閑話.千歳緑、東南の風
閑静な住宅街を抜け、薄汚れた飲食店や潰れた小さな店が並ぶ場所に、二つの影が駆け込んだ。
流行どころか季節までも無視した、ただ機能性だけを極めただけのマントが、2人の荒い息に合わせて上下した。
黒いマントのフードを脱ぎ、流れる汗を手の甲で拭い、貴司は隣に並ぶ小柄な人物に声をかけた。
「は…っ、は…っ…た、つみ……、どうだ…?」
「……今、戻せました…。…さすがに、手ごわいですね…」
何かを祈っているかのように、血の気が失せるほどしっかりと結ばれた手が、ゆるゆると解かれた。
手の中から放たれた黒い残光が、蛍のように弱々しく宙に散って消えた。
紫紺の追跡者を胡蝶の世界に強制的に送還したことで、自身の魔力が空になってしまったことを確認して、巽は珍しくため息を吐いた。
周囲の気配を窺い、貴司に倣ってフードをとった。
鈍く光る刃のような短い銀髪が、安っぽい料理屋の排気口から流れた風に揺れた。
久しぶりに見たパートナーの髪を見下ろし、貴司はねぎらいの言葉をかけた。
「っ、はー……。とり、あえず…お疲れ…」
金色の鋭く煌めく大きな瞳が貴司を見上げた。
安堵とねぎらいに対する喜びを滲ませた猫目が僅かに細められた。
「はい。しかし、ここまで侵食が進んでいるとは…思いませんでした」
「そうだな…。思ったより早い」
不完全とはいえ、胡蝶の世界の半分を掌握していた陽斗の消滅によって、胡蝶の世界が大きく揺らいでいる。
正確には、陽斗が集めてため込んでいた、魔力という胡蝶に存在する異質なエネルギーが、他者の手に渡ってしまったからだ。
そのおかげで、神様の国から魔王の国へ、人々の侵入が始まっている……逆もあるが。
さらに今までの現実世界からの介入によって、胡蝶に存在する2つの国だけでなく、胡蝶からこちらの世界へ、といった影響まで出る可能性があった。
魔王こと滝陽斗が消滅し、現実でも意識不明の状態になってから2週間。
仲間内でも、胡蝶と現実との境界に何らかの影響が出るかもしれないと言っていたのだが、思っていたよりも早かった。
以前、試しに巽と現実へ飛んでみた時は、巽の姿や声などは他の人々に分からないようだった。
というよりも、人に触れても腕や剣が通り抜けてしまったため、物質としての基準自体がずれているのだという結論に至ったはずだった。
しかし今回、砂漠では戦いが不利になると踏んで相手が魔術を解放するのを利用して相手ごと現実に転じたのだが、なぜか人々の目に見えてしまっていた。
明らかに、境界が揺らいでいる。
2つの国、2つの世界の均衡が崩れてきている。
貴司自身ここまで影響が出て初めて、陽斗が集めて抑え込んでいたものの巨大さを思い知った。
背筋が冷たくなったのは、柔道の大会以来だと苦く笑った。
「しかもこっちの人たちにも、完全に見えてたよなぁ」
「はい。視覚だけでなく、聴覚や触覚などにも影響が出ているようです」
「まずいな…。一度中村とヴィオレに言って、鍵を掛けなおしてもらわないと…」
他者に奪われたとはいえ、元は陽斗が抑え込んでいたエネルギーだ。
その膨大な魔力というエネルギーを正しく制御することができる能力を貴司が、現実と胡蝶に関する事象の制御能力を雅樹が託された。
魔力の制御能力を、新しい魔王に渡せば、胡蝶から現実への影響も、魔王の国と神様の国に関する影響もなくなるかもしれない。
だが、それは裏切った者に対してできる行為ではない。
ならばこちらが強制的に抑えつけるしかなかった。
中村雅樹が託された紅い鍵。
胡蝶での陽斗たちの住処、魔王の城が、現実と胡蝶との境界に関する鍵だ。
鍵を掛ければ現実への影響は減るだろうが、いくら魔王の側近、天才と名高い雅樹とはいえ、制御能力はほとんどない。
貴司が託された金の鎖は、個人の能力が関係ない代わりに、対象となる明確な魔力が必要となる。
つまり、あの膨大な魔力を他者に奪われている状況では、その制御ができないのだ。
だから貴司に追手をさし向け、制御装置を手に入れようと新魔王はもがいている。
今は、雅樹が無理をして、現実への影響が最小限になるよう働きかけている状態だ。
ここ数日、疲労が原因で雅樹は学校を休んでいる。
これ以上は、現実でも胡蝶でも、雅樹にかかる負担は計り知れない。
そして今、現状を維持させるしかないとは、言っていられなくなった。
適性はないが、黒い水晶玉を持つ和奏、白い結晶を持つ六花で、なんとか雅樹を補佐するしかない。
「それでは、一度城にお戻りに?」
「ああ。それに、救世主も現れたからな。報告しとかねーと!」
「…貴司殿、閣下の制御部をあの娘子に託されてよろしかったのですか?」
現状打破のために魔王が手配した、芳村澄蓮。
あの場に彼女がいたことは偶然だったが、その偶然こそ、貴司たちが喉から手が出るほど求めていた要素だった。
おかげで鎖を現実に持ち込み、新魔王の知らない人物に託すことができた。
制御と魔力、互いに守りつつ奪うために苦策していた、拮抗を、あの少女の存在で変えることができる。
これでようやく、親友を救うための一歩を踏み出せた。
貴司も、おそらく陽斗もよく知らなかった芳村澄蓮という人物に対して、巽は不安を抱く。
一歩間違えば、制御装置が敵の手に渡ってしまうかもしれない、と。
しかし貴司は何の心配もなさそうに笑った。
「心配か?…たぶん大丈夫だよ。あの子は裏切らないし、なかなか胡蝶を生き抜くセンスもありそうだからなぁ。それに、俺らの魔王様直々のご指名なんだ。きっと上手くやってくれるさ」
まだ納得できていないのか、小さく頷いて理解を示した銀髪を見下ろして、貴司は気がついた。
巽は貴司たち魔王組と出会うまで、暗い場所で生き延びていた。
何の咎もない自分を自分で殺すことさえできないまま、力で支配されていた世界を生きていた。
自分よりもずっと年下の、些細な戦いを目にして怯えていた澄蓮に、昔の自分を重ねたのかもしれない。
「…陽斗も最初は一人だった。一人から始めて、国としてはまだ全然だけど、確かな基盤を造ったんだ」
自分よりもずっと年上だが、外見はうら若い少女という、奇妙なアンバランスさがある胡蝶の暗殺者。
小柄な彼女の頭を撫でて、貴司は笑った。
「アイツが精一杯造った国だ、きっとなんとか生きていけるさ」
ようやく納得したように頷いた巽の頭を、貴司はもう一度撫でた。
巽も、陽斗も、貴司も、ここにいる。
違う世界の、違う存在だけれど、それでも確かに生きている。
命に終りがくるまで、ずっと平和な世界に存在したい。
この日々を、守りたい。
「もう少し休んだら、向こうに戻ろう。…っと、しまった!こっちに来たから胡蝶との時間がズレたなぁ…」
「いえ、ヴィオレや翡翠たちが居ます。みなさまが『現実』から御戻りになるまで代用しましょう」
「ははっ…」
ささいなことでいい、笑える時間が少しでも続けばいい。
それでも。
近い未来には、暗く濁った混沌が待ち受けている。
さて、序章+閑話をここまでお読みになってくださり、ありがとうございます!
相変わらずのとくどい文章で始まります第1章…。
章ごとにテーマカラーを決めているので、今後は話ごとに背景色を変えてお送りします。
ぷらす、更新している章が分かりやすいようにトップのカラーも変えていきます。
見にくい場合は変更しますのでご一報を…!