功した。うっかりタイミングを外した時も、即座に受け身を取って態勢を立て直すことができた。――かつての自分と比較にならないほどジャンプ力も反射神経もあり、自分の全身の動きが信じられないぐらい鮮明に把握できたのだ。
思い通りに身体が動く。そう気づいてからは基本的な運動を地道に重ねる一方、馬鹿みたいに「ひゃっほー♪」とポンポンくるくる回って飛ぶのにすっかりハマった。
じりじり時が過ぎるのを待ち続け、そしてようやく冬将軍は退散、待ちに待った春到来である。
始めは単純で安全そうな動きから。慣れれば徐々に複雑で危険な技を試していく。
森の中すべてが巨大な練習場だった。
岩や人工建造物とは異なり、飛び移った枝のしなりが予想以上に大きかったり、枝の強度が足りずに折れることもあった。
落ちかけた際には、咄嗟に別の枝に足をひっかけ、反動を利用してくるりと木の上に戻る。あるいはほかの枝がない場合は、猫のように身体をまるめ、着地時に回転を加えて衝撃を流してみたり。
「やば……できる……! できるようになってる!」
底上げされまくった反射速度と耐久力のおかげで、不測の事態にもかなりの範囲で修正が可能と気付いてからは、高さへの恐怖も、失敗への不安も薄れていった。
精神的に余裕が生まれ、うまくいかなかった場合の次の行動も瞬時に取れるようになった。
羽が生えたよう、もはやそんな言葉だけでは言い尽くせない。
四肢の先端まで血が通い、熱が全身をめぐるこの感覚。
己の鼓動がすぐ傍に聴こえ、今まさに自分が生きていると実感する。
頭上に大地があり、足元に太陽が浮かび、血と生身の肉に魂が宿っているこの感覚を、いったいどんな言葉で表現すればいいのだろうか。
今まさに自分は生きて、この瞬間に自由なのだと、生まれて初めて感じていた。
◇
こねこね、こねこね。粘土をこねる。
丁寧にこねたら手の平に乗る程度の丸い器を作り、順番に並べていく。不格好だが、用途を果たせるものであればいい。
何を作っているかというと、調合した薬を入れるための容器を作成しているのだ。
材料の粘土は、森のどこにでも流れている川の、そこらへんにある粘土層から採ってきた。これで実際に焼き物ができるのである。
科学技術の発達など遥か遠い時代から、焼き物は当たり前にご家庭で作られてきた。――なんて偉そうに語れるほどの動機ではなく、ぶっちゃけ前に興味本位で買ってみた〝おうちでかんたん陶器作成セット〟のオンライン説明書にちょこっと雑学的なものが書かれていたりして、なんかやってみたかったのだ。
とはいえ、想像した場所に土が見つかるとは限らず、必要な物質が含まれているとも限らない。なので、土集めにはBeta君に付き合ってもらった。
果たして、ここかなと思った場所で無事、陶器に適した粘土層を発見できたのである。
《ウン、問題ないっスね! やっぱシ微妙に違う物質も混ざってるっスけど、基本は現地民が焼き物に使うよーナ普通の土っスよ》
「よしゃっ」
〈スフィア〉のオーブンを使えば熱加減は完璧だが、ここはあえて焚き火でやってみたい。石の台の上に燃えやすい木屑などを敷いて、乾燥した木の板に穴をあけ、穴に木の棒を差し込み、両手で高速回転、回転、回転、回転、ひたすら回転……これ本当に火がつくんだろうか? と疑問が生じてきた頃に、ようやくモヤリと煙が発生した。
ちゃんと発火したようなので、ぱたぱたと風を送り、少し大きくなった火を即席の石組みの中に投じる。そこには既に油分の多い樹皮や枯草、適度な大きさに折った枝などを組んであった。
「ライターならカチリで一発なのに。焚き火って大変なんだな~……」
この世界の人々も、こういう方法で火を熾しているかというと、実はそうではない。火打石のような道具があって、雑貨屋や討伐者ギルドでも普通に売られているらしい。
じゃあなんでそれを使わなかったんだというと、この森には売店も通販もないからだよとしか。それと、いっぺん摩擦熱で火を熾してみたかった。私の行動原理なんて所詮そんなものだ。
やってみれば非常に面倒くさかった。でも成功したら、やたら充実感がある。もう一回やりたいとは思わないけれど。
焚き火ができたら、周りに台を置き、不格好な粘土細工を並べていく。じっくり弱火で乾燥させて、その後に火の中へ入れる。満遍なく熱が行き渡るように様子を見ていたら、さすがに熱くて汗が噴き出てきた。
《マスター。俺っちが見ときますヨ~?》
「うん……すまん、頼むわ」
この時点で結構な時間を費やしていたので、腹の虫の訴えが凄い。しかもちょっと火から離れると、汗が冷えて寒いのなんの。
慌てて〈スフィア〉に飛び込んでシャワーを浴び、Alphaの用意した軽食を味わう。しばらくして、途中で交代してくれたBeta君によって一回目の焼きは仕上がった。
そのままだと表面がざらざらなので、釉薬を塗って焼く。こだわって高級品やら芸術作品を作るつもりはないので、最初に用意した粘土を水でといて灰を混ぜただけのものを使った。
粘土の中にはガラスの素になる成分と、器に定着させる成分が既に含まれており、灰の中の石灰質が釉薬を熔かす役目を果たして、再度焼き上げれば器の表面を薄いガラス質が覆う。この時は最初よりも高温で焼きあげたそうだ。熱の調節に関しては私だと多分無理だったので、素直にBeta君と交代してよかったかもしれない。
そうして器が完成した。もっと手軽にできると思いきや、振り返ればかなり手間がかかっている。
まあ、慣れないせいで手際が悪かったのもあるだろうが、そもそも粘土の調達から始めたしな……。
いくつかは焼いている最中に割れる覚悟をしていたけれど、奇跡的にすべてヒビもなく完成したのだから上等と言えよう。
ごつごつと不格好だけれど、表面はそれなりにツルリとして悪くない。それに、黒や濃緑、青緑のまだら色もそれっぽい感じで悪くなかった。
「魔女の秘薬ってガラスの小瓶に入ってるイメージなんだけどな。やっぱこの国、ガラス製品って値が張る?」
《そうですね。少なくとも庶民がおいそれと所持できるものではありません。高度な魔道具の材料としても需要が多く、余計に中流階級以下にはほとんど出回らなくなっているようです。この大陸の国々において、質のいいガラス製品は宝石と同等の価値があり、〝ガラスの小瓶〟から人々が連想する人物像は、魔女ではなく大商人や王侯貴族です》
「うーん。魔術があればいくらでも量産し放題、ってもんでもないのね……」
《高温を維持するには、それなりの設備や道具が必要になりますからね。火の魔石などは蓄えた魔力を消費すれば使えなくなるようですし、魔術士に魔力を込め直してもらえば再利用可能なものでも、術士の力量が低ければ日数が余分にかかり、その間は生産がストップしてしまいます。結果的に薪を使おうが魔石を使おうが、生産量とコストに大差はなくなるのです》
「魔石か……」
魔石。胸のときめく単語である。いつか現物を見てみたいものだ。
誰かが開発したらしい超小型の〈人工魔導結晶〉とやらは、この際ひとまず置いておこう。
明らかにこれはオーバーテクノロジー。今この世界に広めてはならない危険な発明品だ。
おそらく設計図があると広まっただけで戦争が起こるやつだ。
なので、この世のどこにもそんなものは存在しないとして、同じだけ資金を費やすなら、誰もが武器や防具の量産に力をそそぐ。
この世界には本物の魔物がおり、人々は神殿を中心に村や町を築いていた。そしてそこには町をすっかり包めるほどの対魔結界が張られ、その効果の及ぶ範囲から一歩足を踏み出した瞬間、いつ襲われてもおかしくない環境に生きているらしい。
さまざまな魔術の恩恵に浴する一方、匹敵する脅威もまた存在するのだから、身を守る武器や防具を優先するのは至極当然のことなのだろう。
「ゲームじゃ格安の回復薬でも、お洒落なデザインのガラス容器に入ってたもんだけどねえ。現実はこんなもんかぁ」
《グラフィックデザイナーの手による回復薬をもしこちらで販売できたとすれば、中身より瓶の方に相当な価格がつくでしょう。庶民ならば家一軒相当にはなるかと》
「回復薬の容器ひと瓶でひと財産……!?」
飲んだらポイの使い捨てなど以ての外であった。
ところで、どうして容器をたくさん作っているかというと、いずれ現地人と接触した時の売り物にするためである。
主役はもちろん入れ物のほうではなく、中身の薬だ。
理想は物々交換よりも、最低限の現金収入。
現地民に怪しまれぬよう、器の材料はすべて現地調達。暗い青緑系に発色した手作りの陶器は、結果的にこの世界では違和感のない見た目になった。
《エスタローザ光王国で製造されている通貨はヴィナール硬貨です。鋳造する過程で高度な術式を練り込み、特殊な金属を含ませたりと、偽造防止にかけては大陸一を誇り、信頼されている通貨のようですね》
【ヴィナール硬貨】
・銅貨……最小単位
・銀貨……銅貨×100枚
・金貨……銀貨×10枚
・聖金貨……金貨×10枚
地域によって物価や平均所得が違う上に、当たり前だが地球に存在しなかったモノが大量にあるので、円とのレートはわからない。電子マネーが普及するまで、貨幣だけでも六種類あった円に比べれば少なく感じられるが、これで充分らしかった。
種類が豊富過ぎても、釣り銭の問題が出てくる。ちょっとそこで百円玉を十円玉と五円玉と一円玉に両替を、とはいかないのだ。
しかし銀貨はまだしも、金貨以上は持ち運びたくないなと本能的に感じる。いまいち価値が読めないのでうっかり粗雑に扱い川底にぽちゃん、とやらかしそうな意味で怖い。
とりわけ聖金貨とは何者だろうか?
ただの金貨とどう違うのだろう。
セレブ以外手にするべからず。
そんな気配が、字面からひしひし伝わってくるのだが。




