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浜千鳥  作者: 齋藤 一明
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千鳥足

 見るものすべてが鉛色をしている。男の目にはそう映った。

 なるほど空も海も鉛色をしているが、実は違う。空を覆う雲にも濃淡があり、白波を打ち寄せる海にもくっきりとした縞があり、朧な色がある。だが、男の目にはすべて同じに見えていた。

 彼方から吹きつけている風は、綿のような雪を横殴りに叩きつけてくる。それに加えて塩辛い飛沫をも、遠慮なくあびせていた。

 こんな入り江にどうして迷い込んだものか、じっとり濡れた砂浜に男の足跡が続いている。何を思ってか海に近づき、そしてまたヨロヨロと波打ち際から離れる。そのまま真っ直ぐに行けばいいのにまたしても波打ち際に吸い寄せられ、はっと気付いたように海から離れようとしていた。

 浜は海に向かってなだらかに落ち込み、その白砂を薄黒く染めて波が洗っている。

 それにしても今日の波は、まるで嵐のように高い。男の足跡のいくつかは、鏝で均したように跡形もなく消えていた。

 入り江の両側には山が押し出している。粒の細かい砂浜はそこで途切れ、その先は大岩が積み重なった磯だ。

 大きなうねりは岸に近づくにつれて白波となった。鉛色一色の世界にあって、強烈な意志を感じさせる色となって大地に討ちかかってくる。ザッパーンと白砂を抉り、ドドーーンと岩を砕こうとした。

 あえなく砕け散った波の飛沫が泡となり、横殴りの雪と混じりあって岩を白く覆った。


 どんな目的があるのか、あっちへフラフラ、こっちへフラフラ。男の足取りはいかにも頼りない。この時化た浜で遊んでいるわけではなかろうが、吸い寄せられるように引き波を追い、すぐに陸へとって返す。わずか一町の距離を二町にもして歩いている。風雪に遮られて前が見えないとばかりはいえまい。おぼつかない足取りは、まるで飢えによって朦朧としているようにも見受けられた。


 入り江の突き当たりまで着てようやく、男は行き止まりであることを悟ったようだ。

 が、そこから抜け出る路が見当らないのか、呆然と立ち佇んでいる。それを嘲笑うかのように、鉛色の空を白い鳥が舞った。また一羽、これも大きな鳥だ。猛烈な海風に逆らうべく、懸命に羽ばたいている。しかし風は男に対すると同じように、鳥にも無慈悲だ。

 ゴワッと風に煽られて高みに舞い上がった鳥は、風が息を継ぐわずかな隙にジリッと沖へ進んだ。こんな酷い波風の日であっても、奴らは餌を獲らねば生きてゆけぬ。それにひきかえ、男は自然の猛威に抗う気力すらないようだ。


 小船が引き上げてあるからには、浜に至る小路があるはずだ。風はここでも男に酷い仕打ちをした。土手の草をなぎ倒して、細い路を覆い隠してしまったのだ。

 土手の際をうろついていた男は、とうとう小船の陰で蹲ってしまった。

 引き上げられた船はどれも伏せてあるのだから、どうしてそこへ潜り込もうとしないのだろう。船を傾けるだけの力すらないのか。だとすれば穴を掘ればよさそうなものだ。が、男にはそれすらもできぬようで、ただ蹲り、やがて横倒しになった。



 入り江に焦げ茶のシミが湧いて出た。波が引いたところへトトトと進んでは、次の波から逃げるように浜の中ほどへ引き返す。そしてまた波の先端あたりに駆けていた。

 浜には様々なものが打ち上げられている。太い流木もあれば木っ端もあった。それに、海草も打ち上げられている。そして波が退くたびに小魚がピチピチと跳ねていた。

 湧き出た影は、どうやら女のようだ。

 海草を摘み上げては気に入ったものだけを背に負うた籠に入れ、身を躍らせる小魚を手にした籠に入れている。そんなに丹念に拾わなくても、波を掬えば一度に多くの小魚が獲れるだろうに、女は丹念に拾っていた。

 焦げ茶の着物と黒い頭。まるで千鳥のようだ。吹き付ける雪で胸元が白くなっている。

 黒い頭に焦げ茶の背。色目からすればいかにも千鳥だが、どこぞの若嫁のような年恰好だ。

 それにしても、ほかに誰も姿を現さないのが奇妙だ。こんな荒れた日なら不測の事故がおきかねないのだから、普通なら何人もでするはずだ。なのにこの女は、一人で浜にいた。

 必要なだけ拾えたからだろうか、女はスタスタと行き止まりまでやってきた。そして波が砕ける様子を無念そうに見た。


 叩きつけられた波が飛沫となって宙高く舞い上がる。飛沫は更に細かい粒となり、塩気を含んだ泡となった。

 女は申し訳程度の頬かむりをしている。がそれで風を防げるはずがなく、頬は土気色だ。一つまみの髪が風に煽られ、女はそれを唇で咥えている。


 次々と迫りくる波を避けながら、女は岩場にとりついた。

 まったくもって無謀なことをする女だ。女が登り始めたところも、岩の隙間から水が瀧となって落ちている。手元が狂えば滑り落ち、運が悪ければ海に引きずりこまれてしまうというのに。

 岩陰から覗いていた女がひょいと手を伸ばした。そして次の波が来る瞬間に手をひっこめる。その手には、ビチビチと身をくねらせる魚を掴んでいる。籠にそれを放り込んだ女は、同じようにして三匹の魚を手に入れた。この荒波に翻弄されるのは、なにも小魚ばかりではなかったようだ。でも、どうしてこんな危険を冒してまで無謀なことをするのだろうか。

 もう少し獲物を欲しそうな様子だが、海はそれ以上の収奪を拒んだ。ますます波が高くなり、風が轟々と唸りをあげている。これ以上の欲は禁物だ。何度も足を滑らせながら浜に下り立った女は、背を丸めて急ぎ足になった。


 女の歩き方も、土地の者ではなさそうな、頼りないものである。しかし少しはコツを呑み込んでいるようで、風を上手に利用していた。強すぎる風には足を踏ん張り、少しでも緩むと背中を押してもらっている。なかなか賢い歩き方を身につけている。

 綿入れの襟を掻き合せた女は、風の止み間を狙って小走りで土手にとりついた。そして枯れ草に覆われた小路を登りかけた。

 坂の途中まできて、はじめて女の視界に藍色の滲みが入ったようだ。藍色のものなど草や流木ではないはずだ。人が染めたものにきまっている。衣類でも飛ばされてきたのだろうかと興味が湧いたようで、女は負うた籠を路端におろすと顔を覆って坂を下った。この寒空は治まるどころか、より厳しい寒さの到来を予兆している。とすれば、どんな襤褸であれ衣類はありがたいと女は思った。


 滲んだように見えたものは、なかなかしっかりした綿入れだ。ただ、裾から足が出ているし、袖から腕がのぞいている。すでに肌は土色になっているが、浅い息をしていた。しかも、腰に刀を帯びている。

 見なれぬ風体だ。しかし息がある者から剥ぎ取るわけにはいかない。気付かぬふりをしておけばこの風、この雪、この寒さだ。半日もすればお六になるのは目に見えている。それから料理をするのなら心も痛むまい。がどうしたわけか、女は行き倒れの顔を叩き始めた、少し手加減をして。いっこうに目を開けようとしないので、ついには思い切り張り飛ばしていた。

「…………」

 薄目をあけた相手に、女は怒鳴った。が、轟々と鳴る風音は声を細切れに飛び散らせてしまう。女にできたことは、大きく口を明けて、パクパクすることだけだ。

 女はそうして相手を死の淵から呼び戻し、肩を貸してその場を離れたのだった。


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