08.菫色による胡蝶への介入
その日の早朝、休日には珍しく、慌ただしい足音が階段を駆け下りてきた。
洗濯をしていた母親は手を止め、形相を変えて台所に飛び込んだ娘を見た。
「おはよう、澄蓮。朝からどうかしたの?」
「なんでもない!今日部屋にこもるから邪魔しないでね!それじゃ!」
パンや卵焼きを口に詰めて再び部屋へ走って行った娘を見て、台所から不思議そうな顔で出てきた父親と母親が顔を見合わせた。
思春期かしら、とどちらからともなくアイコンタクトで会話をしながら、慌ただしく閉じられた扉の音を聞いた。
ぜえぜえと息も荒くベッドに飛び乗り、腹を無理やり満たした澄蓮はカーテンから漏れる光を眩しそうに見ながら目を閉じた。
普段なら食事をすればすっきりと目が覚めてしまうのだが、連日の気分的な疲労がまだ残っていたのか、すんなりと布団の中で目を閉じることができた。
頭の中を、ぐるぐると陽斗の声が回っている、体が崩れていく光景が繰り返される。
ささいなことでも恐怖をあおる夢や、気分が悪く夢は、16年生きてきたのだから、これまでに何度も見たことがあった。
それでもそういった夢はあくまで夢であって、目覚めてしばらくすれば嫌な夢だった、と言って終わるものだった。
夢の中で、これが夢だと感じているような、リアルな実感は欲しくなかった。
おかげで夢だから忘れてもいいんだ、と無意識に忘れることもできない。
さっさと夢の世界で先輩を復活させて終わらせてしまおう。
そう思って眠りについた澄蓮は、胡蝶の世界に足を踏み入れた。
匂いがした。
パン屋の前を通りすぎる時に香る、焼きたてのパンの香ばしい香り。
山登りをした時に香った、植物と土と川の、命が生まれ呑まれる場所の香り。
音がした。
耳元を風がくすぐる感覚。
木々が風に揺れるくすぐったい小さな音の集まり。
日々の生活で気づかないうちにしているように、澄蓮は瞬きをした。
目の前には海外を思わせる風景が広がっていた。
地面はむき出しで道の端には雑草が生えていて、ぽつぽつと建っている家は石を積んで作ったらしく頑丈そうだが地震が来たら危なそうな感じだ。
後ろには小魚が泳いでいる小川があり、眩しい陽の光をキラキラと反射して、今まで見たことがないくらい澄んでいた。
「来ちゃった…ぜ…」
奇妙な表情で笑う以外に、何もできなかった。
澄蓮は陽斗の説明を聞いた時から、この夢の世界『胡蝶』をRPGのゲームの世界というイメージで考えていたのだが、想像通りすぎて鳥肌が立っていた。
物語の始まりにふさわしい田舎といった雰囲気で、あの恐怖の砂漠の気配は全くなかった。
見渡す限り森や草原が広がっていて、ちょうど山間の小さな農村といった感じだった。
風向きが変われば動物の鳴き声が聞こえ、干し草や動物独特のにおいもする。
そして思った通り、制服着用で、携帯電話どころかハンカチや財布などの手荷物さえ持っていなかった。
もちろん、主人公に必要な武器さえない。
よろしくー、と言っていたくせに準備がなってない魔王こと滝陽斗に、澄蓮は純粋に殺意が湧いた。
それでも丸腰で砂漠に放り出されるよりは随分とましだ、と思いながら、とりあえず人を探そうと近くの家に向かった。
村は家が一軒一軒バラバラに建っていて、この山間にある家全てを数えてもせいぜい20ぐらいなのだろう。
春らしい気温や陽の光、道端に咲いた小さな花が明るく穏やかな雰囲気を出していた。
しかし、どこを見ても人の姿はない。
ステンドグラスのように厚みが均一ではない窓から中を覗き込むが、家の中が暗くてよく分からなかった。
「…村の人たち総出でどこか行ってるのかな…?」
家の裏にある薪が積まれた場所や、古そうだが巨大な風車、柵に囲まれている丁寧に手入れされた広い畑、野菜のくずや落ち葉などを入れている広い場所がいくつか。
なんとなく用途が分かるものもあれば、澄蓮には全く分からない不思議なものも多くあった。
それらを見て、澄蓮が想像で作り出した夢の産物ではないと、改めて実感した。
そういえば動物の鳴き声はどこからしてきたのだろう、と辺りを見渡すと、丘のような小さな山に、木々に隠れながらもちょこちょこと動く動物の姿が見えた。
近くに人の姿もあったので、動物たちの飼い主なのだと分かった。
「そっか…今は働いている時間帯なんだ」
昼も近いこの時間、現代ではデスクワークや学校の授業に勤しんでいるが、胡蝶では、自分たちが生きるためには自分たちで食べ物を作らなくてはいけないのだと理解した。
数百年前の西洋みたいな世界を想像すればいい、と言った陽斗の言葉をようやく理解した。
そして、夢の世界ではなく、一つの異なる世界だと思えばいい、と言っていた言葉も。
ただ動物を放牧させている人影を見ただけだったが、その光景は、彼らも自分たちと同じで、何も食べなくていい夢の世界の住人ではないのだと澄蓮に気付かせるのに十分だった。
同じ、血の通った人間なのだ、ということに早めに気付けてよかった、と澄蓮は息を吐く。
その時、微かにどこかで扉を開ける音が聞こえた。
はっとして澄蓮は音が聞こえた方に駆け寄る。
見知らぬ場所で一人で居ることが心細くなっていたのだ。
がちゃがちゃ、と何かの音が聞こえる音が近くなる。
人に会うのだという緊張と、色々な意味で拒絶されないだろうかという不安を抱きながら、家の影から顔を出す。
いた。
後姿だったが、背格好は澄蓮と同じぐらいで、首や手首まできっちり覆ったくすんだ色の服から、彼が細身だと分かった。
そして、目を引く綺麗な、綺麗な黄色の髪。
しゃがみ込んで動くたび、嫌みのない自然な黄色のポニーテールがさらさらと揺れて光を弾く。
小さく声を出して立ち上がった彼が、両手いっぱいに荷物を持って振り向いた。
顔に何かつけている。
「ゴーグルかな?」
ただし、水泳の時に使う物とは違って、鼻まで覆う大きな板…近未来人が着けていそうな物に近い。
縁がない薄い黄色のゴーグルは、密閉性がなさそうで、ガラス細工を作る職人が身に着けていた眼鏡を思わせる。
不思議なゴーグルを装着した人物は、澄蓮と同じぐらいの年頃のようだった。
人が好さそうというか、騙されて高価い本とかを買わされていそうというか…人畜無害を形にしたような、言い換えれば世間慣れしていなさそうな青年だ。
この人なら話しかけても大丈夫かもしれない、と澄蓮は何度か深呼吸をして、陽のあたる道に踏み出した。
これが、魔王の手先(決定)芳村澄蓮と、村一番の細工師ネオンとの出会いである。
序章終了です。
5月中に序章だけでも終わらせようと予定より早めてしまった……しかも6月まで食い込んだ…!
本末転倒でもだえつつ、次話より1章スタートです。