【短編】カクサン
mieは長蛇の列に並びながら、自分の爪とスマホとを交互に見つめた。つい先日、流行りのネイルを施したばかりの綺麗な爪。しかし練習モデルとしてタダで施術をしてもらったからか、少々塗りが甘い部分があった。そのせいか、SNSにアップした写真の受けはそこそこ止まりで、思った以上にハートもシェアも伸びなかった。
(やっぱSNS映えを気にするなら、ケチらないほうがいいな。――しょうがない、結構気に入ってたけどオフして、きちんとお金払って塗り直してもらお)
そんなことを考えながら、mieは小さく溜め息をついた。しかし塗り直す際に最新のデザインを施せば、またハートとシェアを稼ぐことができる。そう考えれば悪いことばかりではないのだと自分を納得させていると、ちょうど列が動き出した。mieは慌てて前方へ少しばかり詰めた。
mieはほんの少し前まで平凡な女の子だった。クラスの中でも目立つことはなく、教室の隅のほうで、自分だけの小さな世界の中で地味な毎日を送っていた。それが今では、時代の最先端を歩く素敵女子だ。
キーワードはフォトジェニック。それさえ気にしていれば誰からも注目されるし、学校で孤立することもない。SNS映えを気にした生活というのは、最初は背伸びをしているようで少々息苦しいとも思ったが、今ではもうすっかりと慣れたものである。――この大学進学をきっかけにした〈脱・冴えない自分〉は、mieにとっては大成功だった。
今mieが列に並んでいるのも、フォトジェニックなものを求めてのことだった。つい先日辺りからSNSでじわじわと話題になっている〈可愛らしいアイスクリーム〉について、大学内でも耳にしたのだ。それによると、まだ大学の友人たちは実物を目にしたことはないらしい。それなら先回りせねばと、午後が休講であることをいいことにさっそくやって来たというわけである。
ようやく購入カウンターまでたどり着いたmieは、一番可愛らしい盛り付けのアイスをひとつ頼んだ。そしてアイスを受け取って脇に避けると、スマホをかざして写真を撮り始めた。その横では、何人もの人がmieと同じように必死になってアイスを写真に収めていた。――彼らよりも素敵な写真を撮りたい。そう思いながら躍起になっていたmieの耳に、近くにいたカップルの会話がふと届いた。
「SNS上にも、もったいないお化けって出るらしいね」
アイスを頬張りながら、カップルは口もつけずにアイスを捨てていく大多数を悲しそうに見つめていた。しかし次の瞬間には、二人は美味しいねと微笑み、口の端についたアイスを指摘して笑いあっていた。そんな楽しそうな二人をぼんやりと眺めながら、mieはアイスをひとくちだけ口に運んだ。その冷たさに顔を歪めると、残りをゴミ箱へと放り込んだ。――〈楽しさ〉なんて、〈幸せ〉なんて人それぞれ。私はこれが楽しくて幸せなのだから、これでいいのだと、そう思いながら。
未華子は写真が趣味の地味な女の子だった。気ままにシャッターを切り、よく撮れたと思ったものをSNSにアップするのが放課後や休日の楽しみだった。フォロワーはあまり多くはなかったが、そのうちの数人は未華子の写真のファンだった。
余暇はカメラ抱えての一人旅に費やしていたからか、未華子には友人と呼べるような存在が学校内にはいなかった。むしろ、カメラを手にしてひとりニコニコとしている未華子のことを学友たちは暗くて不気味だの、気持ち悪いだのと言って嫌厭さえしており、未華子は学内で肩身の狭い思いをしていた。しかし、写真を通じて繋がっている彼らとの交流のおかげで、未華子はささやかながら楽しい毎日を送ることができていた。
ある日、未華子はふと目に止まった〈とてもカラフルでファンシーなもの〉にファインダーを向けた。SNSにアップしたところ、その写真はたちまち拡散されていった。それと同時に〈いいね〉やコメントがフォロー外からもたくさん届いた。未華子は混乱と戸惑いを覚えたが、それ以上に喜びで満たされた。――私も写真も、ちゃんと居場所があるんじゃない、と。
それから未華子は少しでも多くの人の目にとまり、シェアされハートをもらうにはどうしたらいいのかを考えるようになった。ただ気ままに撮るのではなくフォトジェニックを追求するようになり、写真加工の勉強もした。その流れで田舎娘を脱皮してきらびやかに大学デビューも果たしたし、SNSネームもポップで可愛らしくmieと変えた。気がつけば〈未華子のファン〉とは疎遠になってしまったが、mieにはそれと比べものにならないほどの数のフォロワーがいる。さらに大学内の友達もたくさんできた。だからmieはこれが正解だし、幸せで楽しいと思っていた。
「さてさて。幸せ確認タイ~ム」
公園のベンチに腰を落ち着かせると、そう呟きながらmieはスマホを手に取った。アイスクリームの写真をアップしたあとも、フォトジェニックを求めて街並み散策をしていたのだ。いくつか写真をアップしているのだが、果たしてどれが一番反応をもらえているだろうか。
mieは鼻歌交じりにスマホ画面の上で指を滑らせた。そしてふとスワイプしていた指を止めると、険しい表情で画面を覗き込んだ。どの写真もそこそこシェアとハートをしてもらえてはいたものの、アイスクリームの写真はその数に偏りがあったのだ。それもそのはず、写真の中から何故かアイスだけが忽然と姿を消していて、コーンの周りに巻かれているスリーブという紙だけを潰れぬよう器用に持っているという絵面にすり替わっていたのである。そのせいで、シェアもからかい目的が多いようで、「アイス、買えなかったのwww」などの悪意のあるコメントが多く紐付けられていた。
「何、これ……。 ……えっ、なんで? アカウント乗っ取りされたとか? どうしたら写真がすり替わるってのよ!?」
mieは即座に該当の投稿を削除すると、SNSで使用しているパスワードを慌てて変更した。
翌日、mieが大学に顔を出すと、仲良くしている女子グループが声をかけてきた。
「ねえ、みーちゃん。昨日は話題のアイスを食べに行ったんでしょう? どうだった?」
そう言いながら、グループメンバーのリーダー格が心なしかニヤニヤといやらしく笑った。きっと、彼女はmieのSNSをこっそりチェックしているのだろう。mieが「美味しかったよ」と答えると、彼女は皮肉っぽく笑った。
「だろうね。じゃなかったら、食べ終わって紙だけの写真なんかアップしないよねー!」
「なに、食べる前の写真はアップしなかったん? なのに紙だけはアップしたん? うちなら、そこまでして写真アップしないなあ。だってそんなの、アップしないほうがマシじゃん、絶対」
mieを見下げて笑うリーダーに賛同するように、取り巻きも大仰な身振りであとに続いた。mieは笑顔を繕うと、心の中で毒吐きながら〈自分の非を認め反省する〉という素振りを見せた。
mieは最悪の気分で大学をあとにした。あのあとずっと、mieはグループ内でぞんざいな扱いを受けたのだ。せっかく得意の写真を駆使してグループ内での地位を築いてきたというのに、どこの誰とも分からぬ者のいたずらのせいで、mieの序列は降格してしまった。――だが、まだ巻き返しはできる。mieは気持ちを切り替えると、ネイルサロンへと足を運んだ。
要望を伝えて手を差し出すと、ネイリストは若干「まだネイルしたばかりだろうに、もったいない」と言いたげな表情を浮かべた。しかしすぐさま笑顔を浮かべて、彼女はmieの手元をとても素敵に仕上げてくれた。かなり手痛い出費となったが、フォトジェニックかつ完璧な指先にmieは大満足した。
帰宅してからのんびりとネイルの写真を撮り加工して、SNSにアップしたあとは適当に食事を済ませて大学の課題を片づけた。ふとした拍子に綺麗な爪が目に入るたびにmieは作業の手を止め、誇らしげに爪を眺めては頬を緩めた。
翌日、mieは目覚めてすぐに悲鳴を上げた。指の先の全てからネイルが消え失せていたのだ。プロの施術なら一ヶ月は優に保つものにもかかわらず綺麗さっぱり剥がれ落ちており、あれだけお金をかけたのにという怒りと、忘れないうちに片づけないとという苛立ちでmieは布団を跳ね上げた。しかし、ネイルはどこにも落ちてはいなかった。むしろ、部屋のどこを探してもそれらしいものは見つけられなかった。
慌ててスマホを手に取ると、mieは昨日の投稿を見返してみた。するとアイスのときと同様、ネイルの写真からネイルだけが消えていた。mieの「綺麗な爪に気分↑↑」という添え書きには、いくつかの「オフ、自分でしたの?」というコメントが寄せられていた。
何これ、気味が悪い。――そう思うのと同時に、若干ながら胃がせり上がった。ひとまずアイスのときと同様に投稿削除とパスワード変更を行ったのだが、気持ちの悪さにスマホを操作する手が震えた。
また誰かがmieのアカウントをハックして、いたずらを行ったのか。誰かとは、誰か。もしや、仲良しグループの中の誰かの仕業か。だとしても、ネイルが写真内だけでなく実際にも消え失せているのはどう説明したらいいのか。合鍵を用意して、mieの寝ている間にわざわざオフしにきたというのか。――そんなことをぐるぐると考えていても、答えなど出るはずもなかった。思いついたことといえば、今まで以上に戸締まりをきちんとして、疑わしいと思うものには近づかないようにするほかないということだけだった。
その後もSNS上での不可解な出来事は続いた。しかも写真の中から何かしらが消えるだけでなく、自撮りの背景がピンぼけしたり色飛びしたりということが起きるようになった。消失が起きるのは決まって〈フォトジェニックだけを求めて、お金をかけてまで撮った写真〉で、そのついでに撮った街並みの写真まで被害を受けるということはなかった。どうやら犯人は〈確実にmieが何かしら尽力した部分〉にのみ、いやがらせを行っているらしい。
(きっとグループの誰かか、もしくはグループに入りたい誰かが、私のいた位置に入り込みたくてこんな手の込んだことをやってるんだ)
怒りや哀れみを籠めて、mieはため息をついた。と同時に、人付き合いというものはこうも面倒くさいものだったかとも思った。昔はもっとのびのびと、マイペースに人や物と向き合っていたはずだったのに。しかし、今よりももっと社会に出ていけば、きっと今以上に面倒くさくて息苦しいことが増えるだろう。それに、これが正しい〈世の渡りかた〉だと学んだではないか。みんなもやっていることなのだし、これが正解であり、これが幸せへの定石なのだ。――mieは気合いを入れて小さく頷くと、SNSの運営に〈アカウントがハッキングされている恐れがある〉と問い合わせのメッセージを送った。
誰とも分からぬ相手に挑むように、mieは写真をアップし続けた。ここで負けてしまえば相手の思うつぼだと思い、意地でも写真の投稿を止めなかった。しかし写真をネットに上げるたびに疲弊し、それがシェアされるごとに自分の中の何かも拡散して消えていくような気がしてならなかった。そして大きく広がっていっているはずなのに、実際は小さく萎んでいっているような感覚にも苛まれた。
もう負けを認めてしまおうかと思い始めたある日、mieが大学から戻ってくると家の中が物盗りにでも遭ったかというほど荒れていた。通報により駆けつけた警官と一緒に〈何か盗られたものはあるか〉のチェックを行ってみたところ、SNS公開用に購入した洋服が無くなっていることに気がついた。それは次の写真用衣類の購入費用に充てるべく、写真に収めたあとはフリーマーケットサイトに出品するために袖も通さず綺麗に畳んで袋に戻しておいたものだった。
警官はその話を聞いて「特に金目のものが無かったから、とりあえずそれだけ持ち去ったのだろうか」と推測した。他に心当たりなどはあるかと聞かれたmieは、SNS上で起きている不可思議な出来事について報告した。警官はさらさらとペンを奔らせると、サイバー犯罪対策課にも話を振ってみると請け負ってくれた。
数日後、mieはひとりで部屋の中を片づけていた。事件のあったあの日は、さすがにこの家でひとり過ごすだなんて怖くてできなかった。だから誰かの家に泊めてもらおうと思ったのだが、友人のほとんどがチャットアプリを未読スルーし、返事をくれてもお断りの内容だった。そのため仕方なくインターネットカフェやカプセルホテルを利用していたのだが、さすがに懐も寒くなってきた。それで帰ってきて荒れたままの部屋を片づけているというわけなのだが、ゴミ袋にものを詰めるたびに得も言われぬ怒りと虚しさがこみ上げてきた。
友達だと思っていた人たちは、全然〈友達〉だなんてことはなかった。何をどこでどう間違って、こうなったのか。どうして私ばかりがこんな目に遭わなければならないのか。――考えれば考えるほど、悲しさが勝った。おかげで、怒りは冷めやらぬのに腸は煮えくり返らなかった。
ふと、スマホが通知音を鳴らした。善良な友人が実はひとりでも残っていて、悲惨な自分を慰めようとチャットを飛ばしてくれたのかと思い、mieは藁をも掴む思いでスマホを掴み取った。しかしスマホを鳴らしたのは友人ではなく、SNSの運営だった。がっかりとした気持ちでメッセージに目を通したmieだったが、みるみるうちに表情を失っていった。そこには〈調査の結果、特にハッキングや乗っ取りの痕跡はございません〉と記載されていた。
「いやいやいや、そんなことはないでしょ!?」
思わずそう驚嘆すると、mieは今までの自分の投稿に不審な点は無いか、もう一度確認してみることにした。写真付きの投稿をひとつひとつ確認しながらスワイプしていく。そしてヒッと、mieは息を飲んだ。
アイスクリームの次に投稿した写真の中に、mieが注文して捨てたものと全く同じアイスを手にした人物が小さくぼんやりと写り込んでいた。自分以外の人物が写り込んだ際、mieはぼかしやモザイクなどの処理をして配慮している。だからこの人物がぼんやりとしていても何らおかしいことはない。しかしながらどうして、この人物は周りにいる他の人物よりもぼんやりとしているのか。そして、アイスクリームだけははっきりと見て取れるのだろうか。
今まで、フォトジェニックな投稿にいたずらをされたということにばかり頭がいっていて、他の写真にまで気を回してはいなかった。だから、このことに気がつかなかった。――でも、単なる〈気にしすぎ〉なだけかもしれないし。そう思いながらゴクリと唾を飲み込むと、mieは恐る恐る画面をスワイプした。そして指を止めるたびに、mieは写真の中に〈ぼんやりとした、よく分からない誰か〉を見つけた。
「ここにもいる……。ここにも、こっちにも……!」
指を動かすごとに、早鐘のごとく心臓が震えた。そしてスワイプの動作速度が増すにつれmieの瞳孔は開き、声はか細くなった。
その〈誰か〉はmieが煙のように拡散して消えていく感覚を覚えながらアップした写真たちの中で、小さく萎みくすんでいったmieとは対照的にどんどん大きく、そしてはっきりとした姿となっていっていた。
こっちにも、そっちにもと呟きながら何かに取り憑かれたかのように写真をチェックしていると、突如ドアチャイムが鳴った。mieは作業の手を休めて息を潜めた。すると、もう一度ピンポーンとゆっくりチャイムが鳴らされた。
mieは返事をせず、息を殺してじっとしていた。不気味なほど静まり返り、今にも喉から心臓が飛び出しそうだった。すると、ピンポン、ピンポンと連続してチャイムが鳴った。チャイムの音は段々と早まり、部屋の中の空気を揺らすほどにうるさく響いた。
不意に音が鳴り止んでmieが胸を撫で下ろすと、今度はベランダ側の窓をドンドンと叩く音が聞こえてきた。mieは叫びたいのを我慢して、耳を塞ぎうずくまった。
ガラスが割れんばかりの激しい打撃音が止んだのを気配で感じつつも、耳を塞いで縮こまったままでいた。しばらくして、もう大丈夫だと思えるようになってようやく耳から手を離した。だが直後、すぐ耳元で「ねえ」というねっとりとした声を聞き、mieは絶叫した。反射的に声のしたほうへと首を振ってしまったmieが目にしたのは、盗難に遭った洋服と同じものを身に纏った例の〈誰か〉だった。
「ねえ、ちょうだいよ」
「は……?」
ニヤリと笑う彼女を、mieは舐めるように見た。彼女は衣服だけでなく、ネイルや化粧などたくさんの〈mieの写真から消えたもの〉でその身を飾っていた。mieは表情を凍りつかせると、彼女と視線を合わせた。そして、声を出そうとして喉を詰まらせた。――彼女はまるで願掛け前のだるまのように、瞳のない真っ白な目をしていた。
mieは苦々しげに顔を歪めると、声を振り絞った。
「これ以上、何が欲しいっていうの」
〈誰か〉はニタアと歯を見せた。そして糸をひくような不快な声で、ゆっくりと言った。
「〈未華子〉をちょうだい。ねえ、いいでしょう?」
「いや、何を馬鹿言って――」
「もう要らないって捨てたくせに今さら惜しい、元に戻ろうとか虫がよすぎるよ。とってもとっても素敵な〈未華子〉、あんたにはもったいないよ。だから――」
私に、ちょうだいよお。――空間を裂くような、耳をつんざく声でそう叫びながら、〈誰か〉は口を大きく開いた。そしてがくんと顎を外してどんどんと口を大きくした彼女に、mieは悲鳴を上げる間もなく飲み込まれた。
未華子は化粧水をはたはたと叩き込みながら、本日の外出について考えていた。――今日はどのカメラを持って出かけよう。
物盗りに入られて以降、未華子は無理をすることをやめた。心の余裕のなさが、結果として良からぬことを引き込んだのだろうと思ったからだ。背伸びをやめてみたらどうだろう、身も心も軽くなって息苦しさを感じなくなった。――そしたら、気づいたのだ。シェアやハートの数は、必ずしも自己を承認してくれているものの数に比例しているわけではないと。どこまでも拡散していくことで自分のテリトリーも行動範囲も広がっていくような気がしていたが、かえって狭めていたのだと。〈みんなと同じ〉は落ち着きはするが、それが安心や安定であるとは限らないと。
mieをやめたら、大学内の友人の数が驚くほど減った。SNSのフォロワーも、おもしろいくらい目減りした。だが肩の荷が降りて気楽になったし、〈未華子のファン〉との交流が復活し、その伝手で芸術大学の写真学科に編入することにもなった。ファンのひとりがプロの写真家で、未華子のことをプロとして育てたいと言ってくれたのだ。外出時だってきらびやかではなく簡素な服、化粧をしたとしても日焼け止め目的にさっとファンデとチークを塗るだけ程度になったので準備が早い。いいことづくめだ。
「うーん、やっぱりデジだけじゃなくて、フィルムも持っていきたいな」
化粧水を馴染ませ終えた未華子は、そう呟きながら防湿庫の小さな扉を開いた。中から必要なカメラやフィルムを取り出していると、フィルムケースのひとつが手に引っかかったのか、勢い良く床に転がり落ちた。それを拾い上げて防湿庫の中に戻すと、手短に身支度を整えカメラを抱えて未華子はまばゆい笑顔を浮かべて自室をあとにした。そして誰もいなくなった部屋には、防湿庫の奥からひっそりと聞こえてくる「返して」という声が拡散し溶け消えていったのだった。