29.紅消鼠、鎖を巡る宵
人体が燃える描写があります。
ご注意ください
ネオンの髪が、人間の持つ色ではない色に、見えた。
しかし直後に夕日が沈み、仄明るい夜空になり、鮮やかに輝いて見えたネオンの髪は再びオレンジに戻った。
…ただし、アジックの家に泊まった夜に見たのと同じ、蛍光色のオレンジ色だったが。
太陽の光の下では染めた髪でさえ本来持つ色に見える。
逆に、太陽の直接の光でなければ、本来の色を見られることはない。
つまり、ネオンの髪は本来、鮮やかな蛍光緑だったというわけだ。
「お前…『神の国の使者』か…ッ!?」
刃に絡みついたネオンの髪…ウィッグとネオンの髪を見比べ、雪猫は顔を歪めて忌々しげに呟いた。
神の国の使者…神とはつまり、澄蓮たちが今いる西国『魔王の国』と、砂漠を挟んだ反対側…東国『神様の国』を指すのだろう。
使者、というのは分からないが、雰囲気から、ネオンは敵国のスパイだとでも思われているのだろう。
正直に言って、澄蓮にとっては西国も東国もどちらも同じ、『胡蝶の世界』での国の区切りだ。
澄蓮たちにとっては文字通り、世界が違う話なのだから。
端的に言えば、遠いアフリカの国々の境界線、人の違いが、日本で平凡に生きていた澄蓮には区別ができないのと同じ。
だが、胡蝶の世界の人々にとっては…特に搾取されるばかりの西国にとって、東国は憎悪の対象らしく。
簡単に言えば。
ネオンは今、命の危機にある。
ネオンを助けなければならない、澄蓮の頭はとっさにそう判断した。
完全に雪猫の意識から外れていた澄蓮は、今にも刃を振り上げんばかりにネオンを睨みつける雪猫の身体を、思いきり突き飛ばした。
少しでもバランスを崩して倒れてくれれば、その間にネオンを逃がすことができるのではないか、と。
そんな浅はかな考えで動いた。
「っ!」
「ぐ、っ」
澄蓮が思ったよりも雪猫の身体は大きく揺らぎ、その華奢さに背筋が冷たくなった。
マントの下の身体は、突き飛ばしたてのひらに刺さるのではないかと思うほどに、骨ばって痩せ細っていた。
よく見れば眼の下のクマや肌の荒れもあるため、最初から痩せていた、ということはないはずだ。
恐らくミトワ…雪猫と共にいた勇者の死がきっかけなのだろう…。
雪猫自身も、胡蝶世界の人間よりも遥かに運動をしなさそうな少女などに、自分が突き飛ばされるとは思いもしなかったのだろう。
舌打ちをし、ネオンを見る目と同じ憎しみを込めた目で澄蓮を見下ろし、魔術か武器か、何かで攻撃しようとした。
が、その攻撃は澄蓮の届くことはなかった。
腹の底に響くような、ネオンの力のある声で発動した魔術によって。
「『落ちろ』ッ!!!」
「うあッ!」
「ひゃっ!?」
情けない悲鳴を上げて地面に座り込んでしまった澄蓮の目の前で、雪猫の体が地面に吸い込まれるように消えて行った。
「え……えっ!?は!?え、地面…えっ!?」
澄蓮が座り込んでいる場所は何も起きてはいないが、体の下、地面の深い場所が、うごうごと疼くように脈動しているのが分かる。
大地の蠢く音や僅かな響きが、生物的に受け入れられない恐怖心を煽る。
不気味で怖い。
いや、そんなことはどうでもいい。
ネオンの髪の色も気になるけれど、それだって、もういい。
それよりも今すべきは逃げることだけ。
「ネオン、行こう!」
「は…はいっ!」
悲しげに揺れていたネオンの目が、澄蓮の言葉で力を取り戻したように決意に満ちた。
こっちです、と砂漠の方面を指さしたネオンに先導され、その場から離脱するために駆けた。
しかし、直後に響いた叫び声に、数メートルで足が止まった。
「ぐ、あああっ!!!」
「主ッ!?」
人の悲鳴なんて、そうそう聞いたことがない。
ましてや、命が削られるような叫び声なんて。
立ち止まってはいけない、振り返ってはいけない。
振り返ったっていいことがないなんて、神話でもあるように大昔から分かっていることなのに。
それでも、澄蓮は立ち止まってしまった。
立ち止まって、振り返ってしまった。
「え、うそ」
目の前で、人が、燃えている。
貴司の右半身が、炎に包まれている。
炎を振り払おうと踊るように暴れている。
タンパクの焼ける臭いが立ちこめる。
巽が叫びながら、マントで炎を抑えようとしている。
生きながら人が焼かれている。
まるで、それは地獄絵図のようだった。
「も、りや、せんぱ―――」
「スミレさん、早く…」
澄蓮が悲鳴を聞いて立ち止まったと気付いたネオンが振り返り、澄蓮と同じようにその光景を見てひゅっと息を飲んだ。
時間はさほどかからなかった。
攻撃を与えている側だというのに、まるで自分が炎に包まれているかのように脂汗をにじませたカーサが、腕を軽く振り、貴司にまとわりつく炎を消し去ったからだ。
貴司の腕が…制服のように真っ黒に焼けた右半身が見えた。
それでもう、限界だった。
「っう、ぇ…っ…」
胃がぐずぐずと嫌な痙攣をして、澄蓮はたまらず嘔吐した。
人が、生きたまま焼かれた。
ギリギリまですり切られて、それでもなんとか保っていた精神の糸が切れるには、それでもう十分すぎた。
「おのれ…っ…貴様あああっ!!!」
武器を手に、巽がカーサに飛びかかった。
激情に駆られた直線的な巽の攻撃は、魔王軍を裏切るほどの実力者であるカーサにとってはたやすくいなせるものだった。
日が暮れて、周りで燃える炎の光だけでも分かる、カーサの表情。
かつての仲間に対する罪悪感なんてみじんも感じられない顔で、カーサは小柄な巽の体を吹き飛ばした。
巽は子どもの人形のように軽々と吹き飛び、貴司が作った植物の壁にぶつかり、気絶したのかぴくりとも動かなくなってしまった。
その一連の流れを呆然と見ているしかできない二人の前で、カーサは貴司の体を軽く押さえるように触り始めた。
鎖を探している。
それを察し、澄蓮よりも早く我に返ったネオンが澄蓮の腕を掴んだ。
「す、スミレさん!立って!」
「あ…え……」
「逃げないと…っ!」
「逃げる?なるほど、あなたが持っていたんですね」
巽の体も調べ終えたカーサが、澄蓮に狙いをつけた。
冷たいまなざしに体が震える。
そんな澄蓮を見て、ネオンが庇うように澄蓮の前にしゃがんだ。
そして後ろ手でそっと澄蓮の持つ鎖を奪い取り、そっと囁いた。
「スミレさん…すみません!」
「…いっ!?」
バチッ、と指先に静電気が走った。
ハッとして痛みの走った指先を見下ろすと、ネオンが石を持った手を澄蓮に当てていた。
呆然としていた澄蓮に発破をかけたのだとすぐに分かった。
(逃げなきゃ…そう、逃げないと…!)
震える足を掌で思い切り叩いた。
立たなければ。
そう思うのに、足に力が入らない。
カーサはゆっくりと近付いてくる。
もどかしさ、焦り、泣きたくなるような気持ちが渦巻いてどうしようもない。
「血の密度を炙れ、苦い燐火に焦がれ尽き、燃え広がれ…」
後ろ手に澄蓮の手を包み、ネオンが言った言葉。
3頭目の羊の出産で、ネオンが言っていた魔術の言葉だ。
ぼう、とネオンの手が魔術の炎に包まれて光り、その光が澄蓮の体を包んで溶け込む。
すると途端に震えが止まり、カッと燃えるように、体中が熱くなった。
「走って!」
「っ、うん!」
「あなたを行かせるわけにはいかない…!」
振り返り砂漠の方へと走り出した澄蓮の行く手を阻もうと、カーサが出した炎が追跡してきた。
じわじわと距離を詰めてくる炎の熱と光に挫けそうになる心を奮い立たせる。
もし澄蓮が捕まってしまっても、鎖はさっきネオンが澄蓮から取り上げていた。
カーサが澄蓮を追う間にネオンが逃げ切れば、こちらの勝ちだ。
必死に走る澄蓮の背後で、ネオンが大きな声を出した。
「『落ちろ』!」
雪猫を地面の中に閉じ込めた魔術だ。
これでカーサを閉じ込めることができれば。
そんな澄蓮の考えを粉々に打ち消すように、地面が震動した。
「鎖、を…渡せッ!!!」
「っ、雪猫…!?」
地面を割って澄蓮の背後にあらわれたのは、どろどろに汚れて、けれど燃えさかる炎よりも強烈な目をした雪猫だった。
6年ぶりの投稿となります。お久しぶりです!
澄蓮の冒険はまだまだ始まったばかりです。
今後もよろしくお願いします。