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浜千鳥  作者: 齋藤 一明
3/5

 女は、実はずぶ濡れに近い状態だった。横殴りの雪を張りつけ、波しぶきを浴び、岩の隙間から流れ落ちる水に足元を洗われた。霧状になった飛沫は着ているものの隙間から忍び込み、肌をじっとり濡らした。そのうえに冷たい風に曝された。

 焚き火で温まったつもりでも、それはほんの表面だけのことだ。いくら手をかざしても指の感覚が戻ってこない。

 どうせ男は気を失っているのだし、頭はむこうにある。そう考えた女は大胆にも着ているものを脱ぎ始めた。

 水を吸って重くなった綿入れは棒に引っ掛けた。そして帯を解いた女は、襦袢をとめた細紐も解いて前をはだけてしまった。腰巻も取り払ってしまうと、膝を立てて焚き火を抱え込むような恰好になった。

 何にも遮られることなく肌が炙られる。少しでも熱を逃がさぬよう羽織ったもので蓋をしながらあたったのだが、ガタガタと震えが止まらない。なるほど炙られたところは痛く感じるほどだが、背中が冷えてしかたない。そこを温めるには羽織ったものをすべて脱がねばならず、さすがに男と向き合う恰好になるので躊躇いがあるようで、チラッと男の様子を窺っては、厭そうに火にあたっていた。


 膝を抱えてブルブル震えていた女がさっきから何度も口元を押さえる仕草をした。と、とうとう辛抱できなくなったのか、素っ裸になって穴の奥へ突進していった。何度ももどしているようで、治まったようでもウエッと音が響いてくる。大きな屁の音や排泄音も響いてきた。どうやら下痢のようだ。それほど冷えたということだろうか、はたまた風邪でもひいているのか。そのどちらにせよ、他人に聞かせたくないであろう音がしばらく続いていた。

 腰を屈めて歩くのが辛いのか、女は四つん這いになって戻ってきた。そして焚き火で温まろうとしたが、どうしても全身を温めることができないようだ。だからか、しきりと藁山の様子を窺っていた。

 腹や胸を温めてはチラリ、背中を温めてはチラリ。

 が、我慢しきれなくなったとみえ、女は新しい薪を一本くべると藁山に近寄った。


 男は酷い熱でふるえている。そのおかげで藁床はホコホコしている。女はいてもたってもいられなくなり、男を横臥させるとその隣に滑り込んだ。ピタッと背中同士を密着させると、冷えた背中に痛いほどの温みを感じる。男が汗をかいていないのでサラサラと気持ちが良い肌触りだ。それに反して男は、肌が触れ合った瞬間に鳥肌をたてたようだ。

 手の届く範囲で藁を上に重ねた女は、全身の冷えがみるみるやわらぐことに目を細めた。そしてしばらくは身をすくめていたのだが、温かくなるにつれウトウトと眠りに落ちたのだった。


 微睡んでは覚め、焚き火にチラッと目をやっては再び目を閉じる。それを幾度も繰り返すことになった。


 女は煮炊きに手古摺っている。下女が何人もで飯炊きやら配膳の仕度をしているその中で、馴れぬ煮煮に悪戦苦闘している。いつまでたっても芋が煮えないのだ。コトコトと鍋の蓋が踊っているというのに、いくら串を刺してみても芯が残っている。

 ご飯の準備は整っている。味噌汁も椀に注ぐだけ。あとは煮物の仕上がりだけだ。なのに、その煮物ができないので女は焦っている。

 魚を焼きましょうかと下女が申し出たのだが、朝っぱらから焼き魚の匂いをさせていることが近所に知られたら恥ずかしい。

 嫁いで日が浅いとはいえ、とんだ醜態を曝してしまったと女は焦った。それをあざ笑うかのように芋はいつまでたっても煮えない。


 ふっと我に返ると、柔肌を突く藁の感触がある。たしかさっきまで竈に薪をくべていた。火吹き竹を使いながら煙に目を(しばた)かせていた。ところが、グツグツ煮ていた鍋が消え、下女たちの喧騒も消えてしまった。薪の燻る臭いはするが味噌の甘い匂いもなく、そのかわりに糞便の臭いがする。おまけに周囲は真っ暗だ。

 夢だったのかと女は思った。いや、今まで見ていたのが現実で、こうして戸惑っていることこそが夢なのかもしれないとも思う。ただ間違いのないことは、勝手場で困っていたことをどんどん忘れてしまうことだ。

 夢だったのか。薪が半分も燃えていないことを確かめた女は、ふたたび目蓋を閉じた。


 やがて女は、どうしたわけか畑の中にいた。下男があやすように新芽の出た青菜のことを教えてくれている。雲雀の音とともに母の笑い声がコロコロ転がっていた。その転がる先に新芽があり、女はそこに鶏糞を撒こうとしていた。ところが、畝の間の鍬目から太いミミズがウニウニ這い出てきた。ミミズやらゲジゲジやら、とにかく長い虫が大の苦手な女は、手を出すに出せなくて固まっている。母はもちろん、下男や下女からも笑われていたのだった。

 ほんに幼い女は、意を決して撒こうとした。すると足の指を這うものがいる。ふっとそれに気付いた女は、小さなゲジゲジが足の甲に這い登るのを見、驚きのあまり尻餅をついてしまった。


 次の瞬間、女は老いた女に責め立てられていた。

 祝言から三年という月日がたったというのに、一向に懐妊しないことを詰られている。そんな理不尽なことで責められたってどうしようもないではないか。それとも、同衾すれば当たり前のように子を授かるとでもいうのか。所詮嫁とは子を産むための道具なのかと喉元まで出かかる。それにしても姑の非難は底抜けだ。舅にしたって、口を噤んでいるだけで嫁を庇う素振りはまったくなかった。肝心の夫も不甲斐ない。することをしていて授からないのだから仕方ないではないかと反論すべきではないか。なのに姑に言いたい放題にさせている。四人の中で女は孤立していた。

 こんなことでは広畑家の血筋が途絶えてしまう。事ここに到っては猶予がない。妾腹に頼るしかあるまいと姑がいきまいた。妾より先に授かれば良し、妾が先に懐妊したなら、その場で離縁だとまで言われた。

 女は未だに眉を落としていない。嫁いだとはいえ、未だ子をもうけていない女房は眉を引かないのが武家の倣い。そうして外見で区別できるようになっているのだが、女はそれを理不尽と捉えている。いったい、子が授からないのは女だけの責任だろうか。不都合なことは嫁に問題があるとして片付けてしまうのが世間。果たしてそれは正しいことだろうか。

 そもそも、女は夫に特別な感情など抱いていない。父の命により夫婦の契りを結び、婚家の使い女になったというのが本音だ。

 姑に厭味を言われた夜、夫は体を求めてきた。まるで遊女を抱くように。

 そうか、自分は遊女なのだ。子を産めない女に用がないというのなら、どうして離縁しないのだろう。ただ性欲を満たすための道具であり、子を産むための道具。いくら強弁したところで、結論はそこにいきつく。将来が見えてしまったようで胸糞悪くなった。



 女が目蓋を開けた。のしかかられる重さはない。夫は欲望を満たして寝所へ戻ったのだろうか。胸糞悪い感覚が残っている。

 後始末をしようとして交合の痕跡がないことに気付いた。もしかして事が済んですぐに眠ってしまったのだろうか。それも乾くまでぐっすりと。

 そこでようやく、女は夢をみていたことに気付いたのだった。

 では、この胸糞悪さはなんだろうか。無性に喉が渇くし、胃の腑を絞り上げるような気持ち悪さもある。それに、食べてもいないのに腹が張っている。

 頭をもたげて焚き火を見ると、僅かに残った節の部分で炎が上っていた。うっかりしていたら火種を絶やしてしまうところだった。

 気だるそうに女は火のそばへ這ってゆき、藁をくべて火勢を増した。

 太い薪が燃え始めるまでに時間がかかった。その間しきりと口元をおさえて俯いていた女は、薪がパチパチと音をたて始めたのを機に、中腰で穴の奥へ駆けこんだ。

 ウゲェーーッとエヅク音が大きく響いてはくるが、嘔吐を思わせるような音はない。そのかわり、大きな屁を何発も放った。

 エヅキながら息を詰めている。暫くするとハーハーと荒い息を継いだ。やがて吐き気は収まったようだが、こんどは便意に悩んでいるようだ。こうして生きているからにはなにかを食べてはいるのだろう。しかし、荒れた浜での出会いからこっち、女はなにも食べてはいない。出すほどのものが腹に収まっているのだろうか。それに、焚き火にあたっている時に排泄している。出すものがないのに腹が排泄を促すのか、寒さで尻が窄んでしまったのか、辛そうなイキミが続いていた。

 ムーーーーン、ハッ。気合いのような、悲鳴のような息が洩れると同時に、水が迸るような音がした。一旦止まって、すぐに続きが始まった。

 あんな水のような便ならイキム必要はないだろう。どうかすれば、漏らさぬほうが辛いこともある。なのに女はずっとイキンでいた。痔なのか、いや、痔を患っていたとしても苦しむような便ではないだろう。ではどうして。

 ややあって女は四つん這いになって戻ってきた。しかも、這っているというのによろけている。

 焚き火の前に戻った女は、飢えたように水を飲んだ。寒いのだから水気はひかえそうなものなのに、女は喉を鳴らして何杯も飲んだ。


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