03.生成り色に濡れた意識
持久戦だ、と迫りくる眠気を、腕をつねったりお茶を飲んだりとごまかして、なんとか対抗する。
のだが、昼食を済ませた後の満腹感と疲労が、強烈に危ない。
一緒に食事をした友人たちが心配そうに尋ねてくるが、寝不足なのだと誤魔化すしかなかった。
きっちり7時間は寝ているんだけどね、とは言えない。
拷問のような授業が終わり、このまま帰宅してベッドに飛び込みたい誘惑に襲われたが、戦うと決意した以上、それもできない。
寝不足でふらふらしながら荷物をまとめ、コーヒーを買いに行こうと財布の中を確認した。
そんな時だった。
「えーと、ちょっといい?芳村澄蓮って子、このクラスにいるかな?」
低い声が、澄蓮の耳に届いた。
帰宅してまばらになった教室の前の扉に、背の高い男性が見えた。
蛍光灯の光で、短い髪がこげ茶色に天使の輪を作っている。
ドーベルマンみたいな人だな、というのが第一印象だった。
知らない人だった。
クラスメイトがその人物の言葉に頷いて、澄蓮を振り返った。
「あ、はい、いますよ。澄蓮ちゃん、お客さんだよー」
「うん、ありがとー」
話を聞いたらそのまま帰ろう、と荷物を持って男性の所へ行く。
日本人女性の平均身長はある澄蓮よりというのはもちろん、クラスの男子の誰よりもきっと身長が高いだろう彼は、目元を和らげて親しみやすい笑顔を見せた。
「あ、君が芳村澄蓮、さん?遅くなってごめんな。2年の森谷貴司です」
「……もり、や…?」
もりや…モリヤ……森谷?
『森谷貴司は、和織高校2年3組、柔道部副主将で全国大会ベスト8の実力者なんやで』
自慢げに言った、陽斗の言葉を思い出して、思わず目を見開いた。
「あ、あ、あなたが、あの滝先輩の…!?」
「まあ、悪友かな?」
森谷貴司は、あの変人とは全くベクトルが正反対に育ったような、完璧に普通の男性だった。
ていうか、これはちょっと…格好良いぞ、この人!
「てか、いきなり来たけど、今大丈夫かな?」
「大丈夫です大丈夫です!もう帰ろうかなーとか思ってたんで…」
「そっか。よかった」
思ってもみなかったタイプの先輩の出現に顔が火照るのを必死に隠す。
滝陽斗が狐っぽいので、森谷貴司は同じく狐か、もしくはそれを上回る変人なのだろう、と思い込んでいたのだ。
まさか、こんな好青年だとは…!
この人なら助けてもいいかも、と一瞬考えが揺らいだが、それでも陽斗の言いなりになるのは癪だし、と頭を振る。
「じゃあ、この後ヒマなら、ちょっと付き合ってくれるかな?」
「え?どこにですか?」
「隣町にある病院だよ。陽斗が入院してるし、見舞いに行く日だからさ」
本人も入院しているのだと言っていたことを思い出し、澄蓮は顔をしかめた。
会いたくない、というのが本音だ。
「えっと…ちょっと、用事があるんで…」
言葉を濁した澄蓮を追及せず、貴司は残念そうに「そっか」、と身を引いた。
それなら途中まででも、という流れになり、駅まで一緒に帰ることになった。
見舞いに行くということで、部活は休んだらしい。
親友には恵まれているんだな、と今だけは心底陽斗を羨ましく思った。
友人に貴司と帰ると伝え、にやにや笑われながら快く送り出された。
おいおい、何を邪推しんてんですかい。
途中途中で部活中の生徒たちから声をかけられ、軽く話をして手を振る貴司は、どう見てもあの変人と親友(悪友?)という図が想像できない。
やっぱり何かの間違いなのでは、と何度も確認したくなった。
校庭で掛声を出す野球部を横目に、校門を抜ける。
「…で、胡蝶の話だっけ」
「あ、はい。…夢の中で……って、やっぱりあれって…マジな話なんですか?」
「マジな話だぜ?ありえねぇ話だけどなー!…ひょっとして、陽斗にも確かめたりした?」
「はあ…まあ、何回か…」
それがなにか?と首を傾げた澄蓮を見て、貴司は困ったように笑った。
「アイツ、自分が誠心誠意伝えた言葉を信じてもらえないってのがものすっごい嫌らしいんだよ。怒られなかった?」
「………」
怒られたこと?
確かめればいいと言われて、実際教室に確かめに行って、それでも信じられなくて夢の中でありえない、と言ったけれど…。
小馬鹿にされたり、ちょっと呆れられたりはしたけれど、怒られたことは…ないと思う。
否定するように首を振った澄蓮を見て、貴司は驚いたように口をつぐんで、少し考えた後、ゆるりと口の端を上げた。
どこか楽しそうな笑みだった。
「へぇ…珍しいな。あいつ良くも悪くも平等でさ、老若男女問わず結構厳しいんだけど……そっか、なら良かった」
「良かったって…?」
「いや、俺もあいつに怒られて泣く子たちを見てきたからさ。でもまあ、良かった」
「あ、あはは…」
気をつけよう、と澄蓮は心に刻んだ。
駅に続く通りは大きく、商店街と混在しているので今の時間帯は主婦と学生が多い。
貴司とはぐれないように気をつけながら、人混みでかき消されないよう、澄蓮は声のボリュームを上げた。
「先輩は、どうして砂漠にいるんですか?滝先輩に、行くように言われたんですか?」
「いや、自分の意思だ。あいつ、胡蝶で今ちょっとヤバいことになっててさ、俺らで助けてやろうってことになってるんだよ」
「…ヤバい、こと?」
「ああ。…あいつ、話してないのか」
胡蝶と現実を繋ぐ中継点、あの暗闇の中で、昼間も寝ているらしく、今朝うっかりうたた寝した時もあの場所で出会った。
ひょうひょうとした笑顔を浮かべる、あの陽斗がヤバいことになっているとは、澄蓮には思えなかった。
「まあ、それで…俺は砂漠を越えた先にある国を目指してるんだ。他のやつは別の場所で方法を探してる」
「…夢の、中で…?」
「夢の、中で」
に、と笑う顔からは、少しだけ複雑な何かの気配がした。
嘘を言っているようには、見えなかった。
鞄を握りしめ、雑踏にもまれながら、不可解な現実に、自分だけが取り残されたような気がした。
「じゃあ、この辺で。…っと、『胡蝶』で会うかな?」
その言葉には、答えられなかった。
とりあえず、予定通りコーヒーの購入はしておいた。
「あら澄蓮、お風呂空いたわよ。あんまり遅くならないようにしなさいね」
「お母さん…あたし、寝たくない」
コーヒーを注いだカップを手に、いつになく神妙な顔で呟いた娘を、母親は不思議そうに見た。
そういえば昨日からどこか疲れているような気がする。
ならなおさら、どうして寝たくないなどと言うのだろうか。
考えても特に思い当たる点がなく、母親は台所の始末をしながら答えた。
「変な子ねぇ。そうだわ、寝ないなら勉強しておきなさい。あなた最近小テストの点数が良くないって言ってたじゃない」
「……お母さんなんか嫌いだ…」
まあ反抗期?と楽しそうに笑う母親をかわして、澄蓮は風呂に向かった。
温かい風呂に浸かれば、少しは眠気がなくなるかもしれない。
入浴剤で白く濁った湯から、やわらかく花の香りが漂う。
ほっとしながら髪や体を洗って、風呂に浸かった。
足先からしびれるように温かさが伝わって、ほっと息を吐くことができた。
「…胡蝶…って、胡蝶の夢とかいう胡蝶なんだよね…」
眠っている間に見た夢で、自分は胡蝶になっていた、そして目覚めてみると自分は人間である。
はたしてどちらが夢なのだろうか。
古典の授業で習った、確か、荘子という人が言っていた話だったと思う。
湯に顔を浸けて、息を吐く。
ぽこぽこと小さな泡が風呂の表面で弾けて消える。
膝を抱えて顎を乗せて、とりあえず今夜のことを考えた。
寝たくない、けれど今もまだ眠たいということはコーヒー大作戦も失敗なのだろう。
それに明日も学校がある、体を休めないといけない。
どうすればいいんだろう。
あ、ちょっと、ねむ い ―― ― ― ――
ゴォォ…ウ
風が大きく響く、奇妙な音が聞こえた。