Humidifier / 加湿器
「じゃあ、私は加湿器本体の方を進めますね」
『濃霧』の改変申請を出したばかりだが、ライアンは先に進めるべく、すでに戸棚から書類を取り出していた。
リンも少しは魔法陣を理解できるようになっているが、既存の、その中でも比較的簡単な物を描けるぐらいであって、とても新しい魔法陣を作ったり、改変できるような知識はない。
魔法陣の単語帳を貸し出されそうになった時には、慌てて断ったリンだ。
ましてや軍事用のものは、知ってはいけない、というより、知りたくもないので謹んで辞退したい。
『加湿の石』の部分はライアンに任せて、自分は石以外の部分に協力しようと、リンは決めた。
「ああ、頼む。……本体は、木工では難しいだろうな」
「そうですねえ。ミストですから、ガラスか磁器って思っていますけど。こういう雫型の外見で、上の細い部分からミストを出す感じです」
リンは自分が持っていた加湿器を思い出しながら、両手で水滴のような形を作って見せた。
「わかった。職人も揃っているし、まずはガラスで作ってみるのが早いだろう。本体ができたら『精霊石』と合わせてみよう」
「ええ。いってきます」
ライアンは軽くうなずくと、すぐに書類に目を落とした。
リンが工房からライアンの執務室へ入ると、話が聞こえていたのだろう、シムネルがにっこりと笑った。
「私も同行いたしましょうか?」
「いえ、シムネルさんも仕事があるでしょう? 私は今日は一日天幕にいるつもりでしたし、他に予定はありませんから。……そうだ。ついでにお昼ご飯も見繕ってきますよ」
「助かります。ボーロに頼むおつもりでしたら、まず天幕にいって、商業ギルドのトゥイルと話すとよろしいですよ。ウィスタントンの商品という形ではなく、砂時計のように各地のガラス職人が関わりそうですし。精霊術師ギルドだけでなく、薬事ギルド、ガラス職人ギルドなども関わりそうですから、まとめて手配してもらうといいかと」
「ああ。そうなりますよねえ。わかりました。そのように話してみます」
じゃあ、と出て行こうとしたところ、シムネルも立ち上がった。
なんだろう、と、見ると、シムネルがにこりとした。
「濃霧を出される前に、工房の外扉を開けておこうかと」
結果的に、『加湿の石』を使った新しい精霊道具である加湿器は、今までに例がないほど迅速に開発、登録がされ、販売が可能となった。
様々状況がうまく重なってくれたおかげで。
まず、ライアンは『濃霧』の改変許可が正式に届く前から魔法陣に取り掛かった。
軍事用の魔法陣だからこそ、改めて検証の必要がないほど過去の記録が揃っており、そこに欲しい機能を付けるのは簡単だったらしい。
「サラマンダーでもないしな」
その一言で納得できるぐらいには、リンも精霊と付き合ってきたのだが。
ふうん、と思いながら、出来上がった『濃霧 改変版』の精霊石を覗き込めば、今まで見た魔法陣と比べてもひときわ線が多く、ごちゃごちゃとした複雑な魔法陣が浮かびあがった
「え! これ、簡単じゃないですよね⁈ この辺なんか、魔法陣が重なってる……?」
「いや、『濃霧 改変版』自体は、さほど難しくない。ただ、もともと『濃霧』は軍属の、中でも一部の術師しか知りえない軍事機密なのだから、誰にもわかるものにするわけにはいかぬだろう? 改変許可も、それが絶対条件だった」
「ああ、それはそうですねえ」
納得だ。
「必要のない記号を組み込み、ダミーで発動しない魔法陣も重ねてあるから、まあ、描くのは多少手間取ると思うが」
「多少ねえ……」
リンは遠くを眺めた。
この魔法陣を刻む、土の術師の嘆きと絶叫が今から見えるようだ。
実際、発表された後にこれを見たオグさんは「うおっ! 何だこりゃ……」とひとこと言って、絶句した。
「この『花告の風』を閉じ込めた『風の石』だって、新規の魔法陣なんだよ。それを最初から間違いなく、滑らかに描くのだって大変なんだぜ? 土の術師は何度も練習してから、取り掛かるはずなんだ。だがよ、この『濃霧 改変版』を前にしたら、子供のお絵描き程度に思えてくるだろうよ」
土の術師には残念なお知らせだが、鬼畜で、無慈悲な魔法陣である『濃霧 改変版』は、間もなく注文が殺到することになった。
次に、『濃霧』の改変許可から始まって『加湿の石』の登録まで、精霊術師ギルドの女性職員がかなりがんばってくれたこともある。改変の許可連絡が来た時には、すでにライアンは『加湿の石』を完成させていた。許可連絡の一刻後には、新しい精霊道具として登録申請が提出され、ギルドの幹部をだいぶ驚かせたようだ。
通常なら登録にも時間がかかるのだろうが、女性職員のがんばりと同時に、商業ギルドや薬事ギルドからも、精霊術師ギルドに対して問い合わせという名の催促がいったようだ。
ライアンとシムネルは、当然館にも、それから王宮にも予め加湿器の開発を伝えてある。そちらからのプレッシャーもあったらしい。
内と外からのダブルの催促に、登録は速やかに行われた。
「王妃様からの御下問なんて、心臓に悪いよね……。なるほど。根回しって大事ですねえ」
商業ギルドを通せ、という、シムネルのアドバイスに納得がいったリンだ。
そして、加湿器の本体を担当した職人たちも、リンの説明を聞いて大急ぎで取り掛かってくれた。
「すみません、超特急の依頼で……。シンプルな物でかまわないので」
仕事を増やしてしまった自覚のあるリンは、申し訳なさそうにそう言ったのだが。
ヴァルスミアに集まっていたのは、ガラス職人ギルドが集めた各地の精鋭たちである。
「シンプルなあ……」
「まあ、時間はねえんだがよ。雫型はそう難しいもんじゃねえし……」
「色付きガラスにしたら雰囲気も変わるが、どうだろうな?」
「なら、キリコにもできるんじゃねえか? おう、ボスク工房にも連絡しようぜ」
リンがポカンとして見ている間に、職人達の話はどんどん進んでいく。ガラス職人だけではなく、ボスク工房に留学していた金細工師たちも巻き込んで、大いに話が盛り上がったようだった。
せめて自分にもできることを、と、リンは試作用に、せっせと『神々しい石』を作っては、砂にして届けた。
ライアンには「精霊石はそのように軽々しく使うものではないのだが……」と苦言を呈されたが、ウィスタントンで使う分ぐらいはいいだろう。
『加湿の石』のギルド登録が終了した、と、連絡のあった翌朝。
リンがライアン達と一緒にウィスタントンの天幕に入ると、いつもの天幕メンバーだけではなく、加湿器に携わった職人達もすでに集まっていた。
早朝から見回りに出ていたシロもすでに出勤していたようで、慣れた様子で寝そべっていて、側に立つボーロに撫でられている。
早速今日から、加湿器のお披露目だ。
天幕での加湿は必要ないし、まだ乾燥を感じることはないけれど、使っているところを見せなくては売ることもできない。この天幕だけでなく、館や食事処の天幕内、各ギルドのホールなどでも使ってもらい、ウィスタントンから積極的に宣伝していくことになっている。
「皆の頑張りのおかげで、『加湿の石』の登録も終了し、このような短期間で加湿器という新しい精霊道具が発表できる」
リンとライアンに向かって一斉に礼を取った天幕メンバーと職人達にライアンは言い、リンは逆に頭を下げ返した。
「本当にありがとうございます。……早速、使ってみましょう」
天幕中央にある長椅子にライアンと並んで座ると、ボーロが目の前のローテーブルに木箱を置いた。
取り出された加湿器に、リンの目は丸くなり、ライアンからも、周囲に立つマドレーヌやトゥイル達からも、感嘆の声があがった。
「きれい……」
「まあ……!」
「ほう。美しいな」
加湿器は最初にリンが想像した通りの雫型で、精霊石を収める皿の上に、上部のすぼまったガラスのドームが被さっている。その透明なガラスのドームの表面を、一枚一枚花びらのように形作られた濃いピンク色の色ガラスが覆っている。それが、花開く直前の、薔薇の蕾のように見えるのだ。
ガラスのドーム以外にも、美しい装飾が施されていた。
雫型の土台に近い部分、精霊石を収める皿は、恐らく金でできた細い蔓と葉で支えられている。
その葉やガラスの花びらの上に、朝露のようなきらめきを見せているのは貴石だ。
きっとこの部分はブリンツの細工なのだろう。
工房で試運転を繰り返したが、その時は飾り気のない雫型のドームだったので、リンもこの完成形を見るのは初めてだ。
自分の思い描いた加湿器のイメージと、あまりに違い過ぎる。
でも、そうだった。この国では水時計や砂時計、それに『涼風石』のホルダーなども、優美な置物になるんだった。
リンがほうっと、ため息をついた。
「これはもう、加湿器というより芸術品だと思うんですけど……!」
ボーロや周囲の職人たちが、その言葉に相好を崩した。
「いろいろ試しまして。キリコでも素晴らしい細工の物ができたのですが、どことなく男性的だったのです。加湿器は主に女性が好んで使うことになるかも、と伺いましたので。ベニエがこのように花を模すのはどうだろうか、と」
「ええ。本当に美しいです。薔薇が今にも咲きそうで」
リンがボーロの隣に立つベニエにほほ笑むと、ブリンツが言った。
「加湿器はウィスタントン領からお披露目となります。お城の御担当者様とお話して、公爵夫人の花であるカリソン・ローズを模したものにさせていただきました」
「ええ。大市の期間、社交で使っていただくことになっているんです。よい宣伝になりますよ」
「キリコのタイプも見てみたい。選択肢があるのは、使用者が予算や場所に合わせて選べるので使いやすいだろう」
リンは笑顔を見せ、ライアンもうなずいた。
「フォレスト・アネモネの加湿器も作りましたので、後ほど一緒にお持ちします」
しっかりリンの分の加湿器もできているようだ。
「さっそく使ってみましょうか」
リンが腰を浮かせて、加湿器のドーム部分を持ち上げると、ライアンが説明を始めた。
「『加湿の石』は、一度打ち付けると、おおよそ一刻の間ミストが出て、自動的に止まる。一度打ち付けた後に、三回打ち付けるとミストが出続ける。二回で停止だ。ギルドの会議室や、この天幕ぐらいの広さであれば、この中型の精霊石を使うのがいいと思われる」
ライアンがうずらの卵ぐらいの『加湿の石』を取り出し、リンに手渡す。
「自動停止、でございますか?」
薬事ギルドのマドレーヌが驚いたように言った。
これまで発表した他の精霊石と同じ使い方だが、自動停止機能が付いているのは初めてだ。
「ああ。自動停止といっても、精霊に時間というものを教えたわけではない。この中型の精霊石に含まれる水分の、三十分の一の量が出たら自動で止まるようにしてある」
「なるほど。そういう仕組みに……。あら? それでは、毎日一刻だけ使うのであれば、三十日保つということでしょうか?」
「その通りだ」
マドレーヌの質問にライアンが答えた。
「自動停止があるなら、就寝時の乾燥対策に使えますわね。翌朝の肌の状態が良くなるかも……」
「それだけ保つのでしたら、国外にも販売しやすくなりますね。ひと冬分の『加湿の石』が、数個で済みます。国外用に、至急まとめ売りも相談せねば……」
マドレーヌの目がキラリと光り、トゥイルも販売戦略を考え始めた。
「じゃあ、動かしますね」
リンは青と緑の『加湿の石』をカチリと打ち合わせて、加湿器の中に置くとガラスのドームをかぶせた。
ほとんど音もなく、雫型の上の部分から白いミストが吹き上がる。
「おお!」
「キャッ」
中腰になっていたリンが後ろに引っ張られた。
ドスンと長椅子に着地する。
「えっと、何?」
犯人はシロだ。
シロはリンのスカートをくわえ、後ろに引っ張っている。
「シロ、どうしたの」
シロはグイグイとリンのスカートを引っ張る。
「ダメ、ダメ。穴が開いちゃうよ」
「……シロは、リンをミストから遠ざけたいのではないか?」
「えっ? シロ、そうなの?」
リンはスカートを離さないシロの頭に手を置いた。
「そういえば、シロは加湿器を見たことがなかったっけ?」
工房でも、応接室でも試運転はしていたけれど、シロはいなかった気がする。
大市が始まってから、シロは毎日見回りをしている。
その存在を知られた今は、春とは違って一匹でうろついていても誰にも怯えられない。
逆に大人気のようで、どうも見回りついでに、あちらこちらの天幕で美味しい物をいただいているらしい。
どちらがついでなのか、わからないけれど。
「あのね、シロ。これは、危なくないの。お水なんだよ。ほら。熱くもない」
ミスト部分に手をかざして示すと、シロはスカートから口を離した。
加湿器に近寄り、吹き上がる白いミストが煙のように落ちてくるのをじっと眺めている。
ペロリと舌を出し何かを確かめたと思えば、ローテーブルに前足をかけ、ズボッと吹き上がるミストに鼻先を突っ込んだ。
「ええっ! ははは、まあいいけど。シロ、いいねえ。これがあると、冬も静電気がパチパチしないよ」
静電気の心配をせず、この冬はブラッシングをしたり、柔らかいモフモフを堪能できる。
シロに抱き着くことを思い浮かべて、リンはニンマリとした。
遅くなりました。
いつか鬼畜な魔法陣の依頼を受けた土の術師の悲哀や、ギルドや職人達の様子を閑話で書けたらな、とちょっと思っています。





