05.中紅による現実への介入
耳の奥で、水が脈打つような音と、泡がたてる音が聞こえた。
どこかで聞いた音だと疑問に思いながら、普段通り空気を吸って、ぎょっとした。
鼻と口に大量の温水が流れ込み、あっという間に息ができなくなる。
生温い、と舌が感じると同時に息苦しさと鼻の奥の痛みが、容赦なく澄蓮を襲う。
澄蓮は今、溺れていた。
不意打ちのように襲ってきた苦しさに慌てて、手足をばたつかせて暴れた。
ようやくのことで背中側にある地面を蹴り、空中に顔を出した。
必死になって、ただただ甘い香りのする酸素を貪る。
息も絶え絶えに痛む鼻を押さえながら、きょろきょろと周りを見回す。
見慣れた淡い色の空間、そこは芳村澄蓮の自宅の風呂だった。
「ちょっと、澄蓮?さっきからすごい水音がしてるけど、どうしたの?大丈夫?」
外から母親が心配そうに声をかけてきた。
どういうことだ、と未だ頭が状況についていかないながらも、澄蓮は大丈夫、と母親に返した。
荒く呼吸をしながら見てみれば、記憶にあるままの、入浴剤入りの風呂に浸かった自分の体がそこにあった。
潤った温かい温水があって、砂漠の砂など一粒もなく、手もお湯でふやけてやわらかい。
あれだけ皮膚が乾燥して痛かったのが嘘のようだ。
確かめるように指や腕を撫でていた澄蓮は、そこではたと気づいて頭を振った。
そもそもあれ自体が夢なのだから、風呂に入ってうたた寝をしていた現実に何か影響があるわけじゃないのに。
風呂に入りながら、夢の中の砂漠で殺されかかったことを確かめようとしているだなんて、バカバカしい。
なんだかんだで長時間風呂に浸かっていたから、なんだかクラクラする。
うたた寝した時間はほんの数分にも満たないのだろうが、気持ちが悪いぐらい、脳が実際に体験したことなのだと勘違いしている。
おかげで眠気も吹き飛んでしまった。
というか、次また眠ったとたん砂漠にリリースなんてことがありえないとは言い切れない。
当分眠りたくない。
やっぱりコーヒーと深夜番組で今晩は貫徹しよう、と再び心に決めて、澄蓮は風呂を上がった。
もともと正常な学生生活を送っていたため、切羽詰まったテスト前でもないのに決行した貫徹は予想以上に辛かった。
そもそも二日前かまともな休眠をしていなかったので、辛さは軽く3倍だ。
誰の目にも明らかな疲労を背負って登校した芳村澄蓮を、クラスメイトたちはギョッとした目で見つめた。
「お、おい…芳村、お前なんか死相出てないか?」
「つか目が死んでるぞ…?」
朝っぱらから元気よくふざけあっていたクラスの男子生徒までもが動きを止め、普段なら話もしない同級生たちが恐る恐る声をかけてきた。
その声にゆらりと顔を上げ、澄蓮は愛想よく微笑んだ。
「だいじょうぶ…ちょっと、寝てないだけだから……あはははは…」
「あ、あは、はは……な、ならいいんだけどな…」
どう見ても大丈夫ではなかったが、それ以上追及してくれるな!という無言のオーラが漂っていたので、クラスメイトは口を閉ざした。
2回に1回は机にぶつかったり躓きかけたりしながら席に倒れ込んだ澄蓮に、友人たちが慌てて駆け寄ってきた。
口々に家に帰った方がいい、せめて保健室で寝ておいでよ、と心配するのだが、澄蓮はそれら全てを却下した。
今横になったら確実に寝てしまう、寝たらまた砂漠でひからびかけてしまう、むしろそっちの方が拷問じゃん、という考えは昨夜から変わることがなかった。
一度でもサソリのような有毒生物、サボテンなんかメじゃないぐらいゴツイ植物、息をするのも一苦労な砂埃にまみれて砂漠を放浪すれば、二度と行きたいだなんて思うはずがない。
それに、澄蓮は砂漠で初めて出会った見知らぬ人物に、夢の中とはいえ殺されかかったのだ。
眠ると殺されるというのなら、起きて眠気と戦う方がどれだけ平和なことか。
チャイムが鳴り響き、友人やクラスメイトたちが心配げにしながらも教師の号令で各々の席へと戻っていく。
話しかけてくる人もいない今、今度こそ本当にヤバい、と思いながら、切れかかった糸のような意識で澄蓮は必死に教卓を睨みつけた。
遠目にうっすらと浮かんで見える教卓の木目が、だんだん怪物か何かの顔に見えてきた頃、不意に教卓が喋りだした。
「おい、芳村…お前、すさまじい顔して先生を睨んできているが、何かあったのか?」
訂正、教卓ではなく、教壇に立った教師が話しかけてきていた。
はっとして頬杖を外し、口の端から垂れそうになった涎を拭った。
「な、なんでもないです!」
「そうか…?というかお前、なんか雰囲気がすごいことになってるぞ」
「あはははは。気のせいです気にしないでください!」
気のせいじゃない、と全員の気持ちが一丸となった瞬間だった。
そんな具合で午前中はなんとか重たい瞼を持ち上げることに苦労していたのだが、昼食後の授業ではやはり眠気が襲ってくる。
それも今まで体験したことがないぐらい強烈な、うっかり意識を持って行かれそうになるような睡魔である。
教師たちの間でも今日の澄蓮が変だという話があったのか、大半の教師は澄蓮が眠らないよう意識して授業をしてくれていたのだが、中には疲れ切った澄蓮を無駄に気遣ってか、あえて放置する教師までいた。
確かに授業中に眠っていても、後々困るのは澄蓮だけなので、授業中に眠るのを放っておくこともできるのだが、この時ばかりはさすがの澄蓮も教師に逆ギレしそうになった。
その日の午後の授業には体育もあって、ふらつきながらも体を動かして眠気に対抗することができた。
帰宅時間になる頃には心身ともに疲れ果てて、もう砂漠でもどこでもいいから眠らせてくれ、とさえ思うまでになった。
雪山での遭難しかり、睡魔は生命の危機よりも手ごわい敵なのである。
明日は週末で、本来なら学校もなくのんびりできると喜ぶべきなのだが、今回はそれが死線だと澄蓮にも分かっていた。
いつまでも夢が怖くて眠らないなど、不可能なのだ。
それならいっそ明日は眠り続けて砂漠を越えてやろう、と思ったのだ。
二日前の夜、一昨日の夜と朝、そして昨日の夜。
合計4回、澄蓮は夢の世界…陽斗や貴司の言う『胡蝶』へ行った。
正確には、その中間地点に3回と、胡蝶の世界にあるらしい荊棘の砂漠に1回だ。
その全てを思い出して、気づいたことがある。
夢の世界『胡蝶』に行くにあたって、惜しむべきは、この現実世界の物を一切持ち込めなさそうだということだ。
ベッドで眠る時に澄蓮もパジャマを着こんでいたのだが、中間地点でも砂漠でも、いつの間にか学校の制服を身にまとっていた。
しかも中学の制服ではなく、今まさに着用している、和織高校のセーラー服である。
男子の学ラン、女子のセーラー、どちらも夏服冬服に関係なく、真っ黒で統一された暑苦しい制服だ。
和織高校は進学率がそこそこいいので、年中黒まみれという地味な制服の割に、地元では毎年競争率が高いことで有名である。
そんな、黒色のセーラー服を、澄蓮は夢の中でも着用させられていたのだ。
思い出せば、あの陽斗(と、貴司も?)が、学ランを着用していた。
毎日8時間近く着続けている制服は、ひょっとしたら夢の世界では、現実世界の人間が着るべき服として設定されているのかもしれない。
それに、もし現実世界の物を持ち込めるシステムだったのなら、パジャマはもちろん、布団やベッド、枕も一緒に夢の世界になければおかしい。
登場人物や記憶などが、現実とこれほどにリンクしている夢だというのに、肝心なところで現実味が欠けている。
そのことを、必死に考えている自分に、澄蓮は自嘲さえできなかった。
頭が痛いのは、これが夢じゃない、現実に起こっていることなのだということだった。
そして我が身に降りかかっている災難であるということも。
2回目の夢で、陽斗が言っていた言葉を思い出した。
『もっとこう、嫌がったり抵抗したり不眠してやる!って戦いを挑んでくるんやと思ってたんやけど…』
(ああもう、そうよ!今まさに負け戦に挑んでる最中よ!滝先輩のばーかー!)
腹を括って、夢での戦いに備えよう。
何度目かの溜息を吐いた、ちょうどその時だった。
人気がない、閑静な住宅地には不釣り合いな、金属をぶつけ合うような音。
それも不規則に何度も何度も響く音に、澄蓮は眉をひそめた。
昼間とはいえ、こんなに大きく響きわたる音を出していたら、近所の人たちに迷惑だ。
いったいどこの悪ガキだ、とイライラしながら、音が発生する方向を見た。
その金属音は、ちょうど澄蓮の斜め上から発せられていた。
二階建ての、黒い屋根の、その上。
どこかで見たような、黒と茶と紫紺のマントが、それぞれ銀色の剣を手に、戦っていた。
「……あれ、どうしたんだろあたし…。眠すぎて幻覚と幻聴まで…?」
ありえないとは思いつつ、自分でもわざとらしいと思いながら目を擦る。
それでも、眠さでぼやけかけた視界には、三つのマントがはためいていた。
今度こそ、澄蓮は絶句した。
「…夢じゃない」
道の真ん中で呆然と立ちすくむ澄蓮を、道行く人々が不思議そうに見て、次々とその視線の先を追う。
そして、澄蓮と同じように、ぽかんと口と目を開けて立ちすくんだ。
澄蓮だけではなく、どんな誰が見ても、それは消えなかった。
滝陽斗の『まじかるぱわー☆』は、とうとう無関係な一般人を含む、現実世界へと侵入してきたのである。
人々がざわめき、ついには閑静な住宅地の道いっぱいに、人が集まってしまった。
誰が呼んだのか、警察まで到着して、屋根の上に向かって叫んでいる。
おもちゃだと思われている剣が、実は本当によく切れる真剣だと分かったら……。
一度殺されかけた澄蓮には、人々がパニックになるだろうことが、直感のように分かった。
「森谷先輩…!」
早く、早くどこかに行ってちょうだい!
そう切実に願った澄蓮の心の声が届いたのかどうかは分からないが、黒いマントを羽織った人物が澄蓮に気づいた。
場所も時間も違うが、目深に被ったフードの下の視線と澄蓮の視線が交差したことが、昨日の夢とデジャヴした。
「――――――――!」
紫紺と茶が接戦している、その隙を見逃さず、貴司が澄蓮に何かを叫んだ。
遠くにいるため声は聞こえなかったが、その手が投げてきた何かは、澄蓮の足元に吸い込まれるように落ちてきた。
「な…鎖っ!?」
普通に売られているアクセサリーよりも遥かに太い、駐車場や廃墟などの立ち入りを禁止する際に用いられるようなごつい鎖が、澄蓮の前に投げ出されていた。
色は金色で、長さは30センチそこそこ。
留め具もなければ使われたような傷もない、ただの綺麗な短い鎖だった。
ひどく痛い周りの視線にびくつきながら、おそらく澄蓮に渡されたのだろう鎖を拾い上げた。
落ちた時の重たい音といい、なめらかな手触りといい、素人目ながら高価そうだった。
本物の金属なのだろう、ほんの少し、貴司の体温が残っていた。
「…逃げろ!」
貴司とも紫紺の人物とも違う、幼い女の子の鋭い声が、澄蓮に向けて放たれた。
驚いて顔を上げた澄蓮に、またしても昨日のデジャヴが襲う。
紫紺のマントが、屋根を伝って、澄蓮へと駆けてきていた。
それを茶と黒が追い、茶色のマントからは針のような細い銀が何本も放たれた。
とっさに紫紺はマントや剣でそれを弾き、先に茶色の人物を片付けようと考えたのか、小柄な体に剣を振りかぶる。
周りから悲鳴が上がったが、茶色の人物は軽やかに後方へ跳び、その銀閃から逃れる。
陽斗が言っていた、アサシンや忍者の職業の人間、という言葉を思い出すほど、すばらしい身のこなしだった。
その後は、分からない。
ただ、飛んでくる銀の刃(漫画で見るようなゴツイ針?)から逃げ惑う人々に触発されたように、澄蓮も逃げた。
眠さと混乱と恐怖でパニックになりながら、最も安全だと考えられる、自分の家に向かって。




