三十五、神美
起伏のない一日とは退屈なものである。残念なことに猫猫はそれに耐えられるようにできていない。
それを考えると、ある意味半物置状態のこの部屋は猫猫にとってありがたいものだった。積み重ねられた荷を漁ると、なかなか面白いものが出てきた。
(こ、これは!?)
漆器や皿が置かれたその下に、書物が詰め込まれた桐箱があった。箱はところどころぶつけられたあとがありかなり古いものに見えた。
紙魚で穴あきになったそれは、ぼろぼろだったが読むことは可能だ、なによりその内容に目を輝かせてしまう。
国内はもとより異国の動植物まであつかった書物だった。
一冊一寸ほどの厚みの冊子に、それぞれ『虫』、『鳥』、『獣』、『魚』、『木』、『草』とある。続きもののようで数字があとにふってあるが、ここにあるのは十冊ほど。まだ少なくとも数冊、抜けているものがあるようだ。
猫猫はその中で、『草』と書かれている冊子をめくる。一頁につき一種類、挿絵付で説明文が書かれている。文体が少し古く読みにくい。
(木版印刷か)
かなり古いものだと猫猫は思った。紙が貴重になったのは、ここ数十年の間らしい。ゆえに、木版印刷といった大量に紙を刷るための技術は、昨今では大変珍しいものになっているとおやじから聞いたことがある。
娯楽小説といったものならともかく、正直、需要の限られる図録、しかも続きものが出せるとすれば、少なくとも木材の規制が行われる前だろう。元がとれるとは思えない。
(いい内容なんだけどな)
読んでいて飽きないと猫猫は目をらんらんにして頁をめくる。
すると、ところどころに細かい文字でなにかかきこまれている。少しくせのある字だ。どうやら図録にある説明文に補足をくわえているらしい。
猫猫の目はさらにらんらんと輝く。一枚一枚丁寧にめくっていた頁をぺらぺらととばしてめくる。補足が加えられている頁だけしっかりと目を通す。
ぞくぞくっと全身が粟立つ。内容に思わず興奮しすぎて鳥肌がたってしまった。
記述にはところどころ、この国の文字ではないものが混じっていた。昔、猫猫が読まないようにと燃やした異国の医学書と同じ文字だった。
その文字もさることながら、手書きの箇所はどれもその植物の特性や薬としての使用法だった。
これを持っていた人間が医術に携わるもの、それもおやじと同じように異国へと留学していたとわかる。
(おやじ以外にそんな人間がいるなんて)
会ってみたいとどきどきしている。
しかし、そこで思い出したことがあった。
なぜ、そんな人物の荷がこんなところにあるのか。そして、ある可能性に行きつく。
「散らかさないで」
いつのまにいたのだろうか、翠苓が立っていた。手には籠があり、中に食料があった。
「いつのまに?」
「あなたが両手を頬にあてて、奇妙な笑いをたてて、身体をくねくねとしはじめたくらいに」
「……」
猫猫はゆっくり目を伏せ、断腸の思いで書物を閉じた。翠苓がいなくなったら続きを読もうと、本を撫でながら桐箱の中に戻す。
「一応、祖父のものなのでなくさないでください」
ぼそりというと、翠苓は卓子の上に菜を並べた。
(祖父……)
猫猫は翠苓の生い立ちについて思い出した。
女官に手を出したとされ宮廷を追い出された医官。そして、翠苓の母親は医官とともに後宮をでた子どもだろう。
もし、なにかが違っていれば、翠苓の母は蝶よ、花よと育てられたやんごとなき姫君だったはずだ。
しかし、『もし』なんて言葉は、実にはかなく現実に遠い。
皇帝の特殊性癖を隠すために、罪をなすりつけられた医官はどうだったろうか。そして、その人間を祖父というこの翠苓は――。
(恨んでも仕方ない)
いま、彼女がこの砦にいる理由はそこからだろうか。
猫猫には、翠苓という女がわからない、同じく楼蘭のこともわからない。
そんなことを深く考えたところで猫猫は翠苓でも楼蘭でもない、わからなくて当たり前だと考える。
それよりも、もっと気になることがあった。
「その祖父というかたにお会いできませんか?」
空気の読めていない申し出をした。わかっている、そんなこと言ったところで今の猫猫の状況を考えたら無駄なことだってわかっている。
でも言わずにいられなかった。
「……もういませんよ。ずっとこの部屋に幽閉されて、そのまま五年前に亡くなりました」
さらりと返された言葉に猫猫の肩はがっくり落ちた。
(幽閉か)
つまり、亡くなった後で物置になったのだろう。だから、下に祖父とやらの残したものがあったと。
そう言われると、窓の鉄格子も厠が部屋につながっている理由もわかる。
「ここの女主人に、不老不死の薬を作れと言われたものですから」
その言葉に猫猫の目はまたまた輝く。
万能の薬はない、不老不死の薬もまた同じく。おやじに言われていたのに、耳にすると興味を抱かずにいられない。
翠苓は、箱から『虫』と『魚』の書を取り出すと、ぺらぺらと眺める。
「出来たのでしょうか?」
「出来ていたら死んでいないでしょう」
もっともなことを言われてしまう。
猫猫も冷めた性格のほうだが、この翠苓という女はさらに上である。
「もし作れたとしたら、ここの女主人にうまく取りいることが出来ますよ」
そういって、持っていた冊子を猫猫に渡した。
「あと、あまり騒がないでください。さっき声が外まで漏れてましたから」
猫猫は口を手で塞いだ。
翠苓は空の籠を持つと部屋を後にした。
一瞬、開いた扉の向こうから騒がしい声が聞こえたきがしたが、気のせいだろうか。
猫猫は用意された食事を頬張りながら、しばし読書にいそしむことにした。
気が付けば、外は暗くなっていた。猫猫がいることは内緒らしく勝手に灯りをつけることは許されない。
もう少し見ていたいと思いつつ、猫猫は寝台に横たわる。
不老不死の研究をしていたという元医官、どんなに優秀な人間だったかは書き加えられた文を見てもわかる。
(おやじには敵わないけど)
それに次ぐくらい有能な人間じゃないかと猫猫は思った。
知らない植物や動物の名を見つけ、そのどの部分がどういう効用があるのかを知るたびに、自分でも不気味な声が上がるのがわかった。
(いけない、いけない)
そう思って口に蓋をするが、今度は手足がじたばたしてしまう。
それだけ興味深いものだった。
しかし、猫猫の暇つぶしには十分すぎるものだが、研究というにはかなり心もとない。他にいろいろ道具はあったのだろうが、それは撤去されたのだろうか。
(もっと見たいなあ)
そう思いながら目を瞑り、今日、覚えたことを反芻する。直接、本に書かれている文章のほかにところどころ栞のように紙がはさまっている。いろんな植物が押し花にされてその頁にちょうど挟まれていた。
猫猫は手探りで襟の中の紙をとる。
おそらく、この中に挟まっているものを引き抜いたのだろうか。
(あれ?)
猫猫は、思わず起き上がった。桐箱の中身を確認しようと寝台を降りようとするが、暗くて見えない。
足を踏み外し、盛大にこけてしまった。
(うぉっ!)
盛大な音がして立てかけていたものが落ちた。漆器がはいった箱が猫猫の腹に直撃し、うぐっと蛙がつぶれたような声を上げてしまった。
しばし、のた打ち回りながらも口をおさえる。
痛みがやや引いたところで、扉に耳を当てる。
(誰も気づいてないよな)
腹をさすりながら、ふうっと息をつこうとしたときだった。
(!?)
かちゃっと、音がしたと思ったら、がたんと前のめりになった。
猫猫の半身は廊下に倒れ込んだ。目の前に銀刺繍の履が見える。長い裳は、絹製で、すうっと視線を上げていくと、初老の女が見えた。
女は、派手な髪飾りと衣を身に着けていた。その薬指と小指の爪は二寸ほどに伸ばされ、鼈甲の護指がついている。
しかし、その顔は歪な笑いを浮かべていた。元は美しかったであろう顔は、加齢のしわとは別に違う歪みが生じていた。
女の後ろには侍女が二人、主人に倣って笑みを浮かべており、その後ろに青ざめた顔の翠苓がいた。猫猫に「なに、騒いでたのよ」と言いださんばかりだ。
(うん、やばい)
「やっぱどぶ鼠が混ざってたあ」
けらけらと楽しそうに笑いながら、高らかに見上げて、そのまま視線を逆さにしたまま翠苓をみる。
あの冷静沈着な翠苓の顔色がさらに悪くなる。
聞いたことがある声だった。
この砦に入るとき、籠の中に笄を突き立てた人、楼蘭の母であり子昌の正妻であり元上級妃だった女だ。
年月だろうか、それとも別の要因だろうか、それはすでに絶世の美女というものではなかった。顔を逆さまにして笑いながら、髪を揺らしながら翠苓に近づいていく。幽鬼のようなその動きに翠苓が震えているのがわかった。
「汚いもの飼っちゃだめでしょ?」
女は、笑いながら右手を上げたかと思うと一閃した。
二本の護指が翠苓の頬を削った。赤い筋がつつっと垂れていく。そして、間髪入れず女の左手にあった団扇が翠苓の側頭部を殴った。
(えげつない)
風の抵抗を受けないようにわざと向きを変えて、骨を当てに来た。翠苓は顔を伏せて「申し訳ございません」と繰り返している。
後ろで笑う侍女たちだが、目は笑ってない。
「大変ねえ。どうせ楼蘭のわがままなんでしょうけど」
そう言いながら、翠苓の髪を鷲掴みにすると、顔を近づけた。そして、なにをするかと思いきや、流れる血をぺろりと舐めとった。
(……)
「いくら高貴な血で薄めようと、一度汚れた血が混じったらおしまいよね」
女は血が混じった唾を懐紙で包むと、それを翠苓の頭に投げ捨てた。
女は満足したように去っていくかと思えば――。
「そうそう、そのねずみちゃん」
忘れられてなかった。
(忘れてくれていいですよ)
それどころか、猫猫は上から護衛らしき男に押さえつけられて部屋に戻されてしまった。
「地下で働いている子たち、誰か呼んできてちょうだい。こんなのでも慰めくらいにはなるでしょうよ」
そういって、残忍な笑みを浮かべたまま女は去っていった。
翠苓は蒼白した顔のまま、
「申し訳ありません、神美さま。申し訳ありません」
と、ひたすら謝っていた。
(大層なお名前だこと)
猫猫は閉まる扉の隙間から、女主人の後姿を見ながら思った。