01.真朱の駆けた夢
芳村澄蓮はその日の夜、奇妙な夢を見た。
眠っている間に見る夢にも、現実的な夢、前日に見た映画に似た場所の夢など、いくつものパターンがある。
芳村澄蓮の場合、これは現実ではない、夢の中にいるんだ、と感じる夢は見たことがなかった。
しかしその日の夢では、ああ、これは夢だな、と直感できたのだ。
上下が分からない、左右も前後も見えない暗闇の中、自分が浮かんでいるのが分かった。
息ができる深い水中に漂うような、奇妙なのにどこか心地よい空間に、一人きり。
すぐに覚める夢なのだと、不思議と分かった。
だから安心してぼんやりと浮かんでいた。
すると、背後の暗い空間に、紅い光が、瞬いた。
「…なに?」
ぽつりと呟いた声が遠くで反響した、ひょっとしたらこの空間には果てがあるのかもしれない。
そんなことを思いながら振り返るが、紅く瞬いた光はどこにもない。
先程と何も変わりない、闇色の空間に首を傾げた澄蓮の隣で、また紅い光が瞬いた。
今度ははっきりと目にした光は、収束するように凝縮されて、赤い紅い塊になった。
「っ、まぶし…!?」
閃光のような眩しさに強く瞼を閉じた間に、紅い光は瞬く間に白く濁る。
恐る恐る目を開けた澄蓮の前には、紅い光ではなく、黒い学生服が見えた。
詰襟の光沢がない黒の上下、襟には鈍くくすんだ金のプレートがある、見慣れた男子学生服。
澄蓮が通う高校の制服だった。
そして、それを纏う、男性。
「や。初めまして…になるんやんな?たぶん」
「えっと…はい。たぶん…」
流暢な関西弁は、関東在住の学生である澄蓮には違和感があった。
ただなんとなく、自分の学校の生徒であることは分かって、不思議な夢だと思った。
会ったことがない同じ学校の人が、夢だと認識している夢の中に出てきた。
「そか。じゃあ、まずは自己紹介な。俺は和織高2年の滝陽斗。ハルトとかハルちゃんとかハルくん…あとは、春頭とか呼ばれてるかな。あはは。
ま、なんでも好きに呼びぃや。あんたも和織高校の子ぉやろ?」
「(春頭…?)はぁ…1年の芳村澄蓮です、けど…。うわ、リアルな夢だなぁ。関西弁設定とか先輩設定とか…」
しかもものすごい美形というわけでもとても特徴のある顔でもない、どこにでもいるような中肉中背の人。
初対面でもすんなりと話せるけれど、どこか踏み込ませない部分を抱えているような、理系だなという印象の学生だった。
ただ、お堅い学校であるため地毛が義務付けられているというのに、髪の色が薄かったのが特徴的といえば特徴的だった。
(あ、目とか睫毛の色も薄い…。肌も結構薄いし…。生まれつき色素が薄いってことかな。ハーフって顔立ちじゃないし…)
陽斗は澄蓮が不思議そうに見つめる視線を笑顔で受け止めて言った。
「あはは。スミレちゃん、おもろいなぁ。リアルっちゅーかモロに現実なんやけどな。コレ」
「……うん?」
なんて言った、この人。
夢の中にいるのに…現実?
あれ、その前にこの人自体が夢の産物だから、この人の言っていることも夢の産物だから…?
「や、だからさ。たまーにおるやろ?ほら、夢ん中で会話するとか、催眠術みたいなヤツ。あんな感じ?」
「すみません。全然分かりません」
「えー?」
困ったわぁ、と頭を掻いて苦笑するその姿に、慨視感を感じた。
どこか、どこだったか、そういえばこの前2年の教室の前を通った時、廊下で見たような気がする…。
ひょっとして、その時無意識に見た人を夢の中で再生しているのかも…?
「あなたは…夢?」
「夢であって夢やない。…っちゅーたら頭オカシイ人っぽくて引くやんな?
せやなぁ…あ・夢ん中でリンクしてるっちゅーたらゲームっぽくて分かりやすいんかなぁ?」
「…夢どうしで、繋がってる?あたしと、あなたが?…たぶん初対面なのに?」
「――――ま、その辺は追々…。ちょーっと頼みごとがあってな、俺のまじかるぱわー☆で夢を繋いだわけや。オーケー?」
素敵な笑顔で親指を立てた先輩(自称)を白い目で見て、澄蓮は大きく息を吐いた。
ここ最近古典と英語の小テストで失敗してばかりで落ち込んでいたから、せめて夢の中だけでも全部忘れて楽しい時間を過ごせたらと思っていたのに。
「…あたし、疲れてるのかな。胡散臭い人に引っかかる夢を見るとか…」
「いやいやいや。そんなん言うて逃避せんといてー!?マジやから。ホンマにマジやから!何なら明日、学校で確かめたらええやん。俺、2年2組やから!
頼み事は…まぁ、明日の夢でも間に合うやろし…。な?」
その表情があまりにも必死そうだったから、テンションの高い人と話しているとなんだか疲れるから、という気まぐれで頷いた。
夢と夢がリンクしているだなんて、ファンタジー小説のような楽しい展開が、いざ我が身に起きると、ほとんどの場合はなんだか気味が悪くなるものだ。
さっさと起きて二度寝しよう、と固く心に決めた。
澄蓮が不本意そうに頷いたというのに、それでも了承は了承だと受け取ったらしく陽斗は安心したように笑った。
よかった、と笑う顔にさすがに罪悪感が湧かなかった、とは言えないけれど、これは夢なのだ。
自分の夢の中なのだ。
「ああ、そろそろ朝やな。太陽が昇ってきたで」
「…、え…ええっ!?あ、朝って…ウソっ!もう朝なの!?ちょ、全然寝た気が…」
「うん、まぁ夢ん中やし。寝た気ぃなんて起きた時に分かるもんやって。あはは」
「あははじゃない!だいたい、滝先輩、あな た ―― ――― ― ……… 」
ジリリリリリリリリリ
けたたましくケータイのアラームが部屋に鳴り響いた。
いつの間にかあの暗闇は掻き消えていて、伸ばした手は見慣れた天井へと突きだされていた。
いつ目を開けたのかすら、覚えていなかった。
夢の中のことは、鮮明に覚えている。
ついさっきまで別の場所で、初対面の人と、とても疲れる会話をし続けていたような気がする。
そういうわけで、当然のように寝た気はしなかった。
一睡もしていない気分だ。
体が寝る前よりもだるく感じて、今からならしっかりと眠れるかもしれないと思うぐらい。
あの変人の名前は、ハッキリと覚えている。
「滝、陽斗……。…あんっの…春頭…!」
学校で会って、確かめる。
確かめる……ついでに一発殴るぐらいは、きっと許されるはずだ。
貴重な睡眠時間を削られて、今朝は一時間目から英語の小テストが待っている。
それに厳しい先生たちの授業が続くから、丸一日、居眠りすら許されない。
母親が起こしに呼びかけてくる声を聞きながら、澄蓮は固く拳を握りしめた。
「え、滝先輩いらっしゃらないんですか?」
言われた通り、昼休憩を利用して2年2組まで行ったのだが、肝心の人物が欠席だというオチだった。
教師陣も保護者の目も厳しい高校だから、生徒は全員地毛か黒髪が義務付けられている。
その中で、色素の薄い胡桃色の髪、黒い詰襟に映える白っぽい肌、赤味の強い琥珀色の猫目というように、色素で見れば特徴が多い人物なのだが見当たらず、適当に尋ねてみればこれだ。
会いに来いと言われて来たってのに、何なのよ。
本当は確認すればいい、と言われただけなのだが、そう言われたことを綺麗に忘れた澄蓮は苛立ちも露わに拳を握り締めて震えた。
「ああ、なんか階段から落ちて全身骨折…だったか?まぁなんかそんな感じで今入院中なんだよ。転校して来てから初めての欠席だしなぁ」
「いっつも無駄にテンション高いハルちゃんらしいよな。今頃ヒマすぎて病院抜け出して逃亡してんじゃね?」
「はははっ、ぽいなー!」
「あ、あはははは…」
転向してきたゆえのバリバリな関西弁、そしてこのふざけた人物像。
ああ、やっぱり夢の中で会ったアイツなのか…!
知りたくなかった現実に直面してしまい、澄蓮は頭を抱えて嘆いた。
まさか、本当に自分の夢と他人の夢が繋がるだなんて、非現実があるだなんて、知りたくもなかった。
知らない方が幸せな現実って、本当にあるのね…。
「あ、んで何かアイツに用事あった?連絡しよーか?あ・告白とかならやめといた方がいいぜ?」
すっかり存在を忘れていた先輩が、携帯電話を手で弄びながら澄蓮に尋ねてきた。
当然、訪ねてきた後輩が見知らぬ異性であるということは、色恋沙汰が絡んでいるのだと思われた上での冗談なのだと思い、澄蓮は苦く笑った。
「なんで告白とかの話になるんですか。じゃなくて、連絡とれるならして欲しいんですけど…」
そろそろ休憩時間も終わるだろうし、他学年の生徒がどうして来ているのだろうという視線も痛くなってきた。
さっさと教室に帰ろう、と思って言ったのだが、二人の先輩は互いにアイコンタクトをして、今度は真剣に尋ねてきた。
「確認しときたいんだけど、本当に告白じゃない?つーか恋愛沙汰じゃない?本当に?」
「だから、あたしは滝先輩に色恋沙汰の用事なんて全くありません。第一会ったのだってきの……この間、なんですし」
危ない危ない。
出会ったのが昨日だなんて、入院しているのになんで、と言われるところだった。
嘘を吐くのは心苦しかったが、この場合は仕方がない。
澄蓮が悶々としながらも答えた内容に安心したように、二人は穏やかに笑った。
「いやー、よかったよかった。実は、あいつ彼女がうちのクラスにいるっぽくてさー。前に教室まで告白しに来た女子がいたんだけど…」
「その子に『目障りやから消えてくれへん?』とか言って追い出したんだよなー。その子、もうボロッボロに泣いてるし、陽斗は笑顔で無視するしで怖いのなんの!かなりカワイイ子だったのになー」
「いやいや、その前にほら、ちゃんと話聞いてやってたぜ。でも断っても断っても粘ってきたからさ、『関西から来た転校生に告白するカワイイオンナノコ演じて満足したやろ?』っつったんだよ、先に」
「へ、へぇ…(悪魔だ…あの人悪魔だったんだ…!)」
本日2回目の知りたくなかった現実を問答無用で語られて、今度こそ本当に教室に逃げ帰りたいと澄蓮は心底思った。
しかしその女子も精一杯の告白だったのだろうに、と思うと同情してしまう。
ああ、なんであんな悪魔に惚れて告白なんぞしてしまったのか…。
とりあえず、彼らに連絡を取ってもらおうと思っていたのだが、やめておくことにしよう。
そして二度と近付かないようにして、彼が卒業するまでの1年強、2年生とは関わらずに生活をしよう。
密かに決意した澄蓮の心情などお構いなしに、二人の先輩はお互い笑顔で話を続けた。
「しかもその子追い出した後だよ、あいつの神話が誕生したのは!」
「(もう帰りたい…)…はい?神話、って…まだあるんですか!?」
「まだまだあるぞー!とりあえず有名なのが、その子追い返した後の話だな」
もう聞きたくない、早く予鈴よ鳴り響け。
今まで休憩時間が終わることを願ったことはなかったけど、今回は別。
心底願う、むしろ祈る。
「授業直前だったから、教室に大体みんな戻ってきてたんだよ。修羅場見てボーゼンとしてる俺らに向かって、あのバカ、
『俺が愛してるんはお前だけやでー!可愛い可愛い俺の彼女にふぉーえばーらーぶ!』
って叫んだわけ!あのバカの満面の笑顔…君にも見せたかったよ…。んで定着したあだ名が春頭なんだよなー」
「バカだろあいつバカだろ!?つーか関西人ってみんなあんなノリなのか?しかも突然の愛の告白に男も女もみんな真っ赤になるもんだから、結局誰があいつの彼女なのか分からねぇし」
「アレだよな。馬鹿と天才は紙一重ってのを体で証明してるヤツって感じだよな」
「まさしく。あっ、っとごめんごめん!連絡とるんだっけ?」
「……いえ、もういいです…。じゃあ、失礼しました…」
「え、ちょ、まだたくさん語りたいことが…」
ああ、なんてことだろう。
あたし、変な人にだけは関わりたくなかったのに…真正の変態に出会ってしまったとは…しかも夢の中で…。
うんざりしながら教室に逃げ帰ったのだが、その途中でふと思ったことがある。
(でも、彼女さんからしたら、クラスメイトの前で彼氏が可愛い子に堂々と告白されるって辛かったんだろうなぁ。その後、クラス全員の前で愛してるって宣言されたってのは…)
嬉しかった、のかもしれないなぁ…。
リンゴーン、と今更流れた予鈴を聞き流して、とりあえず今は忘れておこう、と教科書を取り出した。
この後、思った以上にハードな授業よって滝陽斗の存在を忘れることができたのはいいが、不穏なあの一言を思い出したのはベッドに横になった後だった。
『頼み事は…まぁ、明日の夢でも間に合うやろし…。な?』
「……寝たくない…」
こんなにも眠いのに、寝たくないと思うのは、小さい頃の年末、紅白歌合戦以来だろうか。
夢の中とはいえ、二度と出会わない奇跡を願って眠った澄蓮の祈りは、無残に散ることとなる。