三十七、虫の一族
全身をぬぐったが身体の気持ち悪さはまだ残ったままだった。
猫猫の身体は血まみれだった。しかし、その出血量は見た目ほどじゃない。
あぶくをふきながら倒れる男を見る。その皮膚に付着したのは猫猫の血だけじゃない。
あの部屋にあった漆の赤い塗料を血糊として使わせてもらった。塗料と油を漆に混ぜると鮮やかな赤い塗料が出来上がる。ちらつく光源一つの薄暗い部屋の中で十分血糊の役割を果たせただろう。もう一人の男につけた発疹もこの塗料である。
うまくいってよかった。
毒娘などと猫猫は半ば言われたことがあるが、そんなおとぎ話みたいなもんになれるわけない。そんだけ毒を食らい続けようものなら、さっさと死んでいる。
この砦内は気密性が高いのか、外の雪景色の割に温かい。窓を割って急激に冷えた風に当たったら、人間は知らずに身体の調子が狂うものだ。
鳥肌がたつだけでなく、蕁麻疹がおこることもある。
それに加え、もう一つ。
男は部屋に入ったとき、猫猫を見て「かぶれている」といった。たしかに発疹が全身にでているが、それがかぶれだと言い切るところをみると、もしかしたら似たような目にあったことがあると思った。
そして、部屋の卓子に触れるなり、びくりと反応して離れていた。
漆が塗られた卓子だが、乾いている以上そうそうかぶれることはない。ただ、一度、かぶれた人間は、過剰にそれに忌避感を覚えてしまう。
時に、触れたと思うだけで、身体に発疹がおこる場合もあるという。
そういうわけで血糊に漆を使ったわけだ。実際、かぶれが作用するのに時間がかかるが、苦手なものがあるほうが心理的に不安定になる。当人が理解していなくても、匂いなどでかぶれたときの記憶を思い出す。
正直言えば、あとで苦しむがいいという嫌がらせも半分入っていたりする。
猫猫はそれを利用し、毒娘を演じた。
男が座ったとき、立ち上がれなかったのにも理由がある。
椅子に座った時、額をおさえると立ち上がれないように人間の身体はできている。まず立ち上がるときに頭を前に出す。その最初の作動ができないと、他の部分は動かないのだ。
それでも、他の動き方があったかもしれないが、混乱した男は猫猫の言うとおりに反応してくれた。
あまりに素直に動いてくれて助かった。元々、この男が席を外さなかったら、今頃、もう一人の餌食になっていただろう。
その点は感謝している。
なので、聞くことを聞いたら潰さずに踏みつけるだけにしてやった。
部屋を出てすぐ入れ替わりにやってきた男たちとすれ違った。猫猫は丁稚とみられたらしく気にすることなく通り過ぎられた。
部屋の鍵は一応閉めてきたが時間はもうない。
(冗談じゃないぞ)
猫猫は舌うちしながら回廊を走る。先ほどの男から奪い取った上着を着て、耳は巾をゆるく巻いて誤魔化した。
火薬を製造していると聞いて猫猫はまず飛発か火槍を想像した。どちらも古くから戦に使われる道具だ。
しかし、男は砲といった。
大砲、巨大な筒に弾を込めて打ち出す武器だ。砲は古くからあった武器で、木製や青銅製のものがある。
それを鉄の弾丸を使い、発射するものを作っているという。
猫猫の知る限り、石を弾丸にするのが一般的なはずだ。それを鉄で作ったらどうなるだろうか。
猫猫は武器にそれほど詳しくない。ただ、歪な石を使うより均一な鉄の弾を使う方がより破壊力が高いのはわかる。最新の技術を使った火砲かもしれない。
でも、それでも無謀すぎた。
この砦の人間は何人いようと、その規模はたかが知れている。
もし、子の一族に賛同する協力者たちがいたとすれば、話は変わったかもしれない。しかし、その目論見はとうに暴かれているだろう。今更、危険をおかして子の一族に加担するものはどれだけいるのか。
それなのに、まだことを起こそうとしている。
その先にあるものをわかっているのだろうか。
猫猫は地下へと続く階段を一歩一歩降りていく。冷たい石壁づたいに、奥から作業音が響くのがわかる。
猫猫はそっと奥をのぞきこむ。
薄汚れた数十名の男たちが、もろ肌で作業をしていた。独特の匂いが鼻をつく。硫黄の燃えた匂いより、家畜の糞が発酵した匂いがした。
何か山積みの黒い塊が見える。
(家畜の糞?)
いや、それにしては小さい。鼠くらいの小動物の糞のようだ。獣の糞には硝石の材料になるものが含まれていると聞く。
これを材料として利用しているのだろう。
地下は想像以上に温かかった。できた火薬を乾かすために室温を上げているのだろう。それゆえに、恐ろしい。
一応、火鉢を遠ざけ、帳で火の子がかからないようにぐるっと巻いていたが、それでも燃え移ったらどうなるだろうか。
その危険性を知ってこの環境にいるのだろうか。
大体、こんな空気の悪いところにずっといれば、そのうち悪い空気の吸い過ぎで中毒症状が起きるだろう。
環境は劣悪といえた。
出来上がった火薬は別の出口から運び出されていく。あれを追えば武器庫へ行けるだろうか。
でも、どうやって行こうか。
考えていると、後ろから足音が聞こえた。
猫猫は近くの棚の後ろに隠れる。
心臓がばくばくと大きな音を立てる。
その音で、周りが猫猫に気づかないか不安になりながら、やってきた人間を見た。
「……」
猫猫は呆然となって、通り過ぎる者を見る。
神妙な面持ちで歩いているのは、楼蘭だった。母親と同じく豪奢な衣をつけた楼蘭は、薄暗い地下の排泄物の匂いにまみれたこの空間には不似合いな存在だった。
「ろうら……」
猫猫が声をかけようとした。
しかし、彼女にその声は聞こえず、その目に何か強いものを宿しながら地下の中央へと歩き進める。
周りで作業していた男たちが、楼蘭に気づきざわつき始める。
男たちの一人が、おずおずと前に出る。この場を取り仕切っている男らしい。
「おじょうさ……」
「今すぐここを離れなさい」
凛とした声が地下の中で響き渡る。
なにがなにやらわからないと男たちが互いに顔を見合わせる。
「もうすぐこの砦は落ちるでしょう。その前に、貴方たちは早くここから逃げ出しなさい」
そう言って、楼蘭は懐から大きな袋を取り出すと投げ捨てた。中から、銀がこぼれ出す。男たちはそれに目がくらみ、我先にと拾い始める。
あらかた拾い終わったところを確認して、楼蘭は持っていた灯を上に掲げると、そのまま思い切りふり投げた。
灯は放物線を描き、乾燥させていた火薬へと落ちていった。
「頑張って逃げてね」
楼蘭は以前のあどけない笑みを浮かべていった。
猫猫はすかさず耳をおさえ、その場でうずくまった。
手のひらをこえて鼓膜に響き渡る轟音。慌てて逃げ出す男たちに猫猫は何度か蹴られ、踏みつけられてしまった。
爆発はどんどん広がり、木炭、獣の糞へと燃え移る。
(早く逃げなくちゃ)
すると、横で派手にこけた者がいた。
綺麗な布地が何度も踏みつけられて汚れていく。猫猫はその転んだ主の手を引っ張った。
「あれ? なんで猫猫ここにいるの?」
髪をざんばらにした楼蘭がきょとんとした顔をした。
「こっちだって聞きたいけど」
呆れた顔でそう言うと、楼蘭は猫猫の頬を撫で、右耳に手を伸ばした。
「血、もしかして遅かった?」
なにが遅かったといえば、そういうことだろう。楼蘭がこんなところにきていきなり爆破した理由は、猫猫を助けるためだったようだ。
「……早く行くよ」
猫猫は楼蘭の袖を口に当てさせ、地下をなんとか這い出る。早くこのままではいけないと、外にでようと楼蘭を引っ張る。
しかし、楼蘭は階段に足をかけ上へと進もうとする。
「火が回ってくるよ」
「いいの。私は上に行かないといけないから」
ぼろぼろの裳を引きずりながら楼蘭は階段を上る。
煙はどんどん上がってくる。鼻がおかしくなりそうな悪臭で目がしみる。火が回らなくても煙で中毒症状をおこし死んでしまうだろう。
「ついてくるの?」
「まあね」
この状況だったら、猫猫が逃げ出すのは簡単だろう。先ほど逃げていった男たちは、我先にと砦の出口へと向かっていった。厩なりなんなり荒らして、ここを逃げ出すのだろうか。
「お母様に知られたら、怖いから。あの人のことだから、残っていても、何でこうなったのか責任追及するでしょうね。鞭打ちですめばいいほうよ」
自分の母親に対しての発言に楼蘭は伏せ目がちになっていった。
楼蘭は三階にある部屋の前で止まる。
猫猫はぎゅっと自分の胸元にある紙を握る。部屋にあった本は一冊も持ちだせなかった。寝台の下に隠した紙だけもってきた。
今、ここで楼蘭とわかれてしまったら、彼女の意図がわからないままで終わってしまう。
それを確かめたかった。
「ねえ……」
猫猫は、一瞬止まり、なんて言おうか迷った。すでに楼蘭は妃ではないし、いきなり楼蘭というのもなんとなくおさまりが悪い。
なのでこの名で呼ぶことにした。
「子翠」
「なに?」
扉の取っ手に手をかけたまま、楼蘭いや子翠が微笑む。
「後宮で堕胎剤の材料が出回っていたの、子翠が根回ししたんでしょ」
おそらく後宮の外にいた翠苓を使ったのか、それとも別のものを使ったのか。
子翠は笑ったままだ。
「自分で使うために」
子翠の表情は変わらず笑ったまま、そのまま、扉を開ける。
「猫猫はほんと鋭いなあ。呼んだ甲斐があるよ」
子翠は言っていた。
鈴の音で鳴く虫は、子を孕むために雄を食らう。
子翠からもらった虫は、籠の中で与えた野菜も喰わず共食いをしていた。猫猫は生き残った虫を庭に放った。生き残ったのは雌だろうか。地に卵を産み、そして自身も息絶える。
桐箱の書にあった記述だ。
今ならわかる。子翠が虫といったのは己自身だということを。
子を孕めば、その父親を食らう。
虫かごは後宮をあらわし、雌雄の虫は皇帝と妃を示していた。
子翠が虫のいる場所によく出没している理由もわかる。虫をとるついでにほかのものを採取していたのかもしれない。
鬼灯に白粉花、堕胎剤の材料になるものは後宮にもある。
中には大きな寝台があり、そこに子どもが五人ほど並んで眠っていた。
数日前に聞いた子どもの声はこの子たちだろう。
子翠は欄干へと続く扉を開ける。雪まじりの風が部屋の中に入り込み、帳をはためかせる。
「その子たちを外に出さないと」
「出したところで意味がないわよ」
子翠、いや今度は楼蘭の声で言った。
楼蘭は微笑みながら外を見る。
真っ暗でなにもない光景は広がっているはずだった。昼間は外壁の向こうまで白い平原が広がっていて、猫猫は格子の中から遠い目でみるだけだった。
かがり火が上がっている。蟻のように隊列を組みながらやってくる集団が見えた。
そして――。
ずどんと大きな音がした。
「なんだ?」
地下の爆発がまだ続いているのだろうか。
猫猫は寝台に駆け寄り、子どもたちを見る。
これだけ大きな音が響いているというのに、子どもは全員眠ったままぴくりともしない。
猫猫が子どもの一人に触れた。
「!?」
その肌は冷たかった。猫猫は子どもの手を取ると指で脈をとった。
「!?」
どの子どもも冷たく脈がなかった。
寝台の横に水差しがあり、そこに人数分の杯が置いてあった。
楼蘭は愛おしそうに子の一人の額を撫でる。
「貴方がやったのですか?」
楼蘭はゆっくり頷いた。
慈愛に満ちた目で、吾子のように子どもたちを撫でていく。もう彼女が楼蘭なのか子翠なのか、猫猫にはわからない。
「これだけ派手なことをやってしまえば、一族郎党皆殺し。目に見えているでしょ」
たとえ幼い子どもでも、その中に含まれる。親のした仕打ちがわからず、そのまま絞首台へと上げられるのだ。
「甘い果実水に混ぜて飲ませたの。温かい部屋で、みんなで楽しく絵巻物を見たあとに。ぐずった子もいたかしら。母親と眠りたかったみたいだけど残念ね。貴方たちのお母さまは、私のお母さまとお楽しみだったもの」
口の端に歪んだ笑みを見せる楼蘭。
外でずずっと重い音がしたが、それ以上に楼蘭の表情から目が離せなかった。
「ばあやは、昔はあんな人じゃなかったっていうけど、どうなのかしら? 私には生まれたときからあんな女だったのに。姉さまを見つけるたびにいじめて、若い侍女もいじめて、親類の女たちに酒と男娼遊びを教えたりして。お父さまは何も言わないの、逆らえないの、ただお母さまが許してくれるのを待っていたのよ」
彼女の母親、神美は狂っていた。見ればわかった。
「子が生まれたら、夫を食い物にしてしまう。まるで虫だわ。虫のほうがずっといい、子に命をつなぐためにやるもの」
楼蘭は母になることを嫌った。堕胎剤を自分で作り、飲み続けるほどに。
その一番の理由を聞いた気がした。
世の母親が皆、神美と同じじゃない。でも、楼蘭にとって母親は神美一人だった。
「猫猫のこと、少し調べさせてもらったの。生い立ちがなんか姉さまに似てるんだね」
元医官に育てられたこと、父親が高官であること。
「私には父も母もいません。いるのは養父ひとりです」
「っふふ、姉さまも似たようなこと言ってた。そだね、そうだよね。姉さまはいつも私の姉さまじゃないって言ってたの。かもしれないわね、もしかしたら、お父さまへの嫌がらせにどこぞの女が姉さまを押し付けただけかもしれないわ」
また口調が変わる。
もうこの女が楼蘭なのか子翠なのかわからない。
ただ、猫猫には彼女が何を伝えたいのかわかろうとしていた。
「あの女は、私の姉ではない」
姉ではない、すなわち、子の一族とは関係ないと声にしていた。
(嘘をつけ)
楼蘭と翠苓はよく似ている。特に今の無表情の顔は本当によく似ている。
楼蘭は姉を慕っている。
なのに、『あの女』という。
「この子たちが虫であれば、冬を越せたのにね」
と、もう一度子どもたちを撫でる。
(虫であれば)
猫猫はもう一つ気づいた。
そっと、襟から押し込めた紙を取り出す。
一枚は、楼蘭が残した曼荼羅華の紙、残り数枚は猫猫が本に挟まっているのを引き抜いたものだ。
その中の一枚を取り出す。
魚のひれが張り付けてある。
猫猫の大好物である。ひれを酒に漬けて飲むと美味い。
猫猫は何も言わず楼蘭を見る。
楼蘭は目にうっすら涙が溜まっていた。
猫猫が手を伸ばそうとすると、楼蘭はかぶりを振った。
(逃げてしまえばいい)
猫猫は思う。
でも、そのあとどうすればいいのか猫猫にはわからない。
自分に政治のことはわからない。そんなもの興味ない。薬のことをたくさん勉強して、研究して、いろんな薬を作りたいだけだ。
それだけでいい。
それだけでよかったはずだ。
他人のことなんてどうでもいい。自分が一番大切だ、ここに連れてこられてどんな目にあったと思っている。
でも、猫猫は手を伸ばす。
それを、楼蘭は否定する。
「私には私の役目があるの。それは止めないで」
「……何か意味があるのですか?」
彼女が向かう先に何があるのかわからない、でも、結末は容易に想像できる。
「意味があるかと言われると意地としか言えないかな」
「ならば、逃げてもいいのでは?」
その答えに、楼蘭は悪戯っぽく笑みを浮かべる。
「ねえ、猫猫。貴方は未知の毒があって、飲む機会が一度しかないといわれるとどうする」
「飲み干します」
即答した。それ以外何の道があるというのだ。
「でしょ」
楼蘭はそう言うと、笑顔で立ち上がった。
まるで、買い物にでも行ってくるような軽い足取りで部屋をでる。
「あとは、頼んだから」
ぱたんと扉を閉めた。
足音がどんどん小さくなっていく。
猫猫はいつのまにか上を向いていた。
目頭が熱く、なにかがこぼれるのを必死で耐えた。
我慢もつかの間、次第に大きくなる轟音とともに建物が揺れた。
水滴が二粒落ちて、曼荼羅華の押し花を濡らした。
記述に不可解な点がありましたので、修正いたしました。