四十二、悪役
楼蘭の話は、先帝の時代に起きたことを述べているのだと壬氏は思った。
暗愚な皇は、母親の傀儡となり政を行う。堂々と先帝を莫迦にした物言いなのに、腹が立たないでいるのはそれが事実だと壬氏は知っていたからだ。
父と言われた男を恐ろしいと思ったことはない、ただ、その後ろに立つその母が恐ろしかった。
壬氏は、古い記憶を思い出す。女帝と呼ばれた女の最後がどうだったろうか、よく思い出せない。ただ、あとを追うように先帝が身罷られたことだけは覚えていた。
女帝は女に興味を見せぬ息子にしびれを切らして、後宮にどんどん美女を送り込んだ。そして、あるとき、北のとある一族の娘を差し出すように族長に言った。表向きは息子の上級妃に取り立てたいといった。
「……何を言っているの、楼蘭?」
娘の不可解な話に母である神美が問うた。彼女の知る昔話と少し違いがある。
楼蘭は、くすりと笑い袖を口に当てた。
「初耳でしたか、お母さま。病の床にふせていたお爺さまは、呪詛のように漏らしていたというのに」
妃にすることで、高官の娘を質にとることは歴史上珍しくない事例だ。
「後宮がこれだけ大きくなった理由をご存じですか?」
楼蘭は壬氏に問いかけるように言った。
「お前の父親が女帝をそそのかしたと話に聞く」
それが宮廷内の一般的な意見だ。子昌という男は、気難しいことで有名な女帝に取り入った。元は、子の一族の傍流に過ぎない男だが、その聡明さから跡継ぎがいなかった本家に養子に入り『子昌』という名を貰った。そして、その本家が神美の家だった。
すなわち、子昌と神美は下賜される前より婚約していた。
「ええ、新しい公共事業として後宮の拡大を提言したそうです」
うまい言い方だと壬氏は思う。後宮の縮小が議題に上がるといつもそれではぐらかされていた。
「奴隷交易にかわる事業として」
楼蘭の言葉に、壬氏は目を見開いた。
神美は、わけがわからないと同じく目を見開いている。
子翠は、無表情のままだった。
楼蘭は壬氏に向かってにっこりと笑う。そして、神美を見る。
「お母さまは本当に何も知らないようですね。お爺さまが何をやって女帝に目をつけられたのか、その監視のために娘を後宮に差し出す真似をしたかを」
当時、奴隷制は健在だった。宮廷にも官奴婢がいた。
しかし、楼蘭は奴隷交易と言った。
茘における奴婢の扱いは、基本、妓楼の遊女たちと似ている。自分の売値に相当する働き、もしくは年季があけると賤民から良民になる場合もある。
しかし、それは国内に限ったことであり、他国へと奴婢を輸出することは禁じられていた。
「奴隷とは儲かるものらしく、禁じられていても手を出すものはあとを絶たない。特に当時は、若い娘が高く売れたそうです」
娘を質にとられた子の一族は、奴隷交易を縮小せざるをえない。それでも、なくならない奴隷の流出に後宮という場所を借りたという。若い娘だけでなく、男も入れた。奴隷となる際、去勢して売り飛ばすことも少なからずあったためだ。
他国へと売り飛ばされるはずの若い娘たちを集めて一時的に保護する場所として、後宮を提案した。それは女帝の思惑と一致した。政を行う為政者として、同時に息子のことを思う母として、一石二鳥の策に見えたらしい。
娘を売る親たちも罪悪感がある。奴隷として売るより後宮女官として働けるのであれば、そちらを選ぶだろう。
二年間の奉公期間に、なにかしら技術もしくは教育を受けさせればその後、奴隷に落ちる可能性も減る。なにより、後宮で務めたということ自体が一種の特権として扱われる。
「もちろん、女帝の思惑が一つでないと同時に、お父さまの考えも一つではなかったのですよ」
女帝の信頼を得ることにより子の一族の信用を取り戻す、そして、それで駄目なときは――。
「お母さまも難儀ですよね。こんな事になるくらいなら最初から逃げ出していればよかったのに。せっかくお父さまが作ってくれたものを」
楼蘭が抜け出した後宮の抜け穴のことを言っているのだろうか。
神美の顔が曇る。
「自分の持っている地位を捨てて逃げようという男は信用できませんでしたか」
「楼蘭、お前は……」
神美が顔に深いしわを刻みながら娘を見る。その表情に怯えるのは楼蘭ではなく子翠だった。
神美は、それに気づいたのか汚物でも見るような目で子翠へと視線をうつす。
「あの男など信用できるわけがないだろう。父さまが倒れてすぐ家督を継ぎ、その後、この女の母親など娶った男が!」
子翠が震えたまま、神美を見る。
楼蘭はくすくす笑いながら、子翠に近づいた。異母姉の手をとり、その衣の襟に手をかける。首からぶら下げたものを引っ張り出す。
壬氏が持つ銀簪によく似た細工が紐にぶら下がっていた。壬氏の持つものが麒麟をかたどっているのに対し、子翠のものは鳥の形をしている。それが鳳凰であると、知るものはわかるだろう。
麒麟と同様、鳳凰を身に着けられるものは限られる。
「先帝は、罪悪感をお持ちだったようですね。後宮から追い出した赤子のことが心配で、たびたび父さまの手引きで顔を出していたそうですよ」
追い出した医官と赤子をひそかに匿っていたのは子昌だったという。
そして、赤子が育ち適齢期になったころ、子昌が家督を継いだ。
「一度は否定したけれど、自分の娘だと理解していたみたいですね。こういったようで」
娘を娶ってくれないか、と。
女帝の信頼も厚く、自分のことに親身になってくれる子昌は、先帝にとって理想の婿だったのだろう。
どんな願いもかなえるから、と頼みこまれどう断ることができようか。
女帝に目をつけられていた先代当主は病床にふし、子の一族の長は信頼の厚い子昌にかわった。
神美を質として置いておく必要は以前ほどではない。
そして、後宮の花をどうするかについて最大の決定権があるのは帝であった。自分の娘を娶り、そのあいだに子が生まれ、その子どもには子翠と『子』をつく名前を与えた。満足した先帝は、そこでようやく後宮の花を子昌に与えた。
「こうして、お母さまは下賜されたのですよ」
先帝は愚かな男だった。それが、自分の娘にどんな影響を与えるのかさえよくわかっていなかった。しばらくして、子翠の母は病死し、子翠は後宮の元医官のもとに引き取られた。
その頃、先帝は床に臥せるようになり、十数年後、身罷られるまで何の沙汰もなかった。子翠は名とたった一つ銀細工のみを与えられ、それ以外はなにもなかった。先帝の孫とも知られず、楼蘭が生まれたあとは妾の子としか扱われなかった。
「う、うそよ。でたらめを言わないで!」
突き付けられた現実に、神美は後ずさった。
子翠にとっても衝撃的な話だったろうが、それほど動揺は見られない。ただ、不安げに神美を見ている。元々、知っていたのかもしれない。
「でたらめですか? ずっとお父さまは母さまのためにやってきたのに。破滅しかない最期のためにやったのに?」
楼蘭は笑いながら、己の母に近づく。
「こうして、ここに壬氏さまがいる理由もわからないのですか?」
楼蘭は蔑むような目で母を見ると、壬氏へと視線をうつした。
「お父さまの最期はいかがでしたか?」
「……笑いながらいったよ」
その笑いがどんなものか意味がわからなかった。壬氏には子昌の思惑がまったくわからなかった。
しかし、楼蘭の話を聞くとなにか違った見方ができる。
最初から、子の一族の反乱について考え違いをしていたのではないかとさえ思う。
「……あの男は、ただ自分の権力が欲しかっただけ。私を娶ったのも、きっと当主としての座を誇示したかっただけでしょう」
神美の顔が歪む。
対して、楼蘭の顔がゆるむ。
「でも、結局一族内でお父さまよりも幅をきかせていたのは、お母さまではなかったのでしょうか? お母さまに媚を売る一族のものたちがどんな奴らだったか、お母さまはご存じでしたか?」
賄賂や横領を繰り返す愚かなものたちは、神美にごまをすった。神美にさえ気にいられれば、当主たる子昌は何も言わない。所詮は養子として入った男だ、宮廷における権力に比べ、一族内の力はそれほどでもなかった。
神美は、自分に苦い提言をするものをどんどん一族から追い出した。結果、膿はどんどんたまっていった。
ここで歪な認識の誤差が現れる。
後宮の拡張と国庫の横領、その二つがどういう意図で行われていたのか。
楼蘭は壬氏の顔を見てにこりと笑う。壬氏が自分の言いたいことに気が付いたとわかったのだろう。
現帝になって奴隷制が廃止された。今も水面下で残るが、それでも比較的円滑に進められたのは子昌と女帝が行っていた後宮事業のおかげもある。
壬氏もまた、後宮を縮小するにあたりそれにかわる事業がないか模索していた。その点についても、子の一族の関連で妨害されていた件があった。
「お父さまは狸、狸と言われてましたけど、狸って本当は臆病な生き物なのです。自分が本当は弱くて小さなことを知っているからこそ、懸命に相手を化かそうとするんです」
化かそうとする、その言葉に合点がいった。
笑いながら死んでいった子昌、それが何を意味するかを。
「ちゃんとお父さまは敵役を演じきれましたか?」
はかなげに笑う楼蘭。
その一言で壬氏は子昌の目的がようやく理解できた。
ぐっと拳を結ぶ。爪が手のひらに食いこみ血がにじむ。
「それが本当だという証拠はあるのか」
「証拠も何も信じる信じないは貴方次第です」
「うまくいく確証はあったのか」
「うまくいかなければそのまま国をとってしまえばいいのです。それで傾くような国であれば、いっそない方がいい」
投槍にも聞こえる口調で楼蘭が言った。
「お、おまえはそんなことをずっとやっていたのか!」
神美が声を震わせる。
「あの男と一緒にずっと私をだましていたのか!」
「だますも何も、私はお母さまの言うとおりやってきただけです。こんな国など滅びてしまえばよいといったではないですか。逆らう同族を追い出し、甘言にのる阿呆どもばかりを囲った。そんな輩ばかりの烏合の衆で官軍に勝てるほど力を持てると思っていたのですか?」
娘の冷たい言葉に神美は目を吊り上げた。そして、楼蘭に飛び掛かる。護指のついた指が楼蘭の頬をかすり、二本の赤い線が走る。
「そのためにこれを作らせたのではないか」
神美の手には、飛発が握られていた。
「お母さまの手に余ります。返してください」
「うるさい!」
新型の飛発には指を引っかけるものがついていた。それを指で引く。
壬氏は身体を伏せた。
耳が痛くなるような音とともに、なにかが飛び散った。
「お父さまには、責任を持つといったけど、やっぱ私には無理そうです」
楼蘭の顔には飛び散った血がついていた。
彼女の前には、真っ赤に染まった神美がいた。その手には暴発した飛発がかろうじて残っていた。
「新型は構造が複雑なんです。それは試作品ですから」
最初から壬氏を脅すために持っていただけだった。もしかしたら、最初から中に詰め物をしていたのかもしれない。
「壬氏さまはこれを奪おうとか思わなかったのですか? 隙を見ればいくらでも奪えたでしょうに」
「伝えたいことがあったのだろう」
「ふふっ、顔だけの莫迦なら本当によかったですね」
失礼なことを言って笑いながら楼蘭は血に染まった神美から、飛発をとると投げ捨てた。そして、ゆっくり寝かせると震えるその手をぎゅっと握った。
「お父さまが死んだんですよ、涙の一つくらいこぼしてください」
「……」
神美は話さない、話せない。暴発のせいで彼女の顔は飛び散った金属片を受けていた。美しかったはずの顔は見る影もなく、ただ赤く濡れていた。
その様子を子翠がただ震えながら見ている。
「もっと違う方法はなかったのか?」
壬氏は立ち上がり楼蘭にたずねる。
「あったかもしれません。でも、皆のやりたいことをすべて叶えるのは難しいんです。私たちはそれほど賢くないのです」
神美は、ただ憎かった。自分を虚仮にし続けた国を滅ぼしたかった。
子昌は、神美のためにずっと動いていた。それが裏目になろうとも、彼女のことを思っていた。そして、同時に国のことも見捨てられない忠臣だった。そのために悪役を何十年演じ続けるほどに。
子翠が何を考えているのかはわからない。ただ、虚ろな目線の先に映った息絶え絶えの神美を見て安堵しているように見えるのは気のせいだろうか。
最後に楼蘭といえば――。
「贅沢をいうようですが、二つ、願いを聞いていただけませんか?」
「なんだ?」
「ありがとうございます」
本来、聞いてもらえないことだとわかっているのか、楼蘭は深々と頭を下げる。
そして、懐からなにか紙を取り出した。それを壬氏に渡す。
壬氏はそれに目を通した。そこには、壬氏にとって思いがけないことが書かれていた。
「!?」
「あくまで机上の空論ですが、それは役に立つと思います。今後、数年の間に起こる可能性は高いでしょうから」
楼蘭は己の母を撫でる。神美の息は絶えようとしていた。
「一族でまともな思考のものはとうに、名を捨てております。姉もまた同じようなものです。その者達は一度死んだものとみて見逃してはいただけぬでしょうか?」
「……努力する」
「では、一度死んだ者は見逃してくれるのですね」
確認するように楼蘭が言った。
子翠は、先帝と縁あるものである以上、無下にできない。
「ありがとうございます」
楼蘭はもう一度頭を下げると、神美の手を持った。そこには捻じ曲がった護指がひしゃげた指にかろうじてくっついていた。
それを楼蘭は自分の指につけた。
同時に、壬氏は気配を察した。
ようやく隠し通路に気が付いたのだろう。それを楼蘭は気づいているだろうか。
「では、もう一つの願いを」
楼蘭の手が壬氏へと伸びる。長い爪飾りをつけた手が伸びる。
楼蘭がゆっくり動いているように見えた。
避けようと思えば避けられただろう。しかし、壬氏は動かずそのまま、受け入れた。
歪な護指の先が壬氏の頬に突き刺さると、そのまま皮膚と肉を削り取った。
飛び散った血が目にかかる。片目を閉じたまま、壬氏は楼蘭を見る。
「ありがとうございます」
楼蘭は三度目の礼を言った。
「私も父さま以上の役者になれるかしら?」
おどけた口調のまま楼蘭は神美を見た。
「お母さま、これが私にできる精いっぱいなんです」
楼蘭は微笑んだまま、扉を開けた。
狭い通路には案の定、隙を窺っていた馬閃たちがいた。
楼蘭はそれを確認すると、自分の指についた爪を高らかと掲げる。薄明りでも血が付着しているとわかるだろう。
そして、その後ろには顔に傷を受けた壬氏がいる。
「あはははははは!」
楼蘭は突然高笑いを上げた。
狭い通路にその声が響き渡る。
馬閃たちの表情が怒りへと変わる。
神美の目にはもう光はなかった。
子翠が震えながらその手を伸ばす、だが、楼蘭には届かない。
ただ、壬氏は彼女に渡された書を握りながら、その行く末を最期まで見守るしかなかった。
ひたすら身体が重かった。
ここ数日の疲労がようやく今になって全部やってきたようだ。
砦を出てすぐ、後発の部隊と合流し医官に頬を縫ってもらった。縫われているのは壬氏のほうなのに、なぜ周りにいる皆が痛々しい顔をするのかわからなかった。
すぐに眠れというのは、ようやく合流した高順だった。壬氏は後発部隊にいることになっていたので、自然と高順は残らざるを得なかった。
そういえば、ここ数日、まともに寝ていないと今更気が付いた。
「あの娘はどうした?」
「無事ですので眠ってください」
そんなに眠そうな顔をしているのか、と壬氏は思ったがそんな気になれなかった。言うことを聞かない壬氏にしびれを切らしたのか、高順はそっと奥の馬車を指さした。
「あまり近づかないほうがいいと思います」
高順の言葉を無視し、馬車へと入るとそこには煤まみれで血がところどころこびりついた貧相な娘が横たわっていた。
毛皮が何枚も敷かれた上に眠っている。赤子のように背を丸める姿は普段よりもずっと小さく見えた。
周りには白い布を巻き付けたなにかがあった。
「死んだ子一族の子どもたちです」
「なぜ、そんなところで眠っている?」
「どうしてもと頼みこまれたら、何も言えないでしょう」
この娘、猫猫は妙に頑固なところがある。
なにか思惑があってのことだろうか。
「ずいぶん、酷い姿だな」
「貴方様もですよ」
悲痛な面持ちで高順は壬氏を見る。帰るなり高順が馬閃を殴り飛ばしていたのを思い出すと心が痛い。
「俺のことはいい。それにしても、軍師殿に見せなくて正解だな」
話によると、無理やり行軍すると出張った挙句、皆に止められて、なおかつ隙を見て出ようとしたところで無理がたたりぎっくり腰になったという。自分では一歩も動けない状態らしい。
壬氏は馬車に上がる。
「外で待ってろ」
高順は馬車に上がることなく、ゆっくり頷いた。
壬氏は、猫猫の顔をのぞきこんだ。まだ、発疹が残る顔に血がこびりついている。右耳が三角に小さな切れ込みが入っており、軟膏を塗りたくられていた。
壬氏が関わらなければ、猫猫はこんな目にあっていなかったかもしれない。そう考えると心が痛くなった。
耳の他、顔に傷らしいものはない。だが、首に赤い筋のようなものが見えた。
刀傷を受けたのだろうか。
壬氏はゆっくり手を伸ばした。
そして――。
「何をやっているのでしょうか? 壬氏さま」
小蠅をうっとうしく追い払うような目で、猫猫が見ていた。