Lessons / 講義
その朝、リンはライアンの髪を結んでいた。
ライアンには新しい髪紐を作って渡した。今度は精霊石のビーズを糸の両端に揺れるように付け、どこから見ても、どう縛っても、精霊石はきれいに見えるはずだ。
それなのに。
「精霊は、今度は何が気に入らないんでしょう」
「迷惑をかける」
側で櫛を持ったシュトレンは、自分の主が今朝は一度も髪に触らずに、リンに結ぶよう頼んでいることを知りながら、黙って立っていた。
わがままを言っているのは精霊なのか、主なのか。
髪をさっと結び終え、リンはハンターズギルドに向かった。
年が明けて、リンは二つのレッスンを受けることになった。
ひとつは、ライアンの精霊術の講義。
これは今まで語学や一般常識を教えてもらっていた続きで、ライアンの執務の様子を見て、午後に行われる。それでもこれからは、一通り覚えるまで、積極的に時間を空けてくれるらしい。
ふたつめは、ハンターズギルドで行われる、数回の社交儀礼の講義。
『レーチェ』からの帰りに、エクレールから社交儀礼のレッスンを勧められたのだ。
「普段ハンターズギルドで開講しているマナーのクラスは、本当に基本的なことなの。相手に失礼とならない身嗜みや、挨拶の仕方、食事の作法、から始まるのよ。リンはもうできているわね。今回お願いした先生は、女性で、まだお若くていらっしゃるのだけれど、貴族対応の社交儀礼のレッスンをしてくださるの。貴族への挨拶の仕方や、ドレスでの振る舞いとか、そういうのを数回程度になる予定よ。大店の主人夫妻が身に付けたほうがいい作法ね。せっかくの機会だけれど、なかなか生徒がいないのよ。滅多に講義をされない先生だから、この機会にリン、受けてみない?」
そういえばライアンはいつも堂々と優雅で、マントの裾さばきが綺麗だったなと思い、参加を決めた。
数回ならライアンのレッスンと重なっても、それほど負担にもならないだろう。
ギルド二階の講義室に案内されると、時間になっても生徒はリンひとりで、結局個人レッスンを受けることになるようだ。
優美で軽やかな足どりで、講師が入ってきた。後ろにお付きの女性が続き、部屋の脇に待機する。
とても若い、恐らくまだ十代ではないかと思われる先生だ。刺繍で覆われた、袖の長いドレスを着て、綺麗に結い上げた金髪には、青の貴石が散りばめられている。肌は白く、頬はピンクで、陶器のような肌ってこれをいうのか、と納得する。
雰囲気が華やかで、かわいらしい先生にリンが見惚れていると、濃いブルーの目でリンを見て、ふわりと花が開くように笑った。
「遅れてごめんなさいね。あなたがリンね。私が社交儀礼の講義を受け持つのだけれど、偶然ね。私の名前にもリンが付くのよ。ケイトリンよ」
「はじめまして、先生。リンと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「まあ、先生と呼ばれるのはとても新鮮だわ。それでは今日はまず、挨拶からはじめましょうか」
リンが日本のお辞儀の仕方を披露すると、この国より北に位置する国の挨拶に近いという。
「北の方の国は男性も女性も頭を下げるのよ。じゃあ、ここでの挨拶を練習してみましょうか。ああ、貴族間での挨拶のことよ。男性は頭を下げたり、跪いたり、状況によって違うの。女性はこうよ」
二人で椅子から立ち上がり、ケイトリンの見本の形をみながら練習だ。
「まず真っすぐに立って、手は自然に横でいいわ。右足を左足の後ろまで引くの。そう、足をクロスするような感じよ。右足はつま先をついてね。それでゆっくりと両足の膝を曲げるの。ほら、ふらつかないようにして。そうよ。それでゆっくりと戻る」
「難しいですね。ぎくしゃくします」
「ええ。最初はそうかもしれないわね。貴族は小さい頃から見て、実践しているから、いつでも美しくできるのよ。裾の長いドレスを着ている時には、ドレスの裾を少し持ち上げてもいいわ。あと、とても上の階級の方とお会いする場合には、膝を曲げた時に、同時に頭を下げることもあるわ。その時はこんな感じに、自然に視線を床に落として」
ケイトリンのお辞儀は、流れるように自然で、どこにも力が入っていない。
「とても上の階級の方って、どのような方になるのでしょうか」
「そうね……。例えば、王族かしら」
ケイトリンはにっこりと答えた。
「たぶん王族とお会いするようなことはないと思います、先生」
「あら、そうかしら。……ふふ、そうね。いいわ。それでも練習をもう少ししてみましょうか」
朗らかな笑い声を立て、たとえ緊張していても、突然のことでも、優雅に動けるように習得するのだと、ケイトリンは言った。
「リンは、袖の長いドレスを持っているかしら?」
「冬至の祝祭に着たものぐらいしかないのですが」
「それでもいいわ。できれば袖の長いドレスで練習したほうが、振る舞いは美しくなるのよ。次はそれで来てちょうだい。次のレッスンは立つ、座る、歩く、よ。一人の時と、エスコートを受けた時のふたつね。けっこう難しいのよ」
「はい。先生、今日はありがとうございました」
リンは習ったばかりの挨拶で御礼を言った。
「ごきげんよう、リン。また次のレッスンで会いましょう」
次はライアンの精霊術で、工房の執務室での講義だ。
午前中に習ったばかりの挨拶をリンが披露すると、まだ合格点はやれないが、と執務机から立ってきて、リンの右手をすくい上げ、もう一度という。
「ライアン、手を取られるのは習っていませんよ。そんなの余計緊張します」
「別に同じだろう。さあ、このまま」
また儀礼の講義になってしまった。
「ライアン、儀礼ではなくて、精霊術の祝詞を教えて欲しいです。この冬のヘアドライヤーが、かかっているんですから」
「温風の祝詞は教えるが、精霊術の授業は、加護石を使わないものから始める」
ライアンの講義は、祝詞で使う古語の習得からだった。
「祝詞は、この大陸ではもう使われることのない古語を使う。知る限りでは祝詞にしか残っていない。精霊との対話の言語といってもいいな。すでにある必要な祝詞を覚えるのでもよいが、それでは新しい祝詞を自分では編み出せぬ。だからまず精霊術は、この古語を覚えることから始まる」
ライアンが執務机から取り出したのは、辞書のような、単語がびっしりと書いてある本だ。少し厚めの、表面がごそごそとした紙に手書きで書かれ、束ねてある。
「これはなにからできている紙ですか。羊皮紙ではないですよね」
「リネンの布をほぐして、水に溶かして固めたものだな。このウォーターマークが入ったものが、ウィスタントン家が使う紙だ」
陽に透かしてみると、真ん中にWの飾り文字が、透かしで浮かび上がる。
「これのオリジナルは王都に一冊だけあって、精霊術師ギルドで管理されている。これは私が昔、古語の勉強に書き写したものだ」
精霊術の習得には、この古語の本がほぼ唯一の書き残されたもので、精霊の力についてや、祝詞、魔法陣の作成に習得は、すべてが口伝だという。
「口伝だと、いつしか失われてしまうものも、あるんではないですか」
「あるな。それでも書き残したものが悪用されるよりいいのだ。それほど精霊の力は強く、どのようにその力を使うか、は、精霊術師に責任がかかっている」
「あとは精霊のご機嫌ですよね」
「皆、精霊術師を万能のように思っているので、大きな声ではいえないが、実はそれが一番結果を左右する」
「火 イグニス、風 ウェントス、終わり フィニス 、燃やす アデ、アドレ……ライアン、これ、私の国の言葉で、書き写しながら覚えたらだめですか。覚えられる気がしません。それにここ、燃やすのに六つぐらい違う単語が書いてありますよ」
「諦めるのが随分と早すぎるのではないか?」
「古語を探すのに、まずフォルテリアスの単語で、まだ読めないのがあるんですよ。間違って危険な祝詞をつくりだしますよ、きっと。それに私、すでにある祝詞を覚えるぐらいで十分なんですけど。精霊術師じゃなくて、お茶屋さんですし」
そう言いながら、リンはノートの隅にある古語の走り書きに目を留め、訳し始めた。
「ライアン、オムニアってどういう意味ですか?」
「オムニス。すべて、だな」
「ウィンキトは?」
「征服する、だ。……待て、君は何を言っている?」
「ほほぅ。『愛は全てを征服する』なんて、ライアン、情熱的ですねえ」
「違う!それは私ではない。私の勉強中に、父上がさんざん母上との出会いを惚気て邪魔を……」
ライアンが一生懸命弁解しても、リンのニンマリとした笑顔は変わらなかった。





