閑話.茜色の病室
森谷貴司は白く大きな箱のような病院が、昔から好きではなかった。
柔道をしている身なので医者に世話になることは多いが、どうかと言うと近所の小さな診療所の方が好きだった。
特に体が悪くなさそうな老人でも世間話に来れるような、手軽な親密さが好きだった。
だから、彼の親友が大きな病院に入院したと聞いた時は、少しばかり顔をしかめてしまったものだ。
何度か訪れた部屋まで進む途中、見慣れた人々を目にする。
手足に包帯を巻いている、車椅子に乗っている、点滴を手に歩いている、虚ろな目をしている、何人もの老若男女。
『あちらの世界』で何度となく目にした風景だった。
とんとん、と白い扉を叩く。
反応はない。
まだ寝ているのだろう、と判断して、扉を滑らせた。
中を覗くと案の定点滴をつけた胡桃色の髪の男が、なんとも穏やかな表情で『夢の世界』に旅立っていた。
「…ったく、平和そうな顔で寝てんなぁ」
呆れを通り越して羨ましい。
脱力しながら扉を閉めてベッド脇の椅子に座った。
枕元の花瓶には、二宮和奏が好きだと言っていた花が活けてあった。
バラの花と、どこかで見たことがある花と、それを包み込むように小さな白い花が囲んでいる。
彼女がいたなら、マリーゴールドとかすみ草だよ、とハッとするような笑顔で答えてくれただろうが花に興味がなかった貴司には分からなかった。
ただなんとなく、これを持ってきたのは陽斗の幼馴染である彼女なのだろう、というのは分かった。
「お前、まさか二宮さんが来た時も寝てたとか言わないよな?」
なんとなく、陽斗の長めの髪を撫でた。
女装したらさぞかし似合うだろうな、と仲間の中村雅樹が言っていた言葉を思い出す。
そう言って挑発していた中村自身がそれほど男っぽくはなかったのは、あえて言わなかった。
まあ、陽斗が鼻で笑って挑発し返していたから、言う必要がなかったという理由もあるのだが。
ちょっと生意気で偉そうな、ほんのちょっとだけ可愛い悪友だ。
弟がいたらこんな感じだったかもしれない。
「そういや今日、芳村澄蓮って子が訪ねてきたぞ。なんか、俺たちからすれば珍しいぐらい、普通の女の子だったよ」
茜色の空が、揺れるカーテン越しに眩しい。
外から子どもが笑う声が聞こえた。
それをなんとなく聞きながら、貴司は独り言を続けた。
「中村によく似た感じの、リアリストっていうか、考え方が慎重そうな感じの、普通の子だった」
外から微かに香りがした。
病院ではもう夕食を作っているらしい。
そういえば腹が減ったな、とぼんやり思った。
「俺たちは大丈夫だ。大丈夫だからさ…巻き込むなよ。あんないい子、俺らの事情に巻き込んでやるな」
よほど深く眠り続けているのか、陽斗の瞼は震えることさえない。
点滴がぽつぽつと雫を垂らすのを横目に、貴司は大きく息を吐いた。
もう一か所、行かなくてはいけない場所がある。
多少遅れても彼女は笑って許してくれるだろうが、それでも連絡を入れないと心配させてしまう。
病院では携帯電話は使用禁止だから、それも考えると、もうそろそろ外に出なければならない。
荷物を肩にかけなおして、貴司は椅子から立ち上がった。
そして少し笑って、眠り続ける親友に伝えた。
「今から本条さんの家に行ってくるよ。…俺と本条さんの二人きりになるけど妬くなよ?彼女放って寝てるお前が悪いんだからな」
いつまでも寝続けて返事をしない親友にちょっとした意趣返しも兼ねてデコピンをしておいた。
それでも反応がないのが、少しだけつまらなかった。
陽斗入院から2週間。
ずっとこんな調子だったため、会話をした記憶がなかった。