The Rocky Mountain in the South 6 / 南の岩山 6
リンが通されたのは離宮の主寝室、つまり、もとは水の賢者の部屋だった。
「おおー。ライアンがこの部屋を嫌がった気持ちはわかる。ま、美術館だと思えば……」
怖々と部屋に入ったリンは、ひとり、うんうんとうなずいた。
ライアンには固辞され、それを見たタブレットもニヤリと笑ってリンに譲ったのだ。
水の賢者の部屋は、当然だが、オンディーヌへの愛にあふれている。
ドア横の壁には一面にレリーフが施され、大きな彫刻壁画になっている。
オンディーヌがこちらへ両手を伸ばし、もう一人の人物も逆に奥にいるオンディーヌへ手を差し伸べている。
愛し合う二人の逢瀬のようだ。
「あ、初めて自分も登場してる! これが水の賢者ってことだよね。……あ、これ、聖域だ」
二人の背景にはオークの大木が立ち、足元には湧き水がある。
見慣れた聖域の風景だった。
リンは改めて、くるりと部屋を見回した。
別の壁に飾られたオンディーヌの横顔に、窓の近くに置かれた胸像。どちらもこの館の女主人のようだ。実際、水の賢者にとってはそうだったのだろう。
リンのように美術館に宿泊と思えばいいのだろうけど、ここまでオンディーヌ愛にあふれた部屋はライアンの好みではないだろう。
そしてサラマンダーにとっても居心地が悪いらしく、この部屋に入ってすぐに暖炉に飛び込み、火を点けて籠ってしまった。
荷ほどきの最初に旅行用の小さなお茶セットを引っ張り出した。
蓋杯に小沱茶という小さなおわん型のプーアル茶を一つポンと入れ、沸騰したお湯を注ぐ。
茶葉をぎゅっと固めた茶は指先でつまめるほどの大きさで、旅には便利だ。
蓋を取って香りを嗅ぐと、リンは横のカップに茶を注いだ。
一口含むと、リンは目を閉じた。
苔生した木や、雨上がりの岩のようなミネラルの香りが、水に囲まれたこの島にぴったりな気がする。
「生き返る……」
肩の力が抜け、脳の凝りまでもがじんわりとほどけていく気がする。
リンが満足して大きく息を吐いたところへ、火の中からサラマンダーが顔を出した。
「……チロップハ?」
「あ」
リンは慌てて腰のバッグをパタパタと叩いたが、さすがにシロップは持ってきてはいない。
「うーん。館の文官さんかロクムさんなら持ってそうな気がするけど」
サラマンダーがじっとリンを見上げる。一人だけ飲むな、と、責められているかのようだ。
シロップと聞こえた他の精霊たちもリンの側に集まってきた。
「約束だもんね。甘ければいい? えーとね……」
リンは腰のバッグを探り、小さな包みから乾燥アプリコットを取り出した。
少し千切るとカップに入れて、上からお湯を注ぐ。
湯気とともに、甘い香りが立ち上ってきた。
「まだまだ。ちょっと待って。あっ、ダメっ! グノーム、落ちるよっ! ほら、まだ熱いからっ!」
精霊を掴みポンと遠くへ放り投げれば、ヒャハハハと、笑いながら飛んでいく。
「ほーら、楽しいねえ」
また次を掴んで、飛ばす。
精霊を投げるライアンに驚いたこともあったが、今ならよくわかる。手が足りないのだ。
楽しくなった精霊がイソイソと飛ばされにくるのを相手しながら、もう一方の手で少し水を足した。
ほのかに色づいたお湯を少し飲んで確かめる。
「よし。このぐらい甘ければいいでしょう。はい。もういいよー」
カップを置くと、精霊たちがふわりと下りてきた。
◇
階下の食堂は窓が大きく、直接外に出られる場所もあり、昼間であれば湖が見えるのだろう。
リンが食堂に入った時には、すでに皆がそろっていた。
テーブルの隅を囲んでいる者もいて、何かと思えば、見本として持ってきていた卓上七輪が載っている。
「今夜も七輪を使うんですか?」
「ええ。実際にやってみた方がわかりやすいだろうと、ライアン様にお許しいただきましたので」
ロクムが頷いて応えた。
ヤナンが炭を七輪に入れ、網を上にセットしている。
その中にリンから離れたサラマンダーが潜りこんだ。
「サラマンダー、そこにいるのはいいけどね。火を強めたらダメだよ」
サラマンダーは顔をのぞかせてうなずき、また火の中へ入っていった。
こんなサラマンダーは初めてで、少し心配だ。今日はたくさん甘やかしてあげようと思う。
「急だが、何か焼けるものがあるだろうか」
「あの、今日は豆の煮込みをご用意していて……。ええと……」
ライアンの問いに、ユナンがオロオロと申し訳なさそうに言う。
「野菜やきのこでも……。お、そうだ」
オグが腰につけた鞄から、包みを引っ張り出した。
結構大きくて、鞄の入り口でひっかかっている。
「ラミントンの屋台でもらったんだが、これでもいいんじゃねえか?」
ヤナンが受け取って広げ、少しひるんだような顔をした。
「ひぇっ、こ、これは……?」
「え?」
思わず目を見開いた。
一見するとグロテスクだが、リンには見慣れたもの、乾燥スルメだった。
「……インク・フィッシュか? だが、これはカチカチではないか」
タブレットが手を伸ばして、叩いている。
一夜干しとはだいぶ違うだろう。
「まさかコレが出てくるとは思いませんでしたよ」
スルメの束が、丸ごとだ。
「今朝、出がけに渡されたんだよ。売り物にならない小さいのや千切れたのを乾燥させたら、美味かったらしい。日持ちがして干し肉代わりになるからハンターに広めてくれ、ってな」
「売込みをかけられたんですね」
ライアンが手に取った。
「確かにここまで乾燥させれば、干し肉の代わりになるか」
「ああ。売ってはやりたいが、この見た目だしなあ」
リンがニンマリと笑った。
「大丈夫。問題ないですよ。だって、おつまみにピッタリなんですから」
酒を愛するハンター達が飛びつかないわけがないです、と、ドヤ顔でいう。
「お、これもつまみか!」
「このまま食べるのか?」
「ええと、ちょっと炙ると柔らかくなって、塩気があって、旨味が濃厚でおいしいですよ。あの一夜干しの味がぎゅぎゅっと濃縮されるんですから」
昨夜、飲み会に出たメンバーが黙った。
それぞれが味を思い出しているのだろう。
「……ビールに合いそうだな」
「千切って食べればいいのか?」
「本当に干し肉みたいなものなのだな」
「昨夜のインク・フィッシュも良かったですが、日持ちするなら船にもいいかもしれませんね」
タブレットとロクムも触ってみている。
「料理にも使えますよ。このままお芋や野菜と煮ても旨味が出ますし、揚げても……。ああ、アレもビールがすすむんですよねえ!」
リンが思い出したらしく、首を振りながら力説している。
「よし。ちょうどいい。炙るか」
「リン、次の飲み会で揚げたヤツも……」
「それなら、私が帰国する前にしてくれ」
「レシピもできればお願い致したく」
「あー、はいはい。わかりました」
皆が言い募るのを軽くいなしながら、リンは席に着いた。
「こちらが『オンディーヌの賜物』になります」
小さなグラスに入ったフルクタ酒だ。
色はかすかに黄金色をしているだろうか。
「乾杯しよう。ドルーと聖霊に」
「「「ドルーと聖霊に」」」
リンはまず香りを嗅いだ。
これが果実酒だとわかるぐらいには甘くてフルーティだが、初めて嗅ぐ果実の香りだ。口に含めばさらりと喉に落ちる。香りよりもすっきりとした味わいの酒のようだ。
フルクタ酒が喉を滑り落ちると、腹の底から香りが上がってきた。
「これが今年のフルクタか」
「これを飲むと1年も終わりだって気がするよ」
「食前酒なんですね。皆さんの好みにあった、もっと酒精が強い、クセのある酒なのかと思ったんですけど」
網の上にどうにかインク・フィッシュを収めたヤナンが頷いた。
「食前酒と飲まれると聞いたのでそうしたのですが、普段は違うんです。ここでは外から戻った時や寒い夜に、少し温めて飲むんです。身体が温まりますので」
「そういった飲み方はしたことがないな」
「雪と氷に閉ざされる村での楽しみです。ひと冬大事に、チビリチビりと。春過ぎになると味わいも変わるんですよ。もっと濃く、とろりとしてきます」
「んー、春までなんて保ったためしがねえよなあ。冬至の宴でほとんど飲んじまうだろ?」
ライアンがうなずいた。
「ああ。今年のものは少し取っておこう」
「あ、それ、私も試してみたいかも」
食前酒を少しずつ口にしていたリンが、珍しくライアンに訴えた。
「お? リンが酒を飲みたいなんて、珍しいじゃねえか」
「気に入ったのか?」
「これ、おいしいですねえ。すっと身体に入って、風味も一口ごとに違う感じで」
かなり気に入ったらしく、リンはお茶を飲んでいる時と同じ笑顔をしている。
「もう少しお持ちしましょうか」
ヤナンが嬉しそうに提案する。
「ええと、はい。できればここの飲み方で少し温めたのも試してみたいんですが」
「もちろんです。……皆さまはどうされますか?」
「インク・フィッシュが気になっているのだが……」
「私もだ。先ほどから香ばしくてな」
タブレットが鼻をスンスンとさせる。
「じゃあ、ビールだな!」
オグの言葉にリン以外がうなずいた。
食事の間中、リンはご機嫌だった。
会話はほとんど卓上七輪の製造販売についての商談だったが、リンも参加していろいろアイデアを出した。
この地の郷土料理だという肉と豆の煮込みは肉がとろけるほど煮込まれ、豆に旨味の染みた滋味あふれるものだ。添えられた野菜の酢漬けも口がさっぱりとする。
真鍮のカップで温められた酒を飲めば、お腹から温まる。
料理はおいしく、酒もいける。これで幸せな気分にならないはずがなかった。
カタンと背後で音がして、振り向けば屋外にシロがいる。
「えっ、シロ? いつ外に出たの!? ってか、なんで、ビショビショなのー‼」
「先ほど出たがったので、出してやったのだが」
タブレットが言う。
慌てて立ち上がり、戸外に通じる窓を開けてシロを迎え入れる。
「水浴びでもしてきたんじゃねえか」
「水浴びって、えー、シロ、お風呂の方が好きでしょう? もうっ。……あ、すみません、布をいただけますか」
リンが焦ると、ライアンも立ち上がった。
「リン、乾かしたほうがいいだろう。暖炉の側へ。……インフラマリオ」
ライアンが暖炉に火を点け、リンとシロを呼ぶ。
リンが布で拭き、ライアンが温風を当てている時にそれは起こった。
ゴトンとテーブルで何かが倒れる音がした。
「「おおっ!」」
「えっ?」
その音に目をやったすべての者が、テーブルの上で美女が立ち上がるのを目にした。
「っ! なんだこれは……」
「オンディーヌ、……だよね?」
リンは目を見開いた。
オンディーヌだ。でも、精霊の小さき姿ではなく、そこかしこにある彫像が動き始めたかのようだ。
その美女がうーん、と伸びをして、ふわりと浮き上がる。
リンはライアンの袖にすがり、呆然と見上げた。
「いったい、何が……」
「あっ。おい、オンディーヌ、フルクタ酒を飲んだみたいだぞっ!」
オグがテーブルの上を見て、叫ぶ。
ライアンとリンが駆けよれば、倒れたリンのカップの中にグノームが座り込み、シルフがフラフラと舞い上がった。
「ええっ! 飲んじゃったの!? ダメでしょ!」
飲んでいないのは七厘に籠ったままのサラマンダーだけだ。
「フフフフフ。ミズノチカラ ノ ツヨキコト。キヨキコト。ホホホホホ……」
その声が聞こえたリンにライアン、オグがパッと頭上を見上げた。
オンディーヌはフフフ、ホホホ、と笑いながら、くるりと回り揺蕩っている。
「オンディーヌって、もしかして酒癖が……?」
「ハア。知らぬ。飲ませたことなどないからな」
「リンが美味しく飲むから、釣られたんじゃね?」
「あっ! 部屋でさっき飲ませたのと、同じ色合いかも。……あの、皆さんアレが見えてるんでしょうか?」
水の加護を持つ者だけではなく、そこにいた全員が驚きの顔でオンディーヌを見つめている。
「ああ。見えている。初めて見たが、あれが精霊か。美しいものだな」
リンの問いに、タブレットがうなずいた。
「あっ、おい! エクレールの顔で抱きつくんじゃねえよ!」
下りてきたオンディーヌが館の文官に腕を伸ばしたところへ、オグがバタバタと走り込んだ。
「ウフフフフ」
からかい、誘惑するようにオグの頬を触り、また上空へ逃げる。
酔っぱらった美女は目つきもとろりとして、どこか艶めかしい。
「くそっ!」
「アレがエクレールさんに見えてるのか。オグさん、大変だ……。なるほど、アレなら水の賢者も悩殺されるわけですねえ」
「リン、他人事ではない。捕らえねば」
「そうですね。ほら、オンディーヌ、来なさい」
リンが声をかけるとオンディーヌはふふっと笑いながら目の前に降りてきた。
捕まえようと手を伸ばすとさっと身を翻して、また浮かび上がる。
そのまま 部屋を出て飛んでいく。
「コッチヨ!」
「ああ、ちょっと待って! 待ちなさい!」
慌てて追いかけると、 館のエントランスホールで水柱がドンと立ち上がった。
中央にある水場の周囲で踊りまわるオンディーヌは、今は子供のようだ。
「ウフフフフ」
「きゃっ。オンディーヌ、止めて」
降ってくる水しぶきでホールはびちゃびちゃになっている。
「うわっ。ダメです」
「くそっ!」
ヤナンとオグが水を止めようとしているが、勢いに負けている。
「オグ、ヤナン。続けてくれ。水を止めるぞ。リン、オンディーヌを捕まえられるか?」
「はいっ! ああ、もうっ!」
オンディーヌに手を伸ばしながら、大ホールを走り回る。
水路を避けるのでなかなか近づけない。
水路を気にせず追いかけて、飛び掛かっているのはシロだ。
「ああ、せっかく乾かしたのに、って、人のこと言えないか。はあ」
ここにいる者は全員、頭からびしょ濡れだった。
ライアンが水場の水を抑えれば、今度は水路から水が吹き上がる。それをオグとヤナンが見つけては止めている。
「ヤナン、無理するな! オンディーヌ、だから抱き着くなって言ってるだろっ!」
ときどきオグの罵る声が聞こえる。
オンディーヌの側にいるシルフに応援を頼みたいが、こちらも酔っ払いだ。頭を揺らし周囲に小さなつむじ風が起きている。
グノームは恐らくまだ食卓の上にいるだろう。
唯一素面なのはサラマンダーだが、この状況で呼んだらよりひどいことになりそうだ。
だからリンが走るしかない。
これが終わったら、精霊たちは絶対禁酒だ。
「オンディーヌ、待って。降りなさい。キャッ」
濡れた床は滑り、リンが床に手を付いた。
ライアンが振り向く。
「リン、大丈夫か」
「ええ。大丈夫。……あっ!」
リンに顔を向けているライアンに向かって、オンディーヌが降りてきた。
チャンスだ。
立ち上がって、リンは駆けた。
抱き着こうとするオンディーヌとライアンの間に割って入り、手を伸ばす。
「ダメだったら!」
捕まえた気がする。
その途端、リンは眩暈とともに倒れこんだ。





