By the Walsmire / 森のほとりで
長め。いつもの倍ぐらいです。
リンとライアンが森から出ると、そこには大勢の騎士が集まり、数台の馬車が並んでいた。
この騒ぎで寝てはいられなかったのだろう。金熊亭の扉も大きく開いていて、騎士たちが出入りしている。
その側で指示を出していた男は、少し遅れて歩いてきたライアンとリンの姿を認めて、ほっとした表情を浮かべた。
「ギモーブ兄上?」
ギモーブは、ライアンに背中を支えられているリンにチラリと視線をやり、うなずいた。
「ラミントンにいる父上と、城門からも連絡があった。疲れているだろう? 後は任せてくれ」
「ええ、お願いします。リンの保護はすでに私からもシルフを飛ばしてあります。シムネルとフログナルドは陸路を探しながらこちらに向かっていましたが、船に切り替えました。夜明けまでに到着するかと」
「わかった。心配はいらない。早く休め」
兄の気遣いに感謝しながら、ライアンはリンを家に向かわせた。
扉には新しくつけられた錠前が下がっている。
「あ、これ……?」
「ラミントンに行く前に念のために取り付けた。『土の錠』だ。落ち着いたら解錠の祝詞を教えよう」
ライアンが鍵を手に、祝詞を唱え始めた。
「『グノーム、パラーレ アウディーレ クラ―ヴェムスピリタス』」
グノームが錠の上に立った。
「『ヴォックスヴェンティ』」
「あ……?」
リンがライアンを見上げた。
小さく錠がカチリ鳴り、 ライアンは手に持っていた鍵を少し差し込んだ。
「わかるか?」
「ええ。風の声」
「『コルアクアーエ』」
「水の心」
またひとつカチリと鳴って、半分まで鍵が入る。
「『アニマテレーナ』」
「大地の想い、かな」
次の音でさらに進んだ。
「『キュピディタスイグニス』」
「火の願い」
とうとう奥まで沈む。
「『ドムスユクスタシルヴァム アペルタ』」
ピンという音で、鍵が回った。
「やった。私でもわかりました」
「ああ。リンが知っていそうな古語で組んでみた。ここと裏庭の扉、同じ祝詞で開く。この家ではリンと私にしか使えないし、この錠は長期不在の時に使うぐらいだろうが」
「ええ。でも安心ですね。……ありがとうございます」
厚い木の扉がパタンと閉まれば、外の声は遠くなった。
どの家にも、その家独特の匂いがあると思う。
磨かれた木、暖炉の灰、工房の薬草棚、厨房のスパイス、ふかふかのシロ、鼻に届いたそれらの香りが、リンにここは自分の家だと、帰ってきたのだとわからせた。
「うっ、ふぅっ、うっ、うっ……」
ここは家。自分のテリトリー。
階段の手前で膝がガクリと沈み込む。
涙が止まらない。
「あれ……?」
ライアンがリンを抱き起し、すぐ横の応接間の長椅子に案内する。
「リン、大丈夫だ。ここは安全だ」
「うっ、うっ、ふうぅ、ラ、イアン……。お、おかしいですね。どうしちゃった、んだろ……」
「それだけのことだったのだ。もう泣いて良い」
「ふうぅぅぅうう、ううぅ」
ライアンの胸元にリンの声が吸い込まれた。
ひとしきり泣いて落ち着くと、リンはライアンの胸から顔を上げた。
恥ずかしさがこみ上げるし、頭もぼーっとする。
全く気付かなかったが、いつの間にかあちこちの燭台にも暖炉にも、火が入っているではないか。
「っく。あっ。ごめんなさい! ひっく。どうしよう。ライアンのマント……」
リンの涙だかなんだかわからない液体がべったりだ。
「構わない」
ライアンは立ち上がるとマントを肩から外し、椅子の背に掛けた。
「茶を淹れよう」
リンが目を丸くした。
「えっ。ひっく。ライアンが?」
「ああ、落ち着くだろう?」
「そうですけど……。あ、ライアン、そこにはないんです」
侵入のあった後、念のために応接室の茶葉は捨ててしまった。
「二階のはそのままなんですけど」
「わかった」
二階に向かうライアンの後をついて、リンも自室へと向かった。
顔を洗い、身支度を整え、再度下に降りれば、ライアンが二階の居間で砂時計をじっと見つめている。
「ふっ、ふふふ。大丈夫ですよ、ライアン。ふふっ。そんなに集中しなくても」
「いや、でも、せっかくだから美味しく淹れたい」
そのまま目を離さずにライアンは答える。
「よし」
待ちかねた砂が落ち切ったようだ。
リンは吹き出さないように横を向いた。
「あ、そこで少し軽く回すようにすると、濃さが均等になりますよ」
「こうか?」
「ええ。それで、私とライアンのカップに交互に注いでください」
「ああ」
ライアンは真剣だ。薬のようにきっちり均等に注ごうとしている様子が見えて、リンは口の内側を噛んだ。
台湾の鉄観音茶だ。香ばしく、ほのかに甘い香りがカップから立ち上る。
「どうだ……?」
ライアンはソワソワとリンの顔を見る。
一口飲めば、胃から温まった。それから心も。
お茶にはやっぱり不思議な力があるに違いない。
「おいしい」
「そうか」
ライアンは嬉しそうに、自分のカップに口を付けた。
「ライアンにお茶を淹れてもらえるなんて。初めてではないですか?」
「いつもリンが淹れるのを見ていたからな。思った以上に緊張したが」
「ふふっ。真剣でしたもん。でも茶葉の量もお湯の量もぴったりで、おいしく入ってますよ」
「茶菓子がないが……。そうだ」
ライアンは鞄を漁ると乾燥アプリコットを取り出し、ソーサーの上に置いた。
これを茶菓子にするらしい。風味は鉄観音茶にも合うだろう。
「……ああ、すまない。これを忘れていた」
鞄から出て来たのは、リンの加護石のブレスレットだ。
「あ!」
「……これを見つけたと聞いた時の焦りと心の痛みは、誰にも想像できないだろう」
ライアンはリンの手首にブレスレットを戻しながら、ギュッとその手を握った。
青い目が、リンを見つめている。
「あの人たちは、これがなければ大丈夫だと思ってたみたい」
「ああ」
「私、私も怖くて。うっ。使えないって思われてるなら、様子を見ようと思って……」
リンは唇を噛んで、声の震えを押さえた。
「もう。今日はおかしい。どうしてまた……」
頬を押さえるリンの指の上にライアンも手を重ね、その涙を拭う。そのまま、噛みしめている唇を緩ませるようにそっと撫でた。
「それだけ緊張と不安が続いたということだろう。 大丈夫だ、リン。泣いて軽くなるなら泣くほうがいい」
「途中でシュージュリーにも入ったから、どこに連れて行かれるんだろうって。でも、本当にヴァルスミアに行くなら逃げるチャンスがあると思って」
「いくら精霊がついてるとはいえ、不安だっただろう」
「ええ、あの……」
リンが言い淀んだ。
しばらくためらった後、リンはスッと顔上げてライアンを見つめた。
「さらわれてどうしようって思った時、真っ先にライアンの顔が浮かんだんです。ライアンに伝えなきゃって」
「リン……」
「聖域でもライアンの顔を見て、本当にほっとして。心から安心して。私、ライアンの顔しか思い浮かばなかった。ヴァルスミアに帰りたい。あなたのそばに帰りたいって。それだけを思って、自分の気持ちに気づきました。ううん、違う。多分ずっと前から知ってて、でも、ずっと心地いい日常を楽しむばかりで、ライアンに返事をしてこなくて……」
尊敬や憧れの気持ちの奥に、ずっとあった感情。
「リン、私もだ。リンの姿がないとわかって、シルフを暴走させるとこだった」
「暴走? ライアンが?」
「ああ。行方がわかるならそれでもいいと思った。オグに止められなければ大風となったはずだ。焦り、不安、願い、リンをまた私のそばに。そう強く思って力が揺れた。今思えば少しの余裕もなかった。止めてくれたオグに感謝だな」
ライアンがふっと苦笑した。
「リン」
ライアンがリンの目の前に跪いた。
リンの左手はライアンに取られたままだ。
「リン、愛している。嬉しそうに食べるところも。お茶を飲んで満足そうにするところも。夢中になって新商品を考えているところも。レシピを思い浮かべてニンマリしているところも。精霊に甘いところも」
「……精霊に甘いのはライアンもじゃないです? それに、なんか微妙。食べ物ばっかり? 私ってそんな感じです?」
「微妙か」
ライアンがピンと背筋を伸ばし、手を握っているのとは反対の腕を大きく広げた。
「シルフが愛の歌を運び、サラマンダーが心に情熱の火を灯した。オンディーヌのように麗しき君」
「待って、待って、ちょっと待って」
「これもダメか。フォルテリアスではよく使われる言い回しなのだが」
ライアンが楽しそうだ。リンをからかって楽しんでいる。
「もう」
「リンの笑顔を見ると私も幸せだ。これからも私の側で笑っていて欲しい。二人一緒に、笑って、お茶を飲んで、食事をして。これからもずっと共に」
リンは微笑んで、ライアンの手をキュッと握り返した。
「はい」
初めて会った時から綺麗だと思った、南国の海のようなアクアブルーの目が、リンをじっと見つめている。
出会った時は氷のような冷たさで睨まれたが、今は熱を帯びている。
「ふふふっ」
「どうした」
「初めて会った時から こうやって、ずっとこの手を引かれてきたなって」
「そうだったな」
「ライアン。私も、愛しています。これからもあなたと、このヴァルスミアの森のほとりで、一緒に時間を重ねたい。あなたと」
ライアンがふうっと長く息を吐いた。そして本当に嬉しそうに微笑んだ。
二人の側に精霊も近寄り、ぴったりとくっついてくる。
グノームがライアンの髪の間から顔をのぞかせた。
「……それから、精霊たちと」
「精霊もか。……まあ そうだな」
ライアンは立ち上がり、リンを引き上げるとそのまま腕に包んだ。
リンの頭の上にライアンの顔があたり、全身を包みこまれている。互いの熱が伝わって、それだけで幸せな気分で満たされる。
「離れがたい、な」
ライアンの声が降ってきた。
顔が自然とほころんでしまう。
「ええ」
「本当はリンを送って、すぐに去るべきだったんだが……」
「このまま一緒にいたい、ですよね」
ライアンが息を呑む音が聞こえた。
突然、ガバリと身体を離される。
淋しい。そんな思いでライアンを見上げた。
「う……。り」
ライアンは顔を背け、口元を覆った。
「理性が……。これか、父上が言っていたのは……」
ボソボソとこぼすライアンの声はリンに届かない。
「う、り?」
ライアンは小首を傾げて見上げるリンの肩をそっと押し、その視線を長椅子に向けた。
「リン。せっかくだから話をしよう」
「話?」
「ああ、これからの、共に過ごす未来のことを」
リンは笑顔でうなずいた。
お茶は、リンが淹れ換えた。
長椅子に並んで座り、お茶を飲めばいつもの日常のようでほっとする―――とはならなかった。
ライアンの右手が、リンの左手から離れない。
「飲みにくく、ないですか?」
「いや、大丈夫だ」
まあ、お茶は片手でも飲める。
そう。飲める。だが、どうにも居たたまれない。
「そうですか。……えーと、そうだ。結婚式はどうでしたか?」
「ああ。つつがなく執り行われた。リンがいなくなったことで動揺はあったが、その分周りの者がなんとしても式を成功させようと、頑張って動いていたように思う。……落ち着いたら、改めてラグナルたちに会いに行くのもいいかと思う」
ライアンの親指が、リンの手を繰り返し撫でている。
なぜこの人はこんな普通の顔でお茶を飲めているのだろう。リンの頭の中はアタフタ、グルグルしているのに、と、解せない思いでいっぱいだ。
「え、ええ。そうしたいです。……結婚式、見たかったなあ」
「あのネックレスと婚約のピンをグラッセは身に着けていた。ラグナルは、そうだな、今までにあんな甘やかな表情をしているのは見たことがなかった」
ライアンはふっと微笑むと、カップに口を付けた。
え、自分がどんな顔をしているかわかって言ってます? と、リンは心の中で突っ込んだ。口には出せなかったが。
「そうだ。リン、その、私たちの結婚式は来年の夏にしたいと思うのだが、大丈夫だろうか。急げば支度も間に合うと思うのだが。再来年だとゆっくりと整えられるが、そこまで待つのは……」
長すぎる、とボソボソ言うのが聞こえる。
「わ、私たちの結婚式……」
なんだかどんどん進む話についていけないが、準備を考えるとそうなるのだろうか。
「半年以上あるので十分だと思いますけど」
「いや、シュゼットなどはもう三年以上も準備をしているが、それでも間に合わないかもとたまに泣き言を言っている。ドレスに宝飾、家具、王宮の方はフロランタンが整えているらしいが」
「お、王宮に嫁ぐ人と同じに考えられても……。ん?」
ライアンは賢者だ。似たような支度がいるのかもしれない。
「あの、結婚したらどこに住むのでしょう。館?」
「そうだな。館にも部屋ができるだろうが、リンにはこの家の方が落ち着くのだろう?」
「ええ。その、このぐらいの方が私には気が楽です。この家にも愛着がありますし」
「それならこの家でいいと思う。一日に一度は館に報告に行かなければならないし、館で過ごすことが必要なこともあるだろうが、私もそれで問題はない。ただ、だとすると、ここの準備もいるのか。クグロフも依頼が重なっているだろうが……」
ライアンが考え込んだ。
そんなに準備することがあるだろうか。この家で一番貧弱だった厨房も、ブルダルーによって整えられた。精霊道具も家じゅうに設置されている。
「そんなに準備することもないと思うんですが」
「いや、あるだろう。 私たち二人の寝室も整えなければならないし」
「二人の寝室……」
分かってはいても、耳で直接聞く衝撃はすごかった。 どこを見ていいのかわからずに、視線がうろつく。
ライアンはそんなリンに気付かず、言葉を続ける。
「間に合わなければ館から運びこんでもいいか。いや、やはり新しくするべきだろう。リンの部屋はアレだからそのままにして、 二階、いや、三階の空いてる部屋を新たに整えればいいか。三階の浴室も」
「浴室は十分だと思いますけど」
「ラミントンの家族風呂ほどは無理だとしても、 ある程度 大きくないと窮屈だと思うが」
この家にあの家族風呂は無理があるだろう。三階が全部浴室になってしまう。
ライアンは忙しさもあって温泉にさほど通っていたとは思えないが、もしかしたら、ラミントンで風呂の良さにハマったのかもしれない。 風呂好き仲間が増えたと、リンは喜んだ。
「お風呂、気持ちいいですもんね。足を伸ばしてのんびりと入りたくなる気持ち、分かりますもん」
ニコニコと嬉しそうに言うリンを、ライアンがまじまじと見た。
「あー、リン。まさかと思うが、もしかして、分かってないのか?」
「何をです?」
「その、結婚後は二人で入浴することになるのだが」
「えっ! ええー⁉ えーっ! うそっ! 本当に?」
ライアンがうなずいた。
「少なくとも私の知る限りでは、皆。だから新居の浴室を整えるのは普通だ」
ライアンが、はぁ、とため息を吐いた。
「家族風呂まで作っておいて、まさか知らなかったとは……」
「うぅ。そんなことだとは…… あっ!」
『ひっろぃふぅろがよいじゃろぅ』
『めっでたぃ。しっんこんじゃ。ふぅろはだいじじゃ』
脳裏にシュージュリー兵の言葉が蘇ったリンは、頭を抱えた。
「うわー、シュージュリー兵たちもお風呂好きだとばかり……。結婚するから、温泉施設建設で納得されたんだ」
「リン、あのアップル&スパイスの石鹸が、どうしてあれだけ売れたと思っている……」
リンがガバリと頭を上げた。
「ああっ! それでっ! ……一緒に入ってるんじゃ、効きますよねえ。ほのかに香るどころじゃないかあ」
顔を真っ赤にして頭を抱えていたと思ったら、今は納得したようにうんうんとうなずいている。
ライアンは少しいたずら心を出し、リンの左手を再度取った。
「二人で使う日を楽しみにしている」
「ひえっ。だ、だめですよ。 あのスパイスのはシロが苦手なんですから」
「大丈夫だ。金熊亭に預かってもらえばいい。アップル&スパイスは、確かリンの好きな香りだろう? 楽しみにしている」
「えーと、でも、えーと」
アタフタとするリンにライアンはクスリと笑い、リンの腰を引き寄せるとその耳元で囁いた。
「あれを使って三日籠ろう」
リンがパッとライアンを見上げた。
「み、み、みっか? 三日はまずいでしょう⁉」
「じゃあ二日」
「籠ることは決定なんですか……」
「父上が二日許されるなら、私も」
「え、あれ! うそっ! うわーん、知りたくなかった……」
慌て、うろたえるリンの頬はリンゴのように赤い。
それもかわいい、と、ライアンはまたリンを抱きしめた。
フランス人のように甘々なセリフをライアンに言わせたかったですが、どう日本語に訳しても変なのです。ホントにこんなこと毎日いってるのか? 良く言えるなー、レベルでした。
次、エピローグです(番外編・未来編などを除いて)





