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魔王の見る夢  作者: 木枯 雪
1章
35/41

28.#2dff2d、鮮やかに広がる

ネオンに力強く言ったはいいが、まだ体の力が十分に戻らない。

敵意と炎に囲まれて、大量の血を見て、平凡に生きてきた澄蓮にはショックが強すぎたのもあるが。

何より先程カーサにされたことが、澄蓮の体を奇妙なものに作り替えてしまったように思えた。

あの行為はカーサの口ぶりからするに、おそらく、澄蓮が持っていたであろう魔力を抜き取ったのだろう。

まだこの世界に来るようになって数日、澄蓮にとってはまだまだ未知の存在である魔力。

それを抜き取ってしまったということは、命に関わる問題になるのだろうか。


滝先輩は身体・魔力・命・知識・それらを繋ぐ物、の5つに分けられた、と聞いた。

なら、それらの1つ、魔力を抜き取られたあたしは?


気付くと同時に襲い掛かる死への恐怖に、勝手に体が震えてしまう。

目の前のものが見えているはずなのに見えなくなるような。

そんな澄蓮の怯えを、カーサの炎への恐怖と思ったのだろう、ネオンが澄蓮の手を包むように握りしめた。



「スミレさんは、僕が守ります。行きましょう!」



ああそうだ、今は魔力なんてわけの分からないもののことを考えている場合じゃない。

早く助けに行かないと、死んでしまうかもしれない人がいる。


そのことを思い出し、澄蓮はぐっと歯をかみしめ、前を見据えた。

急がないと。

だけど…カーサは澄蓮の魔力を抜いたとはいえ、敵であるに変わりない澄蓮の不審な行動を見逃すような人間ではないだろう。

カーサの腕に巻きつくように、髪と同じ赤とオレンジの明るい炎がうねる。

下手をすると、あの炎で丸焦げにされてしまうかもしれない。



「…だけどネオン、大丈夫なの?」



「いくつか対策は考えたから、大丈夫」



そう言ってネオンが作業着のエプロンのポケットから出したのは、アジックの家で羊の出産を手伝った時にも見た、キラキラと炎の色を乱反射する色とりどりの鉱物。

相手が使う魔術のことばかり考えていたが、こちらにも生粋の現地民、ネオンがいる。

しかも最年少で細工師になった、超一流が。



「……分かった。火が飛んできたらお願いね!」



「…はい!」



お互い青い顔をしながら、しっかりと頷きあった。

シェイラとカインに対するカーサの様子をうかがいながら、できるだけ視界に入らないように、走る。

たてる音は最小限に、できるだけ気配を殺すようにしながら。

けれど早く、早く。

そんな時だ。

不意に漂ってきた、異様な臭い。

貴司が出現させた草が燃える臭いや炭の臭いはさんざん嗅いだが、それとは明らかに異なる…異臭。

例えるなら腐った卵か何かのような…生ゴミを数十倍濃密にしたような、吐き気のするような臭さ。

思わずせりあがる何かを抑えようと、澄蓮はとっさに口を覆った。



「スミレさん、待って!」



口を覆い異臭の元を気付かず目で探していた澄蓮に、ネオンが叫ぶ。

その突然の声に、澄蓮もビクッと動きを止めてしまった。



「へ!?」



「あそこに人がいる!」



「え、ええっ!?ちょっ、ネオン!?」



ネオンが走り出した。

驚く澄蓮をその場に置いて、ラルダの向こうの家、若い夫婦が住んでいた家の影に走った。

その先に、確かに何かがあった。

夕暮れの家の影で、黒っぽく見える塊。

遠目ということもあって澄蓮には布の塊にしか見えないが、ネオンにはちゃんと人と分かったのだろう。

そうだ、まだ人がいるなら早く避難させないと、無関係の人が危ない目にあってしまう。

急いでネオンの後を追いながら、澄蓮は漂う異臭が徐々に強くなるのをはっきりと理解した。

もしかして。

いや、もしかしなくても、この臭いを発しているのは…。

それよりも待て、なぜあんな場所に人がいる?

村人たちは全員こことは反対の村のはずれに避難した、とネオンが言っていたじゃないか。

ネオンが全員の村人と言ったのだから、そこには村人が一人も欠けることなくいたのだろう。

なら、あそこにいるのは?

村の外から来た客人?

でもこの数日、村の外から来た人間は澄蓮とシェイラ、カインだけのはず。


『何もない普通の村ですから、外からの方が来るのは珍しいもので…』


澄蓮が初めてネオンと話した時、ネオンはそう言っていた。

でもここには村人ではない誰かがいる。

…そういえば、澄蓮たちとは違う、村の外の人間もいる。

カーサと、テンラ。

あれは誰。

…まさか…!?



「ここは危ないです!早く安全な村の外れに行ってください!」



「………」



「立ってください!早くっ!…もうっ!スミレさん、すみませんが手伝って……スミレさん?」



「ネオン!だいじょ…ぅ、ぶ……」



家の影に隠れるようにうずくまる、黒っぽい布を羽織る人。

その人の腕を引っ張るネオンに離れるよう言おうとして。

澄蓮は言葉を失う。

強烈になった異様な臭い。

特に顔をしかめたりもしていないネオンには、こんなにも凄まじい異臭が分からないのだろうか。

いや、それよりも。



「…血が…」



澄蓮の目には、はっきりと見えた。

布を羽織る人物の奥に流れる、赤黒い液体。

そして布の端に染みついている、赤茶色のかさついた何か。

澄蓮にはわかった。

あれは人の血液なのだと。



「血…?スミレさん?」



不思議そうに首を傾げたネオンの奥で、ぎらり、と光が見えた。

暗闇にも関わらず、鋭く光る瞳。

昼間の空のような青色だったが、今は暗く濁っているようだった。



「…お前が魔王の代理か」



「っ!」



息を詰めた澄蓮の首に向けられたのは、鋭い切れ味だと分かる刃物。

先端がくの字に折れた三本の刃。



「え…?すっ…スミレさんっ!ちょっと、スミレさんに何を…!?」



間に割って入ろうとするネオンだったが、すぐにその刃は退けられた。

敵と思って身構えた澄蓮とネオンにフードの人物は囁くように呟いた。



「…お前は殺さない。ミトワは、それを望まないから」



ミトワ。

聞いたことがない名前だ。

ちらりとネオンを見ると、ネオンも知らない名前なのか、澄蓮を庇い不思議そうな顔をしていた。

あまり有名ではない名前、そして澄蓮を魔王の代理と呼んだ意味。

陽斗の知り合い、にしては、敵意をぶつけてきている。

それらを総合して、澄蓮の頭には一つの答えが導き出された。



「ミトワ……勇者の、人?」



まさか、と思いながら言った言葉は、肯定された。

そしてネオンを押しのけ、澄蓮の胸倉を掴み上げた彼は、激情を露わに血を吐くように叫んだ。



「ああ。神からも、世界からも、この国を守るはずだった男だ。…魔王の魂を持つ女。よく覚えておけ、僕が仇のお前たちを殺さないのはミトワが望まないからだと。お前が生き長らえるのはミトワのおかげなのだと…ッ!」



「かは…っ!はぁっ、は…はっ……」



手荒に突き放された澄蓮は呼吸が十分にできなかったため、呼吸が乱れた苦しみに涙をにじませた。

まさか…まさか、こんな場所で、こんな風に、勇者とつながりのある人物と出会うだなんて、思ってもみなかった。

そもそも陽斗が何も言わなかったために、勇者は一人で行動していたものだと思っていたのもあるのだが。


『あいつなー…俺の身体とか使って勇者とかベコンバコンにしてもーてん。ゲログロのぐっちゃぐちゃ!』


陽斗からそう聞いていた澄蓮は、こちらには一切責任がないものだと思っていた。

勇者を殺害した責任はカーサにあるものだと、疑うこともなく信じ込んでいた。

だが、少なくとも彼にとっては、勇者を殺害したのは体を操られていたとはいえ魔王であった陽斗のせいだと思い込んでいるらしい。



「スミレさん!っあ、あなたは一体何者なんですか!どうしてスミレさんにこんなことを…!」



地に崩れた澄蓮の前に立ち、必死に相手を睨みつけるネオンに、彼は何を思ったのだろう。

ふと一瞬、憐憫にも似た表情を浮かべたのを、澄蓮は見てしまった。



「僕は…『雪猫』」



ゆきねこ。

本名ではなくあだ名なのだろう、苦しげに、愛おしげに、彼は自らの名を胸に抱くように告げた。



「勇者の見張り、だった。その女は魔王の同類、いたずらに害なす存在。僕たちの敵だ」



だから退け、その女の身柄を渡せ。

自分と同じ国の民だから、自分と同じように魔王を憎んでいるだろう。

そんな仲間意識が働いてか、彼はネオンに警告するように言い、マントから時折覗き見えていた刃物をゆるりと動かした。


斬りつけられる。

砂漠で味わった死への恐怖が再び湧き上がり、身を固くする澄蓮に気付いたのか、ネオンがあえて一歩前に踏み出すようにして澄蓮を庇った。



「敵って…スミレさんは良い人です!タカシさんだって、魔王様…ハルトだってそうです!害なすだなんて、そんな悪いことをする人たちではありません!」



「ふっ…あはははっ!」



心底おかしくてたまらない。

そう言いたげに、腹を抱えて雪猫は笑った。

まるでもう、狂ってしまっているかのような、笑い声で。



「さすがだよなぁ?なぁ、魔王の代理!何一つ真実を知らない無垢な子を盾にできるんだからさぁっ!どうやって誑かしたんだ?なぁっ!?」



「そんな!あたしはそんなこと…っ!」



「…行きましょう、スミレさん」



身に覚えのない、いわれのない罵詈に反論しようとした澄蓮の手をとって立たせ、ネオンは歩き出した。

普段の柔らかな物腰のネオンにしては強引に澄蓮の手を引き、いまだに笑っている雪猫を背に、ずんずんと進む。



「あの人の言葉に迷わないでください。僕はたぶらかされてないし、スミレさんの盾でもない。…みんなが思うほど、無垢でもない」



モヤモヤと湧き上がる澄蓮の不安や怒りを拭い去るように言い、珍しくも怒りをにじませる声音でネオンは言った。

最後にぽつりと呟かれた言葉は…周囲の人々から無垢だ純粋だと言われ守られてきたネオンの本心なのだろうか。



「ネオン……」



言うべき言葉が見つからず、戸惑う澄蓮を励ますように、ネオンが振り向いた。

振り向いて、いつもとはちょっと違う笑顔でしっかりと告げた。



「僕は、僕がしたいことをしているだけです。それを忘れないでください」



「……ありがとう、ネオン」



二人で、互いに強く手を握り合った。

ネオンの言い方はとらえ方によればそっけないものだったが、心に余裕のなかった澄蓮には、善意の押し付けではないその言葉選びは何よりありがたかった。

この場にネオンが居てくれたことを感謝し、澄蓮もまた、まっすぐに前へと進んだ。



再び慎重に周囲を伺い、しかし急いで歩く二人は、見ている景色にふと違和感を感じた。

見ればいつの間にかシェイラとカインが互いの武器を取り替えている。



「…ネオン、あの杖って…カインさんにも使えるの?」



「ラファエルさんの波長と魔力の転換方法、それから目的とする魔術の発動方法が合えば、……稀に」



「へぇー…」



紫電を纏うシェイラが緑の弾丸のごとく大剣を振り回して暴れまくり。

それをサポートするようにカインが周囲の木々を地面ごと切り刻んで道を作り。

対するカーサが全てを燃やし尽くさんばかりの火力で応戦している。


音と熱と暴風と石つぶてが半端ない。


若干現実から目をそらしたくなるようなすさまじい戦場を横目に、ネオンの指示に従って炎や雷の魔術を避けて二人は走った。

足下の植物のほとんどはすでに炭となっていたため、足が真っ黒になった以外は特に邪魔になることはなかった。

炭や草木の燃える臭いが一層強くなった場所。

一際大きな炭の柱が立つ中、二人は焚き火ほどの小さな火に囲まれた貴司と巽の元へたどり着いた。

澄蓮が最後に見た時のまま気を失っているようだった。

ネオンが息を呑み、力無く、なんてことを、と零した。

酷い怪我の上に気絶したままの二人を見て、ネオンと一緒に来てよかった、と思った。

奇妙な感覚の残る体のまま、澄蓮一人でこの二人を安全な場所へ運ぶのは相当難しかっただろうから。



「ネオン、森谷先輩をお願い!」



「は、はい!」



澄蓮は煤と血で汚れ果てた巽の側に寄り、血の気の失せた頬に手を当てた。

白い肌が煤で汚れてしまったが、体温も息もあることを確認して安堵する。

巽の両腕ごと突き刺さった植物の壁の名残を見、巽を下ろすことを躊躇った。

体を貫通したものを引き抜けば、血が大量に流れ出て失血死してしまう可能性がある、と聞いたことがあったからだ。

だがこのままでは巽の体重を受け、腕が切断されてしまうかもしれない。

澄蓮は一般人で、特殊な訓練を受けたことなどない、ただの子どもだ。

保健の授業で傷の手当てや熱中症の対処法を聞いたことがあったとしても、せいぜい圧迫して血を止めるだとか、木陰で足を心臓より高い位置にするだとか、その程度しかできない。


…ああ、でも、何か習ったはず…っ!

交通事故の現場にあったら……そう、意識を確認する!



「巽さん!巽さん、起きてください!たったつみ、さん…ッ!」



あまり大きな声を出さないように気をつけながら、傷を抉らないように弱い力で頬を何度か叩く。

声に反応しない巽の姿に不安が増し、カーサに気付かれてしまうかもしれないと恐怖で声や手が震える。

しかし澄蓮の必死な声が意識を掠ったのか、鈍い銀色の睫が小さく揺れ、巽の瞼がゆるりと、開いた。



「あ…巽さんっ!」



まだ意識が朦朧としているのだろう、金色の瞳が力無く澄蓮の外形をなぞるようにさまよい、ピントを合わせるように瞳孔がゆっくりと大きさを変えた。



「スミレ、さま……?」



掠れた小さな声。

口の端も切れていて痛々しい。



「巽さん、か、体は、動かせますか?」



血まみれの腕、貫通して磔にされた細い腕。

触れることも怖くて、見るので精いっぱいで、澄蓮は恐る恐る無難な言葉をかけることしかできない。

そんな臆病な澄蓮を見て、巽はフッと小さく息を吐くように笑った。

しかしそのわずかな動きさえ激痛に感じられたのか、歯を食いしばり、痛みを逃がそうとするように体の動きを止めた。

そしてふっと腹に力を入れて、澄蓮に懇願した。



「…っ……スミレさま、これを、抜いてください…」



植物の壁に自らを縫い付けている、武器。

それを目で示し、生まれて初めて見る酷い怪我を前に完全に尻込みしている澄蓮へと巽は頼み込んだ。

他に方法がない、と。



「でも、血が、」



「構いません。死ぬような量も、出ません。だから、早く…!」



いつカーサがこちらの動きに気付くとも知れない、今。

迷っている時間など、なかった。

澄蓮はためらい、戸惑い、たっぷりとおびえて…そして、腹を決めた。


だって、こうするしか、ないじゃないか。



「ぅ…っぐ、」



巽には失礼なのだが、吐き気さえ催す、血と肉のグロテスクな感じ。

たっぷりと血にまみれ、ぬるい温度になった武器。

ぷん、と鼻をつくようなむせ返る血の臭いに顔をしかめ、息を止めて、澄蓮はぬめる武器を握りしめた。

行儀悪く巽の背後の壁を足で踏みつけて支えにし、一度巽にアイコンタクトをする。

行きます。

お願いします、と言わんばかりに頷かれては、もう、やるしかないじゃないか。

せめて巽が感じる痛みが一瞬で終わるように、と持てる力全てでもって、澄蓮は武器を引き抜いた。



「っ…!!!」



腕を刻まれるような激痛に、声にならない声を上げ、それでも気を失わなかった巽はきっと、こういう傷に慣れて慣れて、慣れきってしまっているのだろう。

澄連には想像すらできないが、きっと、この世界にはこういう人が多くいるのだろう。

武器を持ち旅をして、獣を殺し、時に人を傷つけて、それでも生きていかなければならないような世界。

…心底、うんざりする。



「…はぁ、はぁ……ありがとうございます…。……スミレさま、今すぐに主を連れてお逃げください。件目(くだりめ)の道はご存知ですか?」



掠れた小さな声で囁くように、巽はさらりと長い言葉を吐いた。

短い感謝の言葉、そして次に行動すべきことを。

まさか、感謝の言葉の次に逃げろだとか場所をご存じですか、なんて聞かれるとは思いもせず。

返り血で真っ赤に染まった自分の腕を見て茫然としていた澄蓮は、目を白黒させた。



「え……は?くだりめ?し、知らない、です…」



っていうか、巽さん、大丈夫なんですか?

澄蓮に自分を気遣う言葉を吐かせることすらせず、巽は血の気の失せた顔を能面のような無表情にし、澄蓮に指示した。



「……では、荊棘の砂漠、ここより東南東に歩いて半日の場所に、白茶の遺跡があります。主を担いでとなると丸1日かかるかもしれませんが--」



「ちょっ…待ってください!巽さんはどうするんですか!?」



「無論、ここで足止めを」



「そんなっ!?」



そんな腕で、そんなにも血を失っている、そんな人に…あたしと同じような年頃の女の子をたった一人残して、あたしたちだけで逃げるだなんて…!

なんで巽さんはそんなことを言えるの!?


完全にパニックになってしまった澄蓮の頬を、冷たくなった両手でしっかりと固定して。

巽は薄く微笑んだ。



「スミレさま」



澄蓮の真正面から、満月のような金色の瞳が、澄蓮のこげ茶色の瞳を見つめる。



「この場で皆が逃げ延びれば、関係ある者としてあの男女は捕らわれてしまうでしょう。村人たちも危うくなるやもしれません。我々が逃げられる場所はそう多くありませんし、この怪我ではその場所まで逃げられるかすら分かりません。また、主自身が、彼の者の望む鍵の一つ。決して捕まるわけにはいきません」



カーサが狙うのは『鎖』、そして『貴司自身』。

狙いを分散させれば、最悪でも片方は死守できる。

確かに、巽の言うことは理解できる。

だが頭で分かっていても、心が追いつかない。



「…私一人であるなら、絶対的な状況下からも逃げ延びる術を持ちます。スミレさま。何が最善で、何が優先されるべき事柄か、あなたならばわかるはず」



「…スミレさん……」



貴司の手当てが終わったらしいネオンも、巽の言葉を聞いたのだろう。

気遣わしげなネオンの声に後押しされるように、澄蓮は歯を強く噛みしめた。



「…巽さん、必ず合流してください」



「スミレさん!?」



まさか、澄蓮が仲間で、しかも重体である巽を見捨てるように放っていく選択をするだなんて、ネオンは思いもしなかったのだろう。

信じられない、と言いたげに澄蓮を見て…しかしそれ以外に道はないと理解したのだろう、ぐっと唇をかみしめた。

そんな澄蓮とネオンを見て、巽は安心したように微笑んだ。



「--はい。スミレさま、我らが主をよろしくお願いします。どうか、我らに希望を…」



「…はい。巽さんも……その…」



こういう時、なんて言えばいいのか分からない。

だから直感で言った。



「ご武運、を…」



いい言葉ですね、と巽は目を細めた。

そしてふらりと立ち上がり、両手に空いた穴をふさぐように、口を使って布で縛り付けた時。

小柄なネオンの背にかつがれていた貴司の目が、ゆるりと、開いた。

虚ろな瞳が周囲を見回し、ぼろくずのようになりながらもしっかりと地に立つ巽を捕らえた。



「た、つみ…」



「っ…!」



ビクッ、と震えた巽の細い肩。

巽は驚きと嬉しさと怯えでぐちゃぐちゃになった顔で、貴司を見返した。

それを見て状況を把握したのか、痛みに歯を食いしばりながら、貴司がネオンの背から離れようと動いた。



「たつみ…まて……」



げほっ、と嫌な咳をしながら、貴司が巽に手を伸ばす。

その手から逃れるでもなく、巽は辛そうな顔で貴司を見た。



「主…」



「状況、は…ッ、げほっ、ご、ふ、げほっ…」



「タカシさんっ!?」



ふらついて、とうとう腹部を抑えてうずくまってしまった貴司をネオンが慌てて支えた。

皮膚の火傷も酷かったが、どうやら腹を攻撃されてもいたようだ。

血こそは吐いていないが、聞きなれない嫌な咳は、どう考えたって悪いものでしかないだろう。

ネオンのように駆け寄ることはせず、戸惑いながら澄蓮はどうすべきかと巽を見つめた。

短い時間しか共にしなかった澄蓮にだって、貴司の性格はあらかた分かっていた。

目を覚ましてしまった、今。

地面にうずくまり、動けなくなったとしても、貴司は仲間(たつみ)を置いていくなんて選択をするはずがない。

この人は、そういう人だ。

巽もそのことは理解しているのだろう、貴司から視線をそらさず、澄蓮に指示を飛ばした。



「スミレさま、早く主を連れて…!」



「たつみ!!!」



「っ!」



普段の貴司からは考えられない、弱々しい声で発せられた、鋭い声。

その声に怯んだように巽は押し黙った。

だが、いつまでもこうやっているわけにはいかない。

巽を置いて、貴司を連れて逃げるか。

全員ここに残るか。

絶対に巽を置いていかない、と強い意志で輝く瞳で巽を睨み上げる貴司。

負傷した貴司をこれ以上危険にさらすわけにはいかない、とその視線を真っ向から受けて立つ巽。

おろおろとネオンと澄蓮が二人を見つめた。



「っ、ぐ、げほっ、っ、ごほ、ごほっ…」



先程よりもいっそう酷い咳をして、苦しげに炭になった地面に爪を立てる貴司に、とうとうたまらなくなったのだろう。

無表情をわずかに泣きそうに歪めて、巽が駆け寄った。



「主っ!」



「森谷先輩!」



背をさすっても、苦しさが和らぐわけもなく。

外傷であれば止血すればいいと分かるが、内臓の傷に関しては、完全に澄蓮の手には負えない。

パニックになり、どうすればいい、と泣きそうになりながらネオンを仰ぐ。

そんな澄蓮の視線を受け、青ざめながらも歯を食いしばり、ネオンは力強く頷いて見せた。

そしてポケットから取り出したのは、羊の出産の時に見た、宝石の原石。

血と煤にまみれたこの場に妙に調和した、美しい赤と青の石。

それらを片手に収め、もう片方の手を貴司の腹にあてがって、ネオンは集中した。



「少し失礼します!『紅の起伏、蒼の--』…ぅあッ!?」



ガツッ、と重い打撃音と同時に、ネオンの腕がはじかれた。

ネオンが握りしめる石から、紫色を帯びた黒い光が、ボウッ、と溢れて空気に溶けるのが見えた。



「やめろっ!主に何をする!?」



「巽さん!ネオンは敵じゃないです!」



毛を逆立てて激怒する獣のように、貴司を庇って武器を構える巽がネオンに吠えた。

ギラギラと光る金の眼がネオンを完全に敵とみなしていた。

自分が睨まれているでもないのにその眼力に怯えつつ、それでも澄蓮はネオンを庇って巽に訴えた。


ネオンが貴司を害するわけがない。

人がよすぎるネオンが、そんなことをできるわけがない。

むしろ怪我を治そうとしているのに…!



「味方とも思えません。第一、杖も剣も使わずに魔術を使うなど、裏があるに決まっています!」



え、そうなの?

急に告げられた事実に驚いて、澄蓮はネオンを見た。

澄蓮の視線に悲しそうに顔を歪めたネオンは、きっと澄蓮がネオンを非難していると受け取ったのだろう。

泣きそうな顔をしながらもネオンは巽に訴えた。



「僕の魔術は魂、身体、思考が一致しているから変換を必要としないだけです!」



だから決して異質な存在ではないと。

自分は普通なのだと。

その時のネオンの声は、まるで血を吐くような声だった。

その声に、言葉に、偽りがないと見抜いたのだろう。

巽は貴司を支えながら、ぎりりとネオンを見つめた。



「…仮にそれが特異な体質だとしましょう。では何故ただの村人が陛下の名を知っているのです!」



まさに寝耳に水。

澄蓮は驚きに目を丸くした。

ネオンが、接点のないはずの、自分の先輩の名前を知っている。

…何故?

その時、ハッと気付いた。

そういえばさっき、ネオンはこう言っていたじゃないか。


『敵って…スミレさんは良い人です!タカシさんだって、魔王様…ハルトだってそうです!害なすだなんて、そんな悪いことをする人たちではありません!』


まるでこの世界で魔王として存在していた陽斗のことを、よく知ってるように。

まるで旧知の仲のように、呼び捨てにして。



「滝先輩を…?え、えっと…どういうこと、なの?」



というか、なんで巽さんがそのことを知ってるの?

あたしの方がネオンと長くいたはずなのに、全然分からなかった。

巽さんとネオンって、接点めちゃくちゃ少なかったんじゃ…?


いろいろと疑問の混ざる澄蓮の言葉に、巽はきちんと答えてくれた。



「…我々の姿を認め、この者は主をこう呼んだのです。ごく近い者のみが知る陛下の名を--『ハルト』と!」



…そういえば、初めて貴司と巽がネオンの家に訪れた時。

2階へ続く階段からそっと顔を覗かせたネオンが、何かを呟いたていた。


『……―――?』


『え?』


『あ、いえ…』


よく聞き取れなくて聞き返した澄蓮に、何でもないです、と言ったネオン。

もしかして、あの時、陽斗の名前を呼んだのだろうか。

黒い服を身に纏った貴司を、陽斗と勘違いして…?



「うそ…。ネオン、先輩のこと、知ってたの?」



今度こそ、疑惑の意味を込めた視線で、澄蓮はネオンを見た。

ネオンはいい人だ、優しくて、怪しいはずの澄蓮をも受け入れてしまうほどに。

雪猫のように魔王という存在を毛嫌いしているでもない、緩やかに時間が動くこの村で生きる、少年。

だけど、敵であるというなら。

…それとも。


『あなたは、あたくしたちの敵かしら?』


ふと、シェイラの言葉を思い出した。

もしかしたら、今、こうやってネオンを疑うあたしの方が、少数派で、悪くて、おかしいのかもしれない。

敵にならないとシェイラに言った、あの言葉に偽りはないはずだ。

だが、そもそも敵と言われるべきは……。



「……知っ、て…」



ネオンが口を開いた、その時だ。

どぅん、と重い爆発音と凄まじい砂埃が、澄蓮の背後から巻き上がった。



「余計なことをしないでいただけますか?黒衣の手先」



夕日に赤く染まる白っぽい土煙を背後に。

紅色の旗のように長い髪を風に遊ばせて。

笑みを消したカーサが澄蓮を見下した。



「なんで……シェイラさんたちは、どこ!?」



カーサの背後には、もうもうと空高く舞い上がる土煙しか見えない。

シェイラとカインは、倒されてしまったのだろうか。

貴司や巽のように血塗れになった二人の姿を想像し、澄蓮は身体を震わせた。

しかしカーサは疲労したようにゆるりと一度首を横に振り、横目ですっと後ろを示した。

よくよく見れば、土煙の奥に二つの明るい炎の柱が見えた。



「あの中に閉じ込めました。後は……っ!?」



不意にカーサが言葉を切り、身を守るように地面へとしゃがみこんだ。

そのカーサの髪や衣類を乱暴に殴りつけるように、ビュウッ、と吹き荒れた鋭い突風が、澄蓮の所まで届いた。

見えないはずの風が、ほんの少し、わずかな緑色を帯びて見えた。

その風を、澄蓮は何度か目にしていた。



「させる、かぁッ!」



「カインさんっ!」



炎など、土煙など障害にもならないような、そんな勢いで杖を大きく振り上げ、カインが飛び出てきた。

銀の杖に紅色のルビー。

遠目にだが、シェイラが手にしていた時とは異なり、ルビーが少し淡く、桃色に見えた。

それに、ルビーが、白っぽい、緑色の淡いもやのような光に包まれているようにも見える。

これが、カインの『魔力』…なのだろうか。

カーサが纏う炎とは異なり、同じ未知なものであるというのに、なぜか、力強くて、怖くない感じ。

飛び出てきた勢い、そしてカーサへのためらいのない鋭い攻撃。

もしかしたらカインがカーサを退けてくれるかもしれない。

そんな期待が出てきた、が。



「…邪魔を、しないでくださいッ!」



両腕に炎を纏わせ、余裕がない声で…実際余裕がないのだろう、カーサが思いきり両腕を振り下ろした。

炎はまるで鞭のようにしなり、まっすぐに道を作るように、カインの両サイドに走った。

そして両側から挟み潰すように、火力を上げた炎が、カインを呑みこんでいく。



「くっ…そぉ!」



「カインさんっ!」



カインが漏らしたその声をも飲み込むように炎が3本目の炎の柱となった。

悲鳴にも似た声で澄蓮が叫んだ、そのそばで。

小さく、息を吐き出すように、ネオンが言葉を吐いた。



「…『紅の起伏、蒼の零寂。地に生きる者との調和』…!」



ネオンが貴司の腹へとあてがった手から、ぼわっ、と紫の光が噴き出た。

その光が染み入るように貴司の体に吸い込まれた。

カーサを警戒してだろう、いつの間にか澄蓮たちの前に壁になるように立っていた巽がネオンの魔術に気付いた。



「主っ!?」



ネオンを殺さんばかりに睨みつけつつ、貴司を呼ぶ声。

巽の声に軽く手を挙げて応える貴司の動きは、さきほどまでの、痛みにひきつったような不自然なものではなく。

いたって普通の、いつも通りの動き。

そしてその手を固く握りしめ、ダンッ、と地面を殴りつけた。

ざわざわと葉のすれ合う音に一拍遅れて、再び巨大な植物の壁がカーサと澄蓮たちとの間に立ちふさがった。

炎に飲まれたカインの姿が見えなくなったことが不安をあおったが、貴司の声に澄蓮の意識が奪われた。

炎の柱に拘束されても一度は抜け出ることができていたのだし、カーサの口ぶりから、澄蓮たちのようにこの国の人間とは異なるという条件が付かなければ、自国の民を害することはしない、というような口ぶりだったし。

…今は、カインとシェイラの身が無事であることを祈ることしかできない。



「…ありがとな、ネオン」



縮こまるように背を丸めて地面にへたりこむネオンの背を軽く叩き、貴司は朗らかに笑って立ち上がった。

その動きはもう、怪我をしていただなんて思えないほどに、自然なものだ。

ネオンの魔術によって、怪我が治ったのだ。

青い顔をしながら、ネオンが泣きそうな顔で貴司を見上げた。

後ろで巽が息を呑む音が聞こえて、そこでようやく澄蓮はほっと息を吐けた。


これで巽さんの、ネオンへの疑いは晴れた。

森谷先輩は怪我が治った。

これで何も怖いことは、ない。

みんなで一緒にここから逃げればいいだけ。

それで戦いから逃げることができる。


―――…なのに。



「芳村さん、これを頼む」



投げ渡されたものが、とっさに前に出した澄蓮のてのひらに、じゃりん、と重い金属音を立てて収まった。

澄蓮が一度手にしたことがある、もの。

金色の、ごつい、短い、鎖。

王部(オーブ)】―――。



「な、鎖っ……森谷先輩、これっ!?」



金色の鎖を手にうろたえる澄蓮を無視して、貴司は落ちていた片手剣を拾い上げた。

そして、心配する巽の手をやんわりと退けて、ネオンに向き合う。



「ネオン」



「ぁ…はい!」



びくっと肩を震わせ、しっかりと背を伸ばしたネオンを見て、貴司が笑った。



「芳村さんを頼む。一緒に逃げてくれ。大都【紅】に和奏がいる。そこまででいい、守ってやってくれないか?戦わなくて、いいからさ…」



「森谷先輩!?」



なんで、逃げないの。

ここで、みんなで逃げたって、いいじゃないですか。


そんな意味を込めて貴司の名を呼んだ澄蓮だったが、貴司は反応しない。

澄蓮が求める逃避への、無言の拒絶だった。

それに気付いてなおも言いつのろうとした澄蓮に代わり、巽が貴司に食いついた。



「主!この者は陛下の名を…」



「聞いてたさ。陽斗からも話を聞いてた。…3年前、俺の親友を助けてくれたってのは、お前だったんだな。ありがとな」



その言葉に、ぽかん、としてしまったのは、恐らく澄蓮と巽だけ。

血の気の失せた顔色だったネオンが、その言葉に反応したように、ゆっくりと顔を上げたから。



「3年前…?ネオンが、滝先輩を?」



「そう、なのですか…?」



ああ、と貴司は頷いた。

え、なにそれ初耳なんですけど、と女二人が目を丸くした。


3年前…3年前、何があったの?

ってか、滝先輩、3年も前からこの胡蝶世界にいたんですか?

ってことは森谷先輩たちも?

いや、でも森谷先輩たちって今高2だから3年前には同じ高校じゃないし…全員が同じ中学だったってのは…ない、かな?

でも滝先輩たちは和織高校、二宮先輩?って人は流繕高校に分かれてるんだったら、中学の時からコンタクトをとってた?

いや、でも滝先輩は二宮先輩と幼馴染だって、森谷先輩が言ってたから…。

ああもう、わけわかんないっ!


けど。

ネオンは、敵ではない。

その事実に澄蓮はほっと息を吐いた。

ネオンが敵だったなら、敵である自分に笑顔をふりまくような演技ができる人だったなら、きっと澄蓮は人間不信になっていただろう。



「この国が好きだと言っていた、綺麗な髪と目の少年。お前だろ?」



「……ハルトは…覚えてたんですか?僕なんかのことを…?」



「ああ。だから芳村さんをここに連れてきたんじゃないか?」



その言葉に、澄蓮は理解した。

最初、ネオンにこの国の地図を書いてもらった時。

『わざと遠い場所を選んで胡蝶に連れてきたんだな』、と確信したのだけれど。


澄蓮は数日前の自分の確信を撤回した。

陽斗は。


『実はな、俺の親友らが命狙われてるねん。助けたってーや』


軽く、そんなことを言って、何を思ったのか無関係の人間である澄蓮を巻き込んで、夢の世界でレッツ冒険とかわけの分からない状況にした張本人…なのだけれど―――。



「……ああ…覚えていてくれたんだ、ハルト…」



煤で薄く汚れたネオンの白い頬に、滴が流れた。

ゴーグルをぐいっと外して、ネオンが乱雑に涙を拭う。


滝先輩は、ネオンがここにいるから、あたしをこの村に移動させたんじゃないだろうか。

家と家の間の距離が、結構離れてる、この村の。

あたしの一番近くの家が、ネオンの家だったのも、きっと。

偶然では、なくて。



「…巽、行くぞ」



澄蓮とネオンに背を向け、貴司が巽の名を呼んだ。

見る見るうちに、緑の壁は黒く潰れてしまっている。



「っ……主、」



「反転は必要ない」



「しかしっ!」



「勝てはしなくても、負けもしない。俺らは無敗のコンビだろ?頼りにしてるぜ、相棒」



「…はっ!」



まるで何年もずっと一緒に戦ってきた相棒のように。

見ていてもしっくりとくる位置で、二人は武器を構えた。



「二人とも、行け!」



「っ!はいっ…!」



炎が、壁を崩す。

今度はためらわず、しっかりと声を出して頷いたネオンが、澄蓮の手を取った。

ネオンに引っ張られるように背を向けかけた澄蓮は最後に一言、二人に言いたかった。



「森谷先輩、巽さん!」



肩越しにも振り返ることをしない二人の背に、叫ぶ。



「大都【紅】で、また…っ!」



必ず、また会いましょう。

言葉にできなかった声に答えるように、二人が腕を上げた。

それで十分だった。



「行こう、スミレさん!」



「うんっ…!」



なんかもう、泣きそうだ。

手の中で温くなった鎖が、また、重みを増したように感じた。

泣くな。

泣いたら、視界が悪くなる。

足がもつれて前へ進めなくなる。

それは、ダメだ。

ちゃんと走って逃げて、大都【紅】で再会しなければならないのだから。

ラルダにもらったばかりなのに、すっかり汚れてしまった服の袖で、ぐいっと目をこすった。

そのわずかな、時間の間に。



「魔王の代理。鎖を渡せ」



目の前に、乾燥した血で汚れたマントを羽織る、人。

ぎょっとして飛び上がる澄蓮とネオンがたたらを踏む。

やつれたような顔貌に、暗いのにギラギラとした眼で澄蓮を見る…雪猫という人。

壁を登る時に使えそうな、長い爪のような武器を、両手の甲に装着して。

―――あの強烈なほどに異様な臭いを、まとわせて。



「あ、あなたさっきの…っ!」



「そこを退いてください、雪猫さん!」



鎖を持つ澄蓮を庇うように間に割り込んだネオンが、ポケットから取り出したいくつかの石を両手に握り締め、精一杯の威嚇をした。

ネオンもカインのように無声でも魔術を使うこともできるのだろう、石から煌々とした光が漏れていて、すぐにでも何か魔術を放てるようだった。

背後でそんなやりとりをしていることが伝わったのだろう貴司が驚きの声を上げた。



「は…雪猫!?」



「主っ!」



カーサをいなし、貴司が澄蓮たちに振り向こうとした。

しかし飛来した炎を切り裂いた巽の声を受け、慌てて再び巨大な植物の壁を生み出す。

まさにその間に。

雪猫の一手が閃いた。

それは澄蓮の目では残像しかとらえられなかった。

その時には既に、ネオンの首に雪猫の拳から長い爪のように伸びた鉤爪が突きつけられていて。

ひぅ、と風を切る澄んだ音が、視覚に一瞬遅れて聞こえた。

その動きは植物が生え広がるより、炎が燃え広がるより、ナイフが一閃するよりも遥かに。

…そう。

光のように、速かった。

時代劇の忍者が城壁をよじ登る時にでも使いそうな、鉄の鉤爪。

そこからたった一掻きするだけで、血の気の失せたネオンの白い首から、夥しい鮮血が吹き出すことを容易に想像させるような…恐ろしいほどの凶悪さがあった。



「…三度目はない。さあ、鎖を渡せ!」



「スミレさん、渡さ、ないで…!」



緑の壁は炎に容易く突破され、貴司も巽もこちらを振り向くことはできない。

ネオンもまた、身動きできずにいて。

この時初めて、澄蓮は自ら選択しなければならない立場にいた。


ネオンは当然守りたい。

けど鎖を渡せば滝先輩は元に戻れない。

森谷先輩たちがこれを守ってきた意味がなくなる。

だけどネオンが殺されてしまう。


渡すな、と頭の中で声が聞こえた。

どこかで聞いたことのある声だった。

抗い難い、声。

だが、澄蓮は。



「ネオン、を…放してください」



ネオンを見捨てるなんて、できるわけない。

ネオンだけじゃない、誰だってそうだ。

命よりも優先される物があるはずない。

物なら取り戻せばいい。

けれど、命は取り戻せない。

ネオンの命だって、たった一つしかないんだから。



「スミレさん!?ダメです、渡さないでくださいっ!」



「動くなッ!」



首筋に突きつけられた刃物の存在を忘れたように動いたネオンの髪が。

甘く苦い、蒸し栗色の砂漠の臭いの風に流れて、鈍く光る鉤爪に絡み付く。

光の速さで振り引かれた鉤爪に、タンポポ色の髪が強く引かれて。

痛みで、にしてはネオンの顔はさほど苦痛に歪まず。

バチン、とクリップを外したような軽い音が、場違いのように聞こえた。

澄蓮と雪猫の目前で、花びらのように閃いた髪は。





目も眩むような蛍光色。

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