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浜千鳥  作者: 齋藤 一明
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導き

 男の息遣いが少し落ち着いてきた。もっとも、そうなるまでに何本の薪を足しただろう。三度や四度ではなかったはずだ。

 熱こそ下がってはいないものの、ゆっくりとした息に変化していた。

 凍えている者を添い寝で温めてやることは一般的に知られ、行われている。それとは逆に高熱でうなされているとき、普通なら濡れた手拭いで額を冷やしてやるだろう。体を拭ってやるだろう。ところが女は、寝込んでいる男を行火の代用にした。知らずにしたこととはいえ、結果的に女は手当てを施していたのだ。

 死のうが生きようが、男のことなどどうでもいい。そんなことより寒さ対策だ。熱をもった体はホコホコしてよく眠れた。一方で、女の冷えた体は男の熱を知らぬ間に奪っていたのだ。額しか冷やさず、しかもすぐに乾いてしまう手拭いよりはるかに効果的なことだった。

 熱にうかされて、男は水を飲んだ。女が口移しで飲ませるものを貪るようにゴクゴクと。

 能面のように表情をなくした女の口元が僅かに吊り上ったことを男は知らない。


「もよ、其方を是非にと、三奉行の広畑殿から達ての願いである。わが本多家からすれば些か格下なれど、藩の要職を担う家柄であることは確か。其方もそろそろ嫁がねばならぬ年頃ゆえ、この話を受けることとしたぞ」

 ある日、城から帰った父が女を呼んで言い渡した。格下からの縁談に少々不満げだが、女の意見を聞くこともなく、勝手に決めてしまった。婚儀とはそういうもの、女は黙って従うのが世の常だった。

 婚礼は、敢えて大安が選ばれ、あまり日を措かずに広畑の嫁になった。婚礼の日まではもちろん、杯を交わす間さえ、相手の顔を見ないままだった。

 初めて夫婦の契りを結んだときも、女は相手の顔を見ていない。

 女が夫となった男の顔を見たのは翌朝のこと。舅と姑の顔を知ったのもその朝が初めてだ。女のことを終始探っているような、厭らしい目つきだった。



 真夏の昼下がり、女は街道から外れたお堂の軒下で休んでいる。

 日陰になるような場所が少ない土地では、お堂は日陰にもなり、雨宿りの場でもある。こんな時間帯に出歩くのは愚か者のすることではある。しかし女は、それを承知で次の宿へ向かっていた。が、おおよそ予想したとうり、暑さにたまらずひと時の涼をとっているところだ。

 竹筒の水はいくらも残っておらず、近くに水が湧くところはなかった。少し先へ行けばあるかもしれない、ないかもしれない。だから、思い切って飲み干す勇気がわかない。

 かんかん照の中、トンボがスイッと飛び来ってはピタリと止まる。汗を拭いながら喘いでいる女を莫迦にするように、どこかへ飛び去った。

 トンボがいるということは水場があるということだが、それは田んぼかもしれないし沼かもしれない。少なくとも足の熱を冷ますことはできそうだが、生憎なことに連れは動くのを厭がった。

 旅から旅へとはや三年、武者修行と偽って合力を頼った旅だ。しかしそんな都合の良いことなどあまりなく、実際は乞食旅。

 国許へ戻りたいと何度考えただろうか。しかし、もはや帰るべき国はなく、帰るべき家もない。

 それにしても暑い、拭っても拭っても汗がふき出してくる。僅かに残った水に手をつけようか。喉の渇きに堪えかねて、女は竹筒を手にした。


 ハアハアハア

 女は水を飲んだ。冷たいものが喉を通り、胃の腑に流れこむのが感じられる。遠いところでチョロチョロと水が落ちる音が確かに聞こえた。

 落ち着いてくると、いつの間にか周囲は真っ暗。あれほど暑かったというのに、凍えるほど寒い。また、夢をみていたのだと気がついた。

 男はいくらか熱が下がってきたようだ。が、それにしては水をほしがる。

 水を飲ませた女は焚き火の場所へ移って綿入れを羽織った。どうやら薪を足すだけではなさそうだ。

 薪を足した女は、鍋をかけて粥を煮た。ほんの一掴みの米を薄くのばした粥だ。そこに浜で拾ったワカメと小魚を混ぜただけの、およそ食欲をそそらない代物だ。それを女は椀にとって男の顔の前に置いた。味のことなどはどうでもいい。気に入らなけりゃ食べないだけだ。男がいつ最後の食事をしたのか、女が知る由もない。同時に、ここへ連れ込んでからどれだけの時がすぎたのかも把握できていない。一日か二日か、もしかするともっと経っているかもしれない。時の経過がわからないのは、空腹にならなかったことにもよるだろう。だって、殆どの時間を眠ってすごしたのだから。


 鍋を下ろした女は、岩場で手掴みした魚を一匹火にかけた。頭の後が盛り上がった、見事なアジだ。薪の中から細いものを選んで、それで串刺しにした。

 そうして魚が焼けるまで鍋を冷ましたのだが、蓋を取るとまだグツグツ湯気が出ている。それを女は匙で掬って口にした。フーフー冷ましながら、味のない粥を啜った。

 魚の口から汁が滴ってヂューッと音をたてた。


 おもよ、おもよや

 誰かに呼びかけられたような気がした。空耳か。それにしてははっきりと、しかも懐かしい声だ。

 女は、炙っている魚を裏向きにした。と、それを舐める炎が人の形になった。

「おもよ」

 こんどははっきり聞こえる。懐かしい、そして優しい声音だ。

 魚の口から立ち昇っている湯気が煙と混じりあい、さまざまに模様を変える。そのうち濃いところと薄いところがはっきりしてきて人の形になった。

「おもよ、婆ぢゃ。忘れたか?」

 語りかけてくる。十年も前にこの世を去った婆様の声だ、忘れるはずがない。

「辛かったのう、おもよ。其方はじゅうぶんに務めを果たしました。もう辛抱することはありませんよ。ここいらでケリをつけて、婆のところにおいでなさい」

 小柄だった婆様さながらに煙が盛り上がり、裾のほうがたなびいている。女がはっとして見つめると、またしても声がした。

「もよ、もう十分すぎるほど努めたぞ。よくやったな」

 薄くわだかまった煙がゆっくりと形を変え、後ろに大柄の人影を作った。爺様だ。女は確信した。

 大きな人影と小さな人影。その小さいほうの人影がゆっくり動いて手招きをしているように見える。遠い昔、庭へ下りる式台に仲良く腰掛けた二人が、そうやってよく女を手招きしていたものだ。そのときの姿を再現したようだと女は思った。

 これがお迎えなのだろうか。ということは、すでに自分の寿命は尽きかかっているのだろうか。

 あの世とやらへ旅立てるのなら、それも善かろうと女は思う。一方で、結末くらい自分でつけたいとも思った。

「おもよ、按ずることはありませんよ。その者なら、既に毒が回っております。其方が手を下さずとも、やがて魔界に落ちましょう」

 そうか、毒に犯されているのだ。でも、自分はなにも与えた覚えはないし、そもそも毒など持っていないのに。女は婆様の言うことが信じられない。ひょっとすると、発見した時、既に犯されていたのかもしれない。そうでなければと考え、あることに思い当った。

「そうです、其方が飲んでおる水には毒が混じっておるのぢゃ。その者、浴びるように飲みおった。最早どのような名医をもってしても治すことなどできぬ」

 そうか、自分の体調が悪いのは、その毒のせいなのだ。ならば気を決めれば良い。しかしとも思う。父も母も存命なのに自分が先に旅立つのは、二重に親不孝になりはしないかと。

「そのように按ずることはありません。お爺様もほれ、お赦しになっております。この婆とて気持ちは同じ、叱るはずがあるものですか」

 そうは言われても、婚家からの風当たりが辛かろう。面目をなくして父も母も立腹しておいでであろう。女はそれが気がかりだ。

「そのことなれば、爺様がとてものことにご立腹です。気にいらぬ嫁ならすぐにも離縁すれば良いはず。それをせずしてお前一人に責めを負わせたこと、断じて赦すことはできぬと申されて、罰をお与えになりました」

 罰を与えた。すると、爺様も婆様も、ずっと自分のことを見守ってくれていたのだ。そうだとすると、子を授からなかったのも二人の仕業とも思える。子さえ授かっていたら、こんなことにはならなかったはずだと反発する気持ちが湧いた。

「そうではありませぬ。その者は己で将来を切り開くことができぬ者。為すべきことを決められぬ者。そのような者の子を産んだとて、情けない者にしかなりませぬ。それは、子にとっても迷惑なこと。生まれてからではどうにもならぬが、生まれさえしなければ禍根を残しませぬ。それほど子がほしければ養子を迎えれば良いまでのこと。違うかな?」

 日向ぼっこをしながら諭してくれたときと同じ言い方だった。しかも、最後の一言を言うとき、明らかに笑っていた。侮蔑の笑いだ。でも厭味な笑いには聞こえなかった。

 知らぬ間に、女は幼子のように素直に聞き入っていた。婆様の一言ひとことがすぅっと滲みこんでくるようだ。それにしても罰とはどういうことだろう。自分はただ束縛から解き放たれればそれで良い。ましてや寿命が尽きかけているのであれば、生家に災いがふりかからぬようにしたい。願いはただそれだけだ。

「爺様がなさったことゆえ、詳しくは知らぬ。が、かの家は、迎えた養子にも子は生まれまい。当代をもって絶えるでしょう。これで得心してくれるな?」

 大きい人影が立ち上がった。話はこれくらいにして、そろそろ行こうと誘うように。女はその意味するところを察したのだが、静かに首を横に振った。まだやり残したことがあるとでも言うように。

「その者の始末をつけるというのぢゃな? 幼き頃よりきかん気の強い娘ぢゃったが、性分は変らぬとみえる」

 声の様子では明らかに笑っている。しかし言葉は嘆いている。なんだか、女がどう考えるのかを面白がっているようだ。立ち上がった煙がすぅっとしぼみ、小さな影と並んだ。

「では、其方の思うようになさい。ただし、焚き火を絶やしてはならぬ。よいな」

 その言葉が消えると、影が形を崩して煙に戻っていった。


 炙っていた魚に綺麗な焼け目がついている。口から滴る汁もすっかりなくなっていた。

 女は魚を脇へ置くと、籠からワカメを掴み出した。それを棒に巻きつけて火にかざす。すぐにジュクジュクと湯気が湧き立ち、ワカメの色が変ってきた。そして白っぽい粉が吹いてきた。

 女は斑に錆が浮いた懐剣で魚を真っ二つに切ると、それにかぶりついた。ヒレやらウロコをつまみ出しながら、ホクホクと湯気を上げる魚を貪る。ワカメに吹いた白いものを舐めながら、見る間に半身を食べてしまった。

 腹が減っていたのだ。いかに寝てばかりとはいえ、体を維持するだけの栄養を欲していたのだ。しかし、女は食べることを怖がってもいた。

 何も食べていないというのに腹が張って屁ばかり出る。少しばかり食べたものをあっさり吐いてしまうことも、食べることを怖れる理由だった。でも、婆様と話したことで気が変わった。

 この男と対決するための力を残しておかねばと思えたからかもしれない。

 男が意識を取り戻したのは、女がもう一眠りしてからだった。


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