第一章 五節 神々の集う領域
「まぁ、待ちたまえ」
時間が止まる。
清々しさを感じるその一言によって、西城は呼吸を忘れた。
そして、今のいままで考えていた全ての策略が忘却の彼方へと消え去る。
「ここで逃げることはおすすめしない」
西城に忠告をしながら、男はもう一度腕を振りかぶる。
逃げなければいけないはずなのに西城の足は動かない。西城の額に脂汗が滲む。
(……ッッッ!??動け!動け!動けよ!!)
西城が頭の中で何度も足への命令を繰り返す。
それでも足は動かず、警告音が大きくなっていくだけだった。
そうこうしている内に男が腕を振り下ろす。
初撃のようにズレはなく、西城にめがけ衝撃波のような攻撃が飛ぶ。
アスファルトが削れていく所がとても遅く西城の目に映る。瞬間、西城は死を実感し、目を固くつむった。
ガギッン
鈍い音が響いた。
だが、西城の体に痛みはない。閉じた目を開けると、そこにはラインがいた。
「ごめんね幸助。私はあなたに関わったから危険な目に合わせてしまった。だけど、もう大丈夫だから。あなたは逃げて」
得体の知れない男をにらみながら、ラインは淡々と喋る。
余りにも意外な救世主に西城は腰が抜け、地面に尻もちをついた。
「ようやく来たか。あと少しでその少年を殺すところだったよ。」
分かっていたように言う男はラインの顔色をうかがう。
そんなラインは何の反応も示さないまま、神楽を舞うような動きをし始める。
「———下駄は水に。水は薙刀に。『万物累転』」
ラインの言葉と同時に、彼女が履いている下駄が眩い光を放ち始める。
すると、下駄はまるで生きているかのように形状を変え、棒のような形になった。
光が収束し、西城は息をのんだ。下駄が薙刀になっていたからだ。
「お前……なんで」
西城は困惑する。
昼に別れ、逃げたはずのラインがこの場にいるということは逃げていないということになるからだ。
頭の整理が追い付かない西城をよそに、ラインは下駄になった薙刀を構える。
その姿は様になっており、薙刀の達人にも引けを取らないだろう。
「早く逃げて!このままだとあなたを本当に巻き込んじゃう!!」
ラインの鋭い声に西城は意識を取り戻す。
そして、現状を認識した西城はゆっくりと立ち上がり、そのまま背を向け―――
「………お前はどうするんだ」
一歩踏み出したところで西城は立ち止まり、振り返る。
一度、ラインを助ける勇気が出なかったことに西城は負い目を感じていた。それに神に関係している目の前の男は異常すぎる力を持っている。
そんな相手とラインを対峙させていいのか。
そのことが西城を踏み留まらせた。
「私は不運になれてるから、大丈夫」
それはファミレスで見たあまりにも弱弱しい笑みだった。
西城はわからなかった。
なぜ笑っているのか。なぜそんなにやり切ったような顔をしているのか。
そして何よりラインの言葉が気に障った。不運に慣れることなど出来ない。
それは西城が身に染みて知っていることだ。
「クソったれが」
気が付けば西城はラインの隣に立ち、そう口走っていた。
理解不能な西城の行動にラインは驚きの声を上げる。
「何してるの!?死にたいの!!?」
「死ぬ気はこれっぽっちもない。俺はただ、お前に『不運になれてる』なんてことを言わせるあの男をぶん殴りたいだけだッッ!!」
西城は前に出て、ラインを守るように片腕を出す。敵意を向けられた男は目を細める。
「ほう。私に喧嘩を売るのか?」
「ああ、そうだ」
男は眉をひそめた。西城の返事が即答だったからではない。男には見えたのだ。
実際に西城の雰囲気が変化したところが。といっても、それは勘に近しいものなのだが。
「どうせここから逃げてもあんたは俺を殺しに来るだろ?俺の命には興味がないようだったし。だったら、神様に喧嘩を売っても変わらないだろ」
「実に合理的だな。だが、全くその通りだ」
西城の考えを肯定した男は、何かに気が付いたかのように黙りこくる。
「……つまり、これで人が神を殺す手順はそろったということか。くくッ、傑作だ」
男は顔に手を当てて笑う。西城はその笑いを不快に感じた。
現状の変化についていけていないラインは薙刀に力を込め、警戒心を募らせる。
男は一通り笑いきると、西城たちをまっすぐに見据えた。
それだけでも西城は威圧を感じる。
「ようこそ少年。こちら側———神々が集う領域へ。これが君にとって不運か幸運かはわかりかねるがね」