前編:猟師の若者と旅の佳人
昔々あるところに猟師の若い男が居ったそうな。雪深い山にある小さな家で一人住み、獣……村に降りてきては作物を食い荒らすものを狩ることを生業に生活していました。
「さあ。今日も山に入るか」
男は山歩きの装備を身に付け、家の裏手にある墓へ手を合せてから、しんしんと雪が舞い落ちる山へ入って行きます。
「山奥に棲む獣は良い獣。人里を何度も荒らす獣は外道なり」
若者は今は亡き父から教えられたことを唱えながら山の中を歩き続けます。その教えには無闇な殺生を戒める意味が込められており、害を為す獣以外は極力狩らぬようにと言っているのです。
自然に生き、自然と共に生きる。人は自然の恵み無くば生きられぬ。
「居らぬに越したことはない」
若者は心優しい者だった。幼い頃には怪我をした犬や鳥を拾ってきては家で手当したりして父を困らせていた。そんな者が無闇な殺生など出来ようはずもない。
若者の父は息子のそんな気性から猟師には向いていないと思っていた。熊や猪が牙を剥いて襲い掛かってきた時、討つことを躊躇えば死に繋がる。
だが父の心配は杞憂であった。
―――今より更に一年ほど昔。それはこの若者が元服する少し前のこと。
村に恐ろしい熊が現れた。
その熊は普通の熊よりも遙かに大きかった。優に二倍、正に見上げるような大きさであった。
その化け物熊が何処から来たのかはっきりとは誰も知らぬ。ただ毛皮に塩の結晶が付いていたことから、この熊は骨さえ凍るような氷海を渡り泳いできたと考えられた。
化け物熊は村に現れ、作物を食い荒らすばかりか家畜にさえ手を掛け、そして最後には村人にさえその牙を剥いた。化け物熊はその身に矢と礫を幾度となく浴びても倒れず、そして火さえも恐れなかった。
たった一夜の襲撃で田畑の半分の半分、牛を二頭、そして村人が3人犠牲になった。悪夢のような一夜の後に化け物熊は山へと姿を消した。
「鬼。あれは熊の姿をした鬼だ」
そうして化け物熊は鬼熊と呼ばれ村人から恐れられた。もう一度村に降りてきたら今度はどれだけ被害が出るか想像するだけで恐怖に震えた。
鬼熊を狩るにはもっと人手が要る。犠牲者の中には猟師も居たのだ。その猟師は命懸けで鬼熊と相対して村人が逃げる時間を稼いだが結局は殺されてしまった。
「近隣の猟師仲間全てを総動員しなくてはあの鬼熊は狩れぬ」
それは誰しもが思い付いた良案であり、それと同時に―――猟師仲間全てが揃うのは最低でも2日の時を要するという無慈悲な現実であった。
2日も有れば鬼熊は村を殺し尽くす。そのことを村人は想像ではなく実感として身に染みている。
「……村を捨てるしかない」
村長はそう決断する。生き残った村人全員に過酷な道を強いることになるが、皆殺しになるより良いと考えたのだ。
そうして村人は昨夜の恐怖から一睡も出来ぬまま、村長の指示の元で村から逃げる準備を始めた。昼過ぎには出立出来る段取りであった。
しかしその中で逃げる準備をせぬ者が1人だけ居た。
「―――俺は山に入る」
その者、猟師の若者であった。
若者は村人が止めるのも聞かず、明朝に槍と弓と山刀を携えて山の中へ単身入って行った。―――「父の仇。あの鬼熊を討つ」―――そう言い残して。
村人はその若者の命を諦めた。それはあの若者がこれまで一度も己の力だけで狩りをしたことが無かったから。その理由は若者の気性を慮った父が彼を付き添いだけに留めたからだ。
若者の父はたいへん優秀な猟師であったがそれでも殺された。だから若者があの鬼熊を仕留められる道理は無いと考えた。
―――しかし若者は帰ってきた。
太陽が中天に上がった時。若者は全身を赤黒く染め上げ、その背に鬼熊を屠った証、巨大な鬼熊の頭部を背負って帰ってきた。
「人食いの鬼熊。その命。山に還した」
若者は見事村の危機を救い、そして父の仇を討った。その偉業は村中で語られ村人は若者に感謝した。
若者は元服の時その偉業を称えられ、元の名を残したまま鬼殺しの「鬼」と父の「介」を合わせ「鬼介」と名乗るようになった。
◆◆◆
そうして若者……鬼介は一人前の猟師として山に入る。
狩るべき獣が居ない時は柴刈や拾ってきた木を何かしらに加工して生計を立てていた。
だから鬼介は一通りの巡回を終えると、適当に柴刈をして帰路に就こうとした。
「ワンワン!」
「……ん……おお。この鳴き声は」
よく耳に通る鳴き声。鬼介はそれが聞こえた方へ目を向けると、そこには茶色い犬が1匹居った。
「茶々丸」
茶々丸と呼ばれた犬は「ワン」と吠えてから鬼介の足元に駆け寄ってくる。
この茶々丸、昔に鬼介に傷を手当てされてから懐いた犬であり、こうして山に入ると何処からともなくやって来るようになった。
「今日はどうした茶々丸。お前の子らは今も元気か?」
茶々丸には番いと四頭の仔が居ます。産まれて間も無い小犬の為に鬼介は茶々丸達に家の軒下を貸してやったりもしました。
「ハッハッハッ」
鬼介の傍まで来た茶々丸。しかしそこで反転すると向こうへ駆けていきます。
「む、何処へ行く。―――……俺に着いてこいと言うのか?」
「オォーン」
後ろを振り返っては立ち止まり、そしてまた前へ走る。そんな行動を頻りに繰り返す茶々丸。それを見て鬼介は茶々丸が自分に着いてきて欲しいのだと考えた。
こうして鬼介は柴刈を切り上げ、茶々丸が誘うに任せて山の奥へと踏み入った。
◆◆◆
どれだけ歩いたか。そこは熊や猪すら滅多に寄りつかぬ山頂付近であった。
只の村人なら這々の体になるであろうが鬼介は慣れたもの。息一つ乱すことなくここまで辿り着いた。
「……まさか、と思ったが……」
茶々丸の後を追って山頂に近付く内、鬼介はあることに気付いていた。山深くに踏み入り幾何かして鬼介の耳にはある音が届いていた。
―――クェーン……クェーン……
それは鳴き声であった。甲高い鳴き声。
茶々丸が雑木に突っ込み、鬼介もそれに倣って分け入った先に―――見付けました。
「……むぅ……これは、なんと」
「……クァ、クァ」
鬼介が唸りながら見たそれは……鶴でした。
頭頂が赤く、白い羽毛に縁取るような黒をした、立派な鶴が居ました。
その鶴は大きく、美しかった。雪の中でもはっきりと目に映る艶やかな色彩の鶴。鬼介はそのとても見事な姿に唸ったのです。
「…………」
鶴は先程まで鳴いていたのが嘘のように静かになりました。そして逃げることもせずに鬼介をじっと目詰めてきます。
「……お前。罠に掛かっているのか」
鶴の脚には紐が絡まっていました。獣を捕らえる為に強く作られたくくり紐です。たとえ熊や猪であろうと容易には抜けられない罠。それに鶴は掛かってしまっていました。
「誰がこんな物を。俺のでも父のでもない……が、今考えても仕方が無い」
鬼介は銃、弓、槍を次々に手放すと鶴へと歩み寄ります。
「直ぐに外してやる」
鬼介は鶴の脚に絡む紐に手を掛けます。そんな間近にまで来ても鶴はおとなしく、されるがまま。
「鶴は千年も生きると聞く。もしや俺の話している言葉を理解しているのか」
鬼介は鶴のおとなしさの理由をそう言葉にしたが、直ぐに「……威嚇する元気も無いだけかもしれんな」と言って否定し、山刀で紐の端を切り裂く。
くくり紐がぱさりと雪原の上に落ちる。
「さあ外れた。これで自由だ」
「…………」
自由の身になった鶴は二本の脚で立ち上がり、翼を大きく広げます。
そしてまた鶴は鬼介の顔をじっと見て……そこで飛び立っていきました。
舞うように空を飛ぶ鶴。その姿もまた美しい。
「じゃあな、鶴よ。……良かった。あれだけ飛べれば何の心配も要らな……む? 手から血が……紐が毛羽立っていたか?」
手を振って見送っていると鬼介は自分の手の平から僅かに血が滲んでいるのに気付いた。しかしたいした傷ではなかったので血だけ拭うとそのままにした。
「ワン」
「お前はあの鶴を助ける為に俺を呼んだんだな」
鬼介は茶々丸の首回りを一頻り撫で回すと、誰の物かも知らぬ罠を回収してから手放していた装備を拾いに戻ります。
「さて。日が落ちる前に降りてしまおう。ではな、茶々丸」
「ワォーン」
鬼介が帰路に就くと茶々丸も山の中へ向かって駆けていきます。
雪山に1人。鬼介は雪を踏み締め息を白くしながらあることを考えます。
「……しかしおかしなことだ……」
鬼介は気になったことを口にする。
「あの鶴。いったい何処から来たのか……」
この地にあの鶴は棲んでいない。ここより更に北の大地、海を越えた地にしか棲息していない鶴の一種であった。
―――その疑問も家に辿り着く頃には気にならなくなった。たまたま遠くまで飛んできた鶴が不運にもあの罠に掛かった。鬼介はそう考えたのでした。
◆◆◆
鶴を助けたその日の夜。普段なら暗くなれば直ぐに床に着く筈の鬼介はまだ起きていた。
皿に魚脂を張り、麻の糸を撚った物を浸して火を灯している。薄ぼんやりととした明かりが家の中を照らす。
吐息さえ凍る風が家を叩く中、鬼介は明かりの傍で手に持った物をじっと検分する。
「この罠。まだ新しい」
鬼介が見ていたのは数刻前に回収したくくり罠であった。鬼介は難しい顔でくくり罠の状態を確認して首を傾げる。
「今、この山面に昇るのは俺ぐらい。古い罠が残っていたのかと思ったが……まさか俺のあずかり知らぬ者がいつの間にか入っていたのか?」
このくくり罠は劣化が少なく見ようによっては新品同然であった。回収した当初は過去の物がたまたま今日鶴を捕らえたのだと鬼介は考えていたが、物が新しいのならその線は消える。
つまりこのくくり罠はつい最近になって仕掛けられたということになる。しかしそうなると誰が? 鬼介はそんな疑問で頭を悩ませる。
「……やはり居らぬはず。足跡も何も無かった。」
鬼介が猟をする山は嶮しい。山頂まで行こうと考えるなら用いられる山面は4つ程しか存在しない。それ以外の山面は人の身では登頂不可能、獣でなくば進めない。
その4つの、人が踏み入れる4つの山面をそれぞれの村の猟師が受け持っている。普通なら1つの山面でも数人の猟師が組となって狩りをしているが……鬼介は1人。
そんな鬼介1人しか踏み入らぬ山に、何故か真新しい罠。
「……ちまたで噂の狐狸にでも化かされている気分だ」
鬼介は狐か狸の仕業かと考えもしたが、「考えすぎか」とこれ以上このくくり罠の出所に関しては気にしないことにした。いずれ処分するとしてそれまでは物置にでも仕舞っておこうと考え、鬼介は手に持ったそれを箪笥の奥に放り込んだ。
「さて。夜なべをしてしまった。そろそろ寝てしまおう」
灯りとてタダではない。夜更かしするぐらいならその分早起きした方が得だと鬼介は早々に寝支度を調える。
―――そんな時である。
コンコンと。家の戸口を叩く音がしたではありませんか。
「誰だ? こんな夜更けに……」
鬼介は訝しがりながらも直ぐに戸口へ向かう。もしかしたら村に熊などが現れそれで助けを求めてきた者である可能性も有るからだ。
しかしながら戸を叩く音からはそんな必死さは感じられず静かな物。急務ではないだろうと鬼介は当たりを付けると戸を開けてやる。
「何用か」
誰何もせずに開けるのは不用心であると思われるが、鬼介は破落戸や強盗の類いならば容易く返り討ちに出来るだけの心得は有る。
「―――こんばんは。このような夜更けに申し訳ありません」
来客は女であった。
旅装を着込み、顔全体を覆う深編み笠を被っておりその面は窺えない。
怪しい風体であるが鬼介は特に警戒することもなく、寧ろ女の発する声がとても綺麗だと思える余裕すら有った。女は笠の下からその透き通るような声で鬼介に話し掛ける。
「私、旅の者でして。この雪で難儀しているのですが、……もし宜しければ雪が落ち着くまで……今晩この家で御厄介になりたいと思いとを叩いた次第であります」
「なるほど。確かにこの雪の中歩くのは一筋縄ではいかないな」
女が訪問してきた訳を聞いた鬼介は「立ち話もなんだ。取り敢えず中へ」と言って彼女を家に上げる。雪が降る中で女人をいつまでも立たせているのは気が咎めたのだ。
「助かりました。ありがとうございます」
そう礼を言って女は深編み笠を取り去る。
―――鬼介は目を見張った。
笠や旅装から積もった雪が落ちる。そうした中で垣間見た女の素顔は……それはそれは美しかった。
濡羽色に淡く光る肩口で切揃えた髪と柳眉。雪のように白い艶やかな肌。紅を差したように色付く頬と唇。年の頃は鬼介より僅かにだが上に見える。しかしそれでも妙齢の範疇になる若い女。
旅の女は鬼介が息を呑むほどの美女であった。
「……? どうかしましたか」
「い、いや。何でもない」
鬼介はそう答えながらも内心では困り果てていた。
(流石にこのような美人と一つ屋根の下は拙かろう)
そう考えて鬼介は当初から女に提案しようと思っていたことを口に出す。
「……家に上げて早々、こう言うのも何だが。別の家に厄介になることを勧める」
「え?」
女は鬼介の言葉に愕然とした様子を見せる。そして震えた声で「な、何故でございましょう?」と尋ねてくる。その憐れそうな声に鬼介は胸を痛めるがぐっと堪えて答える。
「近くに村がある。そこなら貴女と年の近い女子も居る。そうした家で泊まる方が良いだろう」
鬼介も若い男である。目の前の女のように美しい異性と2人きりで過ごすというのは想像するだけで気後れする。
「夜が更けたが……俺が行って頼めば無碍にはされんだろう。だから―――」
そうしたこともあって鬼介は女をこの家に泊めるのは止めさせようと考えた。同性が居る家の方がなにかと安心だろうと主ってのことだったが―――しかし、女の反応は違った。
「そこをどうか。この家で御厄介させてはもらえないでしょうか?」
その言葉に鬼介は困惑を深める。
「……何故? この家でなくばならない理由も無し」
至極真っ当な言。それに対して女は直ぐに切り返す。
「……訳あって理由は言えませぬが……人の多いところは避けたいのです」
「……むぅ……」
不審な答えである。面倒事の臭いがする。
「……仕方が無い。そう言うのならここで泊まるといい」
「 ! あ、ありがとうございます!」
怪しいとは思う。だが鬼介は目の前の女が悪い者だとはどうしてか思えなかった。
無事に了承を得られた女は笑顔を浮かべると改めて頭を下げる。
「それではきすけ様。今晩、宜しくお願いします」
「ああ」
―――そうして鬼介は泊めることを承諾し、床を貸してやることにした。
少し引っ掛かる物を感じたが、その理由も分からぬまま。
◆◆◆
夜が明けた。
鬼介は目覚めて早々に驚いた。
「おはようございますきすけ様。……出過ぎた真似でしょうが朝餉を用意致しました」
「なんと。これは美味そうだ」
女は笑顔で鬼介に食事を振る舞った。使っている食材は何も変わらぬ筈なのにその味は鬼介が作る物とは比べ物にならなかった。
食事を済ませると鬼介は女に礼を言う。
「美味かった。ありがとう」
「いえいえ。寧ろ、家の物を勝手に使って失礼を」
「構わない。どうせこの家でとられて困るような物など裏の墓以外には無い」
片付けを済ませて鬼介が外を見れば、雪は止み寒さもだいぶましになっていました。
「どうだ。旅立てそうか?」
「そうですね」
女は旅人。鬼介は今日のような日和なら問題なかろうと問い掛け、女はそう返事をしたが―――
ぶつり
何かが裂ける音。鬼介は「なんだ?」と家の中を見渡します。そうしていると女が音の出所を見付けました。
「あらまあ。どうやら私の草鞋の鼻緒が切れたようです」
「これは」
鬼介も見てみると物の見事に鼻緒が切れていました。
「なんとも縁起が悪いですね。私、これで旅立つのはとても不安でございます」
「……確かに。これは旅先で何か良くないことが起こる前触れやもしれぬ」
「で、あれば。……申し訳ありませんがもう1日御厄介になっても?」
「仕方が無い。構わん」
信心深い鬼介は女の要望を受け入れた。女はそれはそれは嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「―――そうですきすけ様。今日も1日共に居るのなら名前も知らぬのは不便でしょう。私のことは白とお呼びください」
「わかった」
そうして鬼介とシロは今日も1日共に過ごすこととなった。
――――――
明けて翌日。
「大変です。櫛の歯が欠けています」
「それは縁起が悪い」
「ですのでもう1日」
「仕方が無い」
そうしてまた1日共に過ごす。
――――――
次の日も。
ガンッ
「―――戸の縁で脚を打ちました」
「打撲だな、痛々しい。……しかし思いっきりぶつかったな」
「ぶつかってしまいました」
「まあ、安静にするといい」
「ありがとうございます」
また1日。
――――――
「村の方から頂いた野菜を漬けてみました」
「ほほう」
「明日にでも食べられますよ」
「それは楽しみだ」
またまた1日。
――――――
―――――
――――
―――
そうしていつの間にか、鬼介の家にシロが居着いて幾分か日が経ってしまいました。
何かと理由を付けては一向に旅立つ気配を見せないシロ。鬼介は最初こそ美人との同居に悶々としたがその内に慣れ、過剰に気にすることは無くなりました。
鬼介が仕事に出ている時は、掃除洗濯や片付けに料理の支度などをシロが全てこなしていました。しかも他人を避ける事情が有ると語っていた割りに、シロは鬼介の家に村人が来た時の応対などそつなくこなしていた。
「…………」
―――そうした日々が続いたある日のこと。
鬼介は日課である山の巡回をしていると、難しく考え込んでいました。
「……仕方が無い仕方が無いとしてきたが……あまり旅人の足を止めるのも悪い、か。シロにも旅をしてきた事情という物があろう」
鬼介が考えていたのはシロの出立のことです。
大らかに物事を考えて来た鬼介ですが、流石に兄妹や姉弟でもなければ夫婦でもない男女がこうも共に過ごすのは色々と拙いと思ってきたのだ。
「気が重い」
鬼介がそう口に出したのは偽り無き心情である。
あのように美しい女人と別れるのは惜しいと。そう思えるだけの男としての気質を鬼介は持っていた。
このまま共に過ごし、あわよくば……などとも思っていた。
「―――阿呆が」
そんな妄想を鬼介は愚かであると断じて捨てる。
気を入れ替える為に薪になりそうな木を熱心に拾っていく。
「……彼女はいったい、何処から来て、何処へ向かうのか……」
鬼介は木の枝をカサカサと揺らす鳥の羽ばたきを耳にして空を見上げる。
日の影となってよくは見えなかったがその鳥はいつか見たあの鶴のように大きく翼を広げて優雅に飛び去っていく。
「……あれはあの時の鶴? ……ふっ。まさかな。もう自分が居るべき場所に帰っているだろう」
鬼介は何処までも自由に飛んでいく鶴を見て晴れ晴れとした顔になる。
「うむ。シロはあのように自由でいてほしい。―――好いた女子であれば尚更」
鬼介は意気揚々と山を下りる。シロが待っているであろう家に帰るため。
旅立つことを勧めるのである。鬼介に迷いはない。例えシロが明日明朝に旅立とうと笑顔で見送れる。
―――そうして鬼介は男らしいのしのしとした足取りで帰路へ着きました。
◆◆◆
家に帰った鬼介。それを出迎えたシロは開口一番にこう言った。
「―――嫁でございます」
…………。
「……よめ? ……暗いところを見る……」
「夜目ではございません。……嫁御でございます」
「…………」
鬼介は自らのこめかみを指でぐりぐりと押す。鈍い痛みが広がり、自分が寝惚けているわけではないことを確認する。
「……嫁御……」
「はい」
「……そうか……」
鬼介は納得したように頷く。
「そうかそうか。ネズミが出たか。……よし。飯を囓られても困るだろう、追い払っておく」
「きすけ様、違います。ネズミならたべ……げふんげふん……私でもどうにか出来ます」
「……違うのか?」
嫁御。嫁が君。これらの言葉にはネズミという意味も有った。「秋茄子は“嫁”に食わすな」も元は“嫁が君”……つまりネズミに食われぬよう気を付けろという言葉であった。
シロは鬼介にぐっと迫って言う。
「わたくしが、きすけ様の、嫁御なのでございます」
再三の言葉。
これにはさしもの鬼介も思い違いすることはなかった。
「……シロが……俺の?」
「はい」
鬼介はそうして言葉の意味を理解出来た。―――ただ、理解出来たのと納得出来るかは別問題である。
「なにゆえ、だ」
「何故とは?」
「シロは旅の途上であった筈。それなのに何故俺のような狩りしか能の無い男の嫁になどと言う」
疑問は多々有れど、突き詰めればその2つに集約される。
しかしシロはしれっと答える。
「旅は元々目的も無い放浪ゆえ。そしてきすけ様の嫁にとは、ただただ貴方のことを好いているから」
「…………」
鬼介は厳めしい顔で首を傾げる。そんな彼の様子にシロはそこで初めて不安そうな顔を見せる。
「私がここに居るのは、御迷惑だったでしょうか?」
「それはない」
鬼介はシロの言葉をはっきりと否定する。
「俺もシロのことは好きだ。だから嫁にと言われて嬉しい」
「まあ」
好意を示されてシロは顔を赤くしてはにかむ。
そうしたシロに鬼介は悩みの種を打ち明ける。
「……俺は猟師だ。……猟師だが……はっきり言って他の猟師と比べればその稼ぎと蓄えは雀の涙だ」
「そのようで」
「ああ、留守を任せていたから十分知っていよう。……確かに今の稼ぎでも共に生活は可能。……だが、夫婦となれば話しは別だ」
鬼介とシロは居間に上がると面と向かって座り込む。
「もっと狩れば稼げる。容易だ。……だがしない」
「…………」
「俺が狩るのは必要最低限、その更に最小。狩る必要無しと判断すれば追い払うだけで済ませる。そう決めている」
だから鬼介という猟師は近隣から随一の腕前を持っていると言われているが一際貧乏でもあった。狩らぬから。
「だから嫁としてのシロを養うのは、難しい」
鬼介は見栄も嘘も吐けぬ男。ありのままの自分を伝える。
こうした理由もあって鬼介はこれまで縁のある村からも嫁を貰っていなかった。
そんな夫として見れば問題だらけな鬼介。そんな折りにシロは袖で口元を隠して静かに言葉を発する。
「僥倖」
「……シロ?」
袖の下。そこで笑みを噛み殺していたシロは一度小さく頭を下げる
「……すいません、はしたなかったですね。きすけ様に気になる婦人がこれまで居なかったというのが嬉しくて、ついつい笑みが溢れてしまったのです」
「そこで喜ばれても反応に困る」
「では改め。―――私だけ好き、ということが自分を律しきれないほど嬉しいのです」
「……そうか……」
今度は鬼介がはにかむ番であった。これまで村人や女人からは単身で鬼熊を殺せるその身をおそれられこそすれ、ここまで素直に好意を向けられた経験は無かった。
―――そこで鬼介は覚悟を決めた。
「きすけ様。稼ぎや蓄えの心配は―――」
「シロ」
鬼介はシロが何かを言うより先に、胡座を掻いた自分の膝にぴしゃりと手を着くと深く頭を下げる。
「……甲斐性の無い俺だ。だがそれでもお前が好きだ。好きで好きで堪らぬ。……だからシロ。俺の嫁となってくれ」
見栄も嘘も吐けないとはつまり、己の感情も偽れぬということ。
鬼介は真っ直ぐな告白をシロにした。それしか出来ないとも言うが、それが今の鬼介に出来る精一杯でした。
「――――――」
その告白にシロは直ぐに言葉を返さなかった。
返せなかった。
「―――きすけ様っ」
言葉に出来なかった情動を。シロは目の前の夫に抱き付くことで答えとした
飛び込んできたシロを抱き留めた鬼介。彼はそのまま妻の折れそうなほど華奢な体を抱き締める。
「……これからも。共に生きてくれるか、シロ」
「ええ。ずっと」
「猟師は執念深い。俺もその端くれ。忘れてくれるな」
「ええ。わかりました」
―――こうして2人は夫婦となりました。めでたしめでたし