意外な、じょうけん
これは、どういう状況なのだろうか。
ビルの一室。目の前には、血の海。
私の勤める事務所が、死体にまみれている……今日に限っては、遅刻して良かった。そう一番に思ってしまった私の脳は、末期なのかもしれない。
私は前日の仕事を終え、眠りについていたのが一時間前。
仕事と言っても、ただ付いて行くだけ。先輩の後ろを付いてターゲットの死にゆくさまを、ただただ見ている。そんな感じ。
私が、この組織に入ったのは、三ヶ月前。
職も無く、ふらふらしていた私に声を掛けて来た、怪しげな男。
「おい、うちに入らねえ? 今、募集中なんだ。簡単な仕事で、たくさんの金が入る」
「まじか」
危ない匂いはした。
でも、生きてゆく為なら、何だって出来る。それが、覚悟を決めた人間。
結果的に、この組織は、一般的に言う、殺し屋の部類。
大きな組織で、何千人単位の人間が動いている。ターゲットを、素早く、確実に殺すのを良しとしていた。
女の私に出来ることは、少なかった。
入社試験、と言う名の殺し合いでは、何とか生き残った……どうやら、私は素質があるように感じた。
その日以来、人を殺してはいない。
だらだらと、たぶん、何か起こった時の保険で、呼ばれていた私。
俗に言う、駒。チェスで言うなら、ポーンだろう。
心臓は常にドキドキだったが、給料の高さから、断れなかった。
それに、断った後が怖い。
今日も、呼ばれていた。
ただ、寝坊した挙句、事務所に一度も通った事が無いので、迷った。
それだけ。それだけで、私は殺されずに済んだ。
たった数分が命取り。まさに、この世界を象徴している。
時刻は、深夜二時半。
集合時刻は深夜二時だった気がする。
顔ぶれは、見た事のある人から無い人。
たぶん、私の上司達だろう。
胸を、高確率で撃ち抜かれている。
三ヶ月でも分かる、プロの仕業。同業者に違いない。
私も狙われるのだろうか?
今の私はナイフを腰に準備しているくらい。
組織もこの状態じゃ、守ってくれる盾は皆無。
ま、組織があっても、私を守ってなど、くれるはずは無いけど。
どうしたものかと悩んでいたら、背後の非常階段から物音がした。
カン、という微かな足音。
私は直ぐに、部屋に入り、血を体に塗り、誰かの下に潜る。これは、志村さんか?
血なまぐさい匂いが凄いが、これも慣れ。
木を隠すなら森の中。
人を隠すなら、死体の中。
息を殺して、耳だけを外と足音に傾ける。
複数の足音がして、この部屋の前で止まった。
「おい、居ねえぞ」
「おかしいな、もう一人、いるはずだ。よく探せ」
もう一人、とは、私だろうか?
私だとしたら、結果は目に見えている—―—―殺される。
変な汗と、鼓動が早くなる。鼓動に連れて、呼吸まで早まる。
バレる、バレたら死ぬ。
死体の人数を数えるだろうか、見つかったら、どうする? 殺される? 相手は何人だ? 私に勝ち目は無いのか? どうしたら、死にたくない!
「おーい、北川えーと、雪? どこにいるのー? 出ておいで、悪い様にはしないから」
北川雪、私の名だ。
やはり、私だ。殺される、殺されちゃう!
どうする? このままいつまで持つ?
死にたくない死にたくない死にたくない。まだ、まだ二十四だぞ。
嫌だ嫌だ、人生、これで、終わり?
「雪って、男? 女か?」
「さぁ、どうだろうな。家にいるんじゃねえの? これだけ探してもいねえし、住所は、書いてある」
「……最近入ったみたいだからな、怖気づいて逃げたか。参ったな、この事務所、全員殺せって依頼だったのによー」
「そのうち出てくるだろ、下の奴らに任せて、俺達は自宅を探すか」
金属音と共に、足音が遠ざかる。
ほっとしたのもつかの間。私をまだ探すつもりだ。
下で構えている、と言う事は、このビルを出て行けば、即殺されるだろう。
入る時は平気だったのに、何故?
最悪だ、私が何をしたって言うんだ。
死体の中で、埋もれながら、考える。
血の匂いなど、感じられないくらい、恐怖が襲う。
……ここで自分を殺すのも、一つの逃げ道ではある、か。
怖い、怖い、怖い。自分に刃を突き刺すなんて、考えただけでも、吐きそう。
ゆっくりと起き上がり、倒れた机の裏に隠れる。
ああ、今日は満月だったか。
血が飛び散ったカーテンの隙間から、満月が見えた。
暗い室内が、月明りで照らされている。
「……美しい」
死が私を抱いている。
人生最後の日、何がしたいだろう?
学生時代、友人と考えたのを、思い出した。
「あたしはね、死ぬほど苺タルトを食べて、食べながら、死にたい」
友人の目はキラキラしていて、今の私とは正反対。
どこで間違えてしまったのだろう。
こんな人生、望んでいなかった。
「……私は、珈琲、かな。砂糖大量の」
えへへ、ここにある訳は、無いけど。
「……淹れてあげようか?」
背後から聞こえた低い声に、右手が反応する。
腰のナイフを取ろうと、素早く動いた。
殺られる前に、殺らなければ。脳は、そう判断した。
ナイフに触った所で、相手の動きが速かった。
正面に来たのは、背の高さ、声の低さから、男だろう。
一瞬で私の右腕を、背後の机に押し当てた。
月が男の背中を照らし、顔が見えない。
「っつ、このっ!」
死にたくない。その一心で、左手で殴ろうとすると、私の目線に合わせた男は、左手も簡単に押さえてしまう。
なんて力だ。
見た目は細身なのに、力はゴリラ。
「しー……静かにして。下にいた奴らに、殺されたくないでしょ?」
下にいた奴ら、先ほど私を探していたプロ集団だろう。
という事は、この男は、あいつ等の仲間では無い?
「誰だ、あんた」
私の問いに答えるのに、これでもか、というくらい顔を近づけられる。
鼻が触れそうになって、変に緊張してしまう。
それよりも、近くで見えた男の顔が、整い過ぎていて、驚いた。
黒く長めの髪、切れ長の二重、通った鼻に形の良い唇。右耳に光って見える青いピアスがセクシーだ。
「俺は、蒼生。雪、俺が助けるよ」
そう言って微笑んだ蒼生という男は、私の名を知っていた。
この世界なら、こういう事は多々あった。
先ほどの奴等も、私の名と住所を知っていたから。
プライバシーなんて、あって無いようなもの。
蒼生、この人は、今の私には惑わす悪魔にも、救世主の王子様とも見える。
「助けるって、どうやって」
「簡単だ、俺が一掃する。雪は知らないかな? 俺、そこそこ顔が知れているけど。シンゴウキって、知らない?」
私は目を見開く。
シンゴウキ、聞いたことがある。というか、聞いたことがあるよりも、組織に入ったその日に、頭に叩き込まれた。
「シンゴウキ、三人兄弟で活動しているプロ中のプロ。業界のキング。最も危険な人物。出会ったら逃げろ、見ても逃げろ、死を覚悟しろ」と言われた。
そういえば、名前に色が入っているからシンゴウキ、と聞いた。
目の前の蒼生は青? じゃあ赤と黄色もいるの?
「シンゴウキさんですか?」
「そうだよ。びっくりしていたね。ちなみに、俺、一応長男でリーダーだよ。凄い?」
リーダーという事は、確か頭が一番切れるシンゴウキの脳。
洞察力や殺す計画、仕事を受けるか決めるのも、リーダーの役目と聞く。
噂が確かなら、銃の腕も良いとか。
でも、そんな要素を全く持たない、微笑むだけの蒼生。
本当だとしたら、この上なく頼りになる。
無料ではないだろう、けど。いや、あり得ない。
やっぱり、交渉か? 取引?
「何が、望み?」
「望み? うーん、いらないけどな……俺としては、雪のピンチだから、王子様になりたかっただけだけど」
困った顔を見せるが、私としては、借りを作りたくない。
それも、こんな強敵。敵になった日には、私なんて一瞬だろう。
「お金、とか? 悪いけど、たぶん一文無しになったと思う。他でも良い?」
あいつ等は、私の自宅で金を一円も残さずに持ち去るだろう。
家にも帰れないから、住処も失った。
ま、あの家も組織から提供された物だけど。
「じゃ、こうしよう。俺の要望は、北川雪。俺と結婚を前提にお付き合いしよう」
「け? は?」
何を言っている? 正直、そんなの、死んでも嫌だ。
今、出会ったばかりの、超ヤバい奴と、それも結婚を前提とか、死にたいくらいお断り。
命がいくつあっても足りない……そう思っていた――
「そのかわり、今だけではなく、俺は雪を死ぬまで守るよ。一生。金だっていくら使っても良い。どう? 悪い話ではないと思うけど」
――そう、この言葉を聞くまでは。
「い、一生?」
「そう、一生。幸せにするよ」
結婚前提のお付き合いという条件だったはずが、何故かプロポーズらしい言葉を吐く、目の前にいる最強の殺し屋。
王子様の様な笑顔で、悪魔の様な誘惑をする。
思えば、私の人生、二十四年間で初の壁ドンならぬ、机ドン? だった。