分からない
【202号室】分からない
土曜の午後、講義が終わって瑠衣は正門に走った。昨夜、耕哉がいつもはメールで済ますような用事を伝えるのに、電話で連絡を取ったからだ。珍しいことではあるけれどもひどく心配なのはいつもジョークを飛ばし、明るい彼の声が、電話の向こうから聞こえたのは非常に暗く、ジョークも言わなかったことだ。内容は講義が終わったら会いたい、と。
ベッドに入っても寝付けなく寝返りを何回も打っているうちに窓から太陽の光が差し込み、どうしようかと迷って水の入ったコップを持ちながら椅子に座っていた。
口元にコップを運んで、あれ、なくなってる、と、ふと気づいて、時計に目をやると八時半を過ぎていた。しばらく見つめていて遅刻だ、と慌てて着替えて化粧してバッグに荷物を詰め込んで家を出た。すぐに授業ノートを忘れたのが分かったがルーズリーフでも買えばいいや、と駅に向かった。
喫茶店で反対側の席に着くと、二日で非道く痩せこけた彼は右のポケットから五百円玉を取り出して、ああ、違った、と言ってまたポケットに手を突っ込み折りたたまれて小さくなった紙を取り出した。
「これ見て」と言って瑠衣の方へそれを放り投げた。紙を広げると、ぐちゃぐちゃに書いてある字が何文字か書いてあった。しかし、読めない。
「これなんて書いてあ――」
耕哉は紙を取り上げ、「あんまり口で説明したくないんだけど――」
ウェイトレスが来た。「俺は飲む薬を間違えたんだ。それで――」「ご注文はいかが――」
「黙れ!」彼はテーブルを拳で叩いた。店がしん、となる。「薬を間違えたんだ。病院で貰った奴と、大学の研究で使ってる奴と。」奥から店主が出てくる。「しかもよりによって体の細胞を」「すみませんが、他のお客様の」
耕哉はギッと店主を睨んだ。瑠衣は直感で、店主は死ぬ、と目を瞑った。
聞こえてきたのは、アイスコーヒー二つ。ほっと息を吐いて次に聞こえてきたのは、細胞を分解していくんだ、と。
目を開くと、彼は泣いていた。「あと二分なんだ。」
「え」
「透明になるの。」「そう。」
そう言うと深く溜息をついた。
コーヒーが運ばれてきた。瑠衣は手を付けなかった。あまりのことでこれこそジョークだろうと思った。コーヒーに手を伸ばす彼に「いつものジョークでしょ。」と言った。
耕哉は「うん」と笑った。そしてコーヒーを口に運んだ。
皮膚が消え筋肉が全身に現れたかと思いきや骨だけになってそれは崩れ落ちる前に蒸発した。コーヒーのカップがテーブルに落ちて中身が溢れる。
泣いて泣いてコーヒー代払うのも忘れて泣きながらタクシー拾って家に帰ってその間もずっと泣いていてそれからもベッドの横で立ちながら泣いていて泣き疲れたけどまだ泣くのが収まらなくて夜になって泣きながら歩いていたらコンビニの袋に足が絡まって転んでそれで頭をぶつけた。その拍子に泣くのが収まったが、鬱々とした気持ちは晴れず、ベッドに腰掛けて太股を見つめていた。冷蔵庫からビールを出して開け、飲んでいるうちにまた視界が歪んだ。
へっ、と声が出た。なんだか笑っている。ははは、と瑠衣は笑い出した。彼はすぐそこにいる。空気になったんだもの、と考え直した。悲しくなっていた自分が馬鹿らしかった。ははは。本当は寂しいのに気付いていた。一人のビール。
耕哉がいなくなって一ヶ月が経とうとしていた。部屋は魚の骨や牛の内臓で足の踏み場もなく、さらに初夏でクーラーを付けていないので室温は26度を下回らないので、腐乱臭を放っていた。壁にも血まみれの物体や骨が散らばっている様子の写真が貼り付けられている。時計は4時44分を差したまま止まっていて、ソファ、カーペットには失禁したあとの染み、食べこぼしたサプリメントが転がっている。網戸には蝿が沢山止まっている。左隣の住民はいないが、右隣の奥さんは明日、通報しようと思っている。非道い匂いのことでだ。
瑠衣は一ヶ月前から最期の耕哉の姿を思い出しては秘め事をした。そしてだんだんと記憶は薄れていきだんだんと物足りなくなって、まず骨の写真をインターネットから集め始めた。エスカレートして二日前には牛の内臓を買ってきた。それが放置されたままだ。
キッチンでは電子レンジが5分おきにピピピっとなる。中に海老グラタンが入ったままなのだ。テーブルには蛙の死体が山のように積み重なれていることの他に唯一飲みかけのコーヒーが置いてある。もしかすると海老グラタンも食べたかったのかもしれないが、今となっては解釈のしようもない。
近いうちに2話目を出します。