三十九、踏まれた雪
とんでもねえことやらかすな、と李白は思った。
目の前には、突然の侵入者に上手く対応できない子昌の私兵たちが慌てている。慌てて槍を構えたところで、万全の準備ができている李白たちの敵ではなかった。
李白が今、ここにいるのは、逆賊、子の一族を捕らえるためだった。都の北五百里の場所だ。すでに放棄されたはずの砦が手入れされ、兵がいるということはそういうことだろう。主君に仇なすと考えるに等しい。
そこそこ大きな砦だが、これだけで反乱を企てるというのは実に愚かしい。聞いた話によると、反乱を企てていた輩の間に内部分裂がおき、その中で強硬に至ったのが子の一族だけだという。
子の一族の長、子昌は宮廷でもかなり大きな顔をしていた人物だった。前の上級妃を追い出し、自分の娘をその座につけるほど皇帝にとって頭が上がらない人物なのだが。
李白は、棍を振りながら首を傾げた。
欲にくらんだのか、それとも気が狂ったのかわからない。
ただ、追い詰められたとはいえ、ここで都から消えてこんな場所に立てこもろうというなら、逆賊として扱ってくれといっているようなものじゃないだろうか。
宮廷でも狸親爺と言われる人物がそんな莫迦なことをするものかね、と。
しかし、李白は武官だ。物事を深読みするのは他の奴らにまかせることにして、仕事をすます。
棍で敵兵の足をかけ、そのままなぎ倒す。李白の後ろには白い外套を羽織った部下たちが倒れた兵を縛り上げていく。李白も同じ白い外套を着ていたが、邪魔なので脱ぎ捨てたばかりだ。
白い外套は返り血を浴びると目立つ。本来、戦にふさわしくない装束だが――。
雪の白には溶け込む色だ。紛れ込むには、ちょうどいい。そして、月の出ない夜となればなおのこと目立たない。
李白たちは、松明も持たぬまま進軍した。部隊は、砦に向かう途中二手に分かれた。雪に慣れてかつ腕自慢を集めた先行の歩兵部隊と残りの部隊だ。二つは数十里離れて、行動する。
結果、どうなるかといえば、砦の見張りは夜になり後方の部隊がもつ灯りに気をとられ、先に近づいている部隊に気づかない。敵の到着がまだ先だと誤認する。
そうなると、李白たちにも一つ問題がある。
数十里前からなにもない平原を歩くのだ。星でも出ているならともかく月すら雲に隠れている、方向感覚は狂うのが普通だ。
李白は、いったん敵を捕縛し終えたところでふっと息を吐く。その際、襟からなにかが落ちた。
「よく考えつくもんだ」
李白は雪の上に落ちた魚の形を模した木の彫り物を拾う。
これによって、李白たちは砦の位置を把握したのだ。
彫り物のなかには、磁石が入っている。これを水桶に浮かべることで方角がわかる。船乗りが使う道具だ。
表面には、不思議と光る粉が擦り付けられており、暗闇でもどちらの方角か見ることが出来た。夜に光る茸が原料らしい。
そして、その奇襲もまた、もう一つおまけがついている。
李白は呆れた顔で、崖の上からなだれ込んだ雪を見て思った。
「どういう頭してんだよ、この作戦考えた奴は」
この砦が放棄された理由の一つに以下のことがあげられる。
温泉地が近い場所には地震が多いと聞く。数十年ほど前に大きな地震があり、その際、周辺の地形が変わったらしい。
山の斜面が崩れ、それから冬に雪崩がくるようになった。規模こそ小さくそう頻繁におこるものではないが、場所が悪かった。
建物の真上に落ちてくるものだから、老朽化がすすみ、ちょうど軍を縮小しようという動きに乗っかったのだった。
それを今回、人工的に引き起こしたという。今年は例年よりも寒く、雪も深いことを踏まえてだ。
先行部隊のうち、雪山に慣れた人間数名が連れて行かれた。大量の火槍を持って、どこへ行くかと思えばそういうことだろう。
周りをみると鮮血が飛び散っていた。白い雪に赤いしみが目立つ。捕縛しようと押さえこむ部下たちの一人が、暴れ続ける敵兵の胸に刀を突き立てた。倒れたと油断させて、短刀を振り回したのが運の尽きだ。
ごほっと泡だった血液が口からあふれ出たと思うと、男の動きが緩慢になりそのまま止まった。
降伏すれば命はとらない、そう伝えたはずだ。
大人しくいうことを聞いていればよかったのに、そんな余裕はなかったか。それを見て、周りの男たちが大人しくなる。
命がとられる可能性がある以上、非情にならねばならない。李白はそう教わり、そう教えてきた。
ざくざくと踏みつぶされて汚れた雪の上を歩き、砦の中に入る人物を見つける。
白い外套に長い黒髪がよく映える。男にそんな言葉が浮かぶとは思わなんだと李白は、こんな状況で苦笑いを浮かべた。
本来、戦場にいるはずがない男だった。端正な顔は、後宮という花園の庭師でありながら、花の一つと数えられる。
しかし、実際は『花』ではなく『華』だった。
半分おろし、残りを結った髪に銀の簪が刺さっている。その意匠を見てひれ伏さないわけにいかなかった。
茘という国において、三つの刀の頭上にあるもの。この国で唯一、『華』とつく名を持つおかたは二人しかいない。
そのおひとりである。
本来、この場にいるべきではない。夜間の行軍、それも音を立てぬよう数十里歩いてきた。体力があるものを集めてきた部隊だが、疲労の色はみてわかる。
しかし、天女のようなたおやかな面の主は、それに似合わぬ柳葉刀を握っている。紫紺の鎧に身を包んで、その存在を周りに示している。
宦官壬氏、それが男の立場だったはずだ。皇帝のおぼえめでたい若き宦官、ときに不届きな噂まで流れるほどの美形。
指揮をとると前にでたとき、何人がぽかんと口を開けたままにしただろう。あからさまに顔色を悪くする官もいた。男にも女にももてるかの主は、ときに男にまで言い寄られていたのである。
李白もその一人だった。先日より、壬氏の側近である高順という男にいろいろ頼まれごとをされていた。今回も、自分の部下、同僚の中で寒さに強く体力があるものを集めろといわれたがこういうことだった。
すでに壬氏という名前ではないが、李白は『華』の名を呼べない。文書として表記されても名を直接呼べるのは帝のほかいない。
壬氏は、砦の中にはいる、李白はそれに遅れをとらぬようついていく。高順は傍にいない、代わりに若い武官がしっかり後ろにくっついている。
李白もそのあとについていった。
砦の中は異臭がたちこめていた。腐った卵のような臭いが鼻につく。何事かと思っていたら、地下へと雪の塊を運ぶ男たちがいた。
もしかして、地下で火事かなにかが起きたのだろうか。李白は、慌てて雪を運ぶ男を捕まえて問いただすとその通りだった。爆発が起きたという。
「は、はやく片付けないと、お、奥さまが……」
震えながら男は李白から目をはなした。
李白は、男を解放する。
顔色が悪いのは煙に酔ったのか、それとも奥さまとやらが怖いのかわからない。
しかし、砦の兵が思った以上に少ないのはそんな誤算があったかもしれない。
李白は袖で口元をおさえながら、先頭に立つ壬氏の後ろで膝をついた。
「進言か?」
向こうから言ってくれるとありがたい、と李白は思う。
「許す」
「では、お言葉に甘えて」
いつもこういう時にまともな語学を習っていればよかったと後悔する。
「この煙では、長居は無用だと思います。中の人間もすぐさまでてきましょう」
「わかっている」
当たり前のことを言ったか、と李白は反省した。
「しかし、中に逃げられない者がいるかもしれない」
「それでは、皆に探させますので、外へ」
「そういうわけにはいかない」
壬氏の言葉に、李白は顔を歪めそうになった。顔を伏せていてよかったと思う。
李白としては、壬氏に怪我をさせてはたまらない。早く外へとでていって安全に見学でもしてもらいたい。
しかし、体面上禁軍である以上、壬氏が前面にでる必要もある。奇襲めいた行動をしただけに、そこのところは譲れないのかもしれない。
こうして堂々と表に顔を出すということは、宦官壬氏を捨てることを示す。役立たずの引きこもり皇弟としてではなく、生きていくことを示すのだろう。
そうなると宮廷内の調和は一気に崩れる。すでに一角であった子の一族はこの有様だ。とらえた敵兵の中に、そいつらは混ざっているだろう。とらえたはいいが、その罪は確定している。帝に仇なすものは、一族郎党皆殺しが基本だ。それに今上の温情がどれだけかかるかによるが期待は薄かろう。
「漢大尉の娘がここにとらわれている」
「それは……」
漢大尉、つまり変人軍師のことだ。李白はここへ突入する前に言われた。あの男に娘がいることも驚きだし、なぜ捕まっているのかも謎だがこれだけは言える。
「それを見捨てられるか?」
見捨てられない。
「新しい政敵が生まれますね」
思わず口が滑った。
壬氏のかたい表情の中に少しだけなにかがにじんでいた気がした。
「ああ、そうだな」
なにか切り裂かれそうな辛い表情をにじませながら、壬氏は前に進む。
李白は立ち上がるとがしがしと頭をかきむしった。こうなると、自分のすることはさっさと仕事を終らせてしまうことだった。
あと四話ほどで宮廷編2終了予定です。