三十四、穴
壬氏は速足で診療所を出ると、楼蘭妃の住まう柘榴宮へと向かった。
他の女官たちは、深緑が舌を噛んだことに驚いていたが、なんとか治療に当たろうとしていた。少なくとも、あの貧相な髭の医官よりも頼りになるだろう。
皆、深緑が舌を噛んだ理由についてわかっていないようだった。おそらく、診療所内に共犯者はいないだろう。たとえいたとしても、今はそれよりも確かめることがあった。
昨年までの無駄のない佇まいの宮は見る影もなく、異国情緒あふれる絢爛な造りへと変わっていた。
壬氏は、やや強めに扉を叩く。
しばらくもしないうちに、侍女が扉を開けてくれた。
壬氏は少し息を吐くと、いつもどおりの笑顔を見せるようにつとめた。侍女ははにかむように礼をして、中へと入れてくれる。
螺鈿の派手な細工が並ぶ廊下を通り過ぎ、いつもどおり応接間へ通される。すでに、この宮の女主人は待機しており、普段と同じく長椅子に横たわり気だるげに爪を磨いていた。
壬氏は目を細める。周りには六人の侍女が控えており、なにかしら楼蘭妃の世話をかいがいしくしている。
どれも派手な格好をしており、今日は東方の島国が着る民族衣装を身に着けていた。着物を何枚も重ねた衣装は目に鮮やかだ。
侍女たちの着物も楼蘭妃ほどではないが何枚も着こんでおり、体型もわからなくなっている。それなのに眦をつりあげるような化粧をして、顔を鋭角に見せているのでおかしかった。
どうしてそんなに派手に着飾るものだろうかと壬氏は首を傾げたい。その派手さに帝が辟易していることをわかっているのだろうかと。
いや、と壬氏は瞬きした。猫猫が以前、言っていなかっただろうか。子翠という侍女について。そして、その侍女は楼蘭妃が遊びで変装していた姿ではなかったか。
壬氏は最初それをきいたとき、まさかと思った。
壬氏の知る楼蘭妃は、子昌の娘であり、それを十二分に理解している上級妃だった。
楼蘭妃が羽団扇で口元を隠し、侍女に耳打ちする。ずいぶん奥ゆかしい方法で会話するものだと呆れたが、そんなわけがなかった。
もし、猫猫が子翠という侍女が楼蘭妃であると気が付かねば、壬氏も気づかなかっただろう。
なにがといえば――。
壬氏は、侍女の用意した椅子に座ることもなくずんずんと楼蘭妃に近づいていった。
「なんですか? たとえ壬氏さまといえど、失礼ではありませんか」
眦をつりあげて侍女の一人がいった。名前はなんといっただろうか。壬氏は一応、それぞれの宮にどんな侍女が何人いるのか、名前と出身地を頭に入れているつもりだ。しかし、柘榴宮の侍女たちはいつも違った服装、化粧をし、ややこしいことにその体型もよく似ている。
なので、名前は憶えていても顔と一致しない。
壬氏は手を伸ばし、楼蘭妃がもつ団扇を指に挟むと、そのまま投げ捨てた。
「な、なにを!?」
侍女の一人が叫んだ。
楼蘭妃が怯えるように壬氏に背を向け、それをかばって侍女たちが立ちふさがる。主人思いの行動に見えるがそうではない。
壬氏は連れの宦官たちに目配せをする。宦官たちは、侍女たちをおさえて楼蘭妃から引きはがした。
壬氏はやや力を込めた手で楼蘭妃の肩をつかむ。背けるその顔をこちらに向かせる。
派手な化粧をした顔だが、その頬は赤く染まっていた。
「確か、楼蘭妃には七人の侍女が主に世話をしていましたね」
確認するように壬氏は言った。
子昌の娘として甘やかされた娘は、入内の際、五十人以上の従者を引きつれてきた。
壬氏は、楼蘭妃の顔をおさえ、その眦の化粧を指ではいだ。奥二重のぽってりとした眼が露わになる。
「双凛、いや漣風かな。お前の名前は」
壬氏はその顔に怒りをあらわさないように笑みを浮かべていた。しかし、楼蘭妃に化けた侍女は赤い顔を真っ青に変えた。ぶるぶると身体を震わせている。
「じ……」
侍女の一人が、誤魔化すようにまた割り込もうとしたが、それを壬氏は一瞥した。びくりと身体をのけぞらせて固まってしまった。
「本物はどこへ行った?」
すべては最初から仕組まれていたことだろうか。後宮に大量の従者を入れたのも、自分とよく似た侍女ばかり選んだのも、そして、毎回、奇抜な格好をして誰が入れ替わろうとわからぬようにしたのも。
これが最初から目的だったということか。
ならば、本物はどこへ行ったというのか。
「どこへ行った?」
「……」
楼蘭妃に化けた侍女は震えるばかりで何も話そうとしない。
壬氏の手に力がこもる。
「どこへ行った?」
三度目の質問とともに、先ほど割り込もうとした侍女が身体を押し込んだ。庇うように偽妃を抱くと眉を下げながら、壬氏を見る。
「申し訳ありません。この子は本当に知らないのです」
皆、似たような格好をしているので気づかなかったが、偽楼蘭よりもこの侍女のほうがいくつか年上のようだ。
「ご容赦ください」
と、侍女は気まずそうに偽妃の足元を見た。
長い裳が濡れ、足を伝いつま先からぽたぽたと水滴が落ちていた。
壬氏は、つかんでいた偽妃の顎をはなした。偽妃の目は見開かれ、瞳孔が開ききっている。ぜえぜえと荒い息遣いで、震えていた。
白い首と顎には、壬氏が掴んだあとがくっきりと残っていた。
後宮に高官たちの娘を入内させることは、実は帝側にも利がある行為だ。
高官たちは、娘が身ごもれば孫が天子の地位につくこともある。しかし、その一方で不利益な点もある。
すべての親がそうであるとは限らないが、中には娘というものは目に入れても痛くない者もいよう。後宮という鳥かごは、そんな価値のある娘を人質として扱う場所でもある。
子昌には、妾に産ませた子、子翠のほかに、正妻の子、楼蘭しかいない。
後宮へのごり押しも考えると、よほど可愛がっていたようにも見える。
そんな娘が、上級妃という立場である。
こちらが気づかうと同時に、楼蘭もまた最低限の規範を守らねばならない。
すでに、『妃』をつける必要がないというのは、その規範を破ったためだ。
「もう戻らないと言われました」
粛々と先ほどの侍女が言った。楼蘭の侍女頭だという女は、偽妃の代わりに壬氏の質問に答えてくれた。偽妃は、呼吸も上手くできない状態で、とうてい会話はできない。一番、楼蘭に似ていたという理由で、妃の身代わりをさせられただけであり、状況はあまりわかっていなかったようだ。
いつもどおり、楼蘭の気まぐれで身代わりをやれと言われたのだと思ったのだろう。
壬氏はぎゅっと拳を握る。
あれはいけなかった。柔和な笑みを持つ宦官壬氏のやりかたとしては間違っていたと実感する。しかし、あの場では他の方法をとれるほど、壬氏の感情は穏やかではなかった。
もう戻らない、ということは後宮から抜け出したととらえていいだろう。
後宮からの逃走は、時に極刑を意味する重罪だ。それが、上級妃となれば、その罪はさらに重くなる。
妓女の足抜けのようだ、と以前、薬屋の娘が言っていた。次の帝が生まれる場を、歓楽街のそれと一緒にするところがあの娘らしいと、壬氏は苦笑いを浮かべた。
その娘もまた、まだ見つかっていない。
おそらく、楼蘭とともに後宮を出たのだろうと推測される。
猫猫の場合、その性格を考えるともしかしたら自分の意思でついていく可能性もある。しかし、娘はまだ蕎麦への拒絶反応によって体力を削られている。否応がなく連れて行かれた可能性の方が高い。
一体、何のために。
そして、どうやって外にでたのか。
疑問が残る。
侍女頭に問い詰めたところで、首を振るだけだった。拷問にかけるという手もあるが、それも無駄だと壬氏は思う。
侍女頭の目は嘘をいっていなかった。
柘榴宮の侍女、下女、そして宦官、楼蘭妃に関わる人材はすべて一か所に集めて閉じ込めた。あの後宮教室をやった講堂はちょうどいい大きさだった。
念のため、宦官たちを使い、後宮にいる女官たちをひとりひとり確認する地道な作業を行っているが、いまのところ楼蘭らしき女官は見つかっていない。
どうにも、玉葉妃の出産に立ちあえる状態ではなく、後ろ髪ひかれながらも高順に任せることにした。
壬氏は執務室で頭を抱える。
緊急事態のためか、馬閃が壬氏についていた。
こんなところで油を売っている暇ではない。今にも飛び出して、楼蘭を探しにいかねばならぬと焦る気持ちでいっぱいだ。
だが、情報が少なすぎる。いま、飛び出したところで、砂漠の砂の中から一本の針を見つけ出すことに等しい。
壬氏は、ゆえに執務室で右往左往するしかない。
そんな中、馬閃がちらりと壬氏を見る。客人が執務室の前にいるらしく、みっともない格好をするなと言いたいのだろう。
仕方なく、椅子に座って平静を装う。
入ってきたのは、小柄な狐目男、羅半だった。
「なにかわかったのか?」
羅半は、伯父であり養父でもある羅漢が壊した後宮の外壁の修理代を見返りに、壬氏から仕事を引き受けていた。
なかなかの守銭奴で、修理代を壬氏が半分持つのとともに、修理業者と掛け合い見積もりの三割引にしたという手腕である。
羅半は、どこかいけすかない誰かに似た目を細めて、卓子の上で地図を広げる。
「ここ十五年ほどでしょうか。少しずつですが、確実に、石材、木材、鉄等の流通が増えている地方がありました」
羅半は都の北側を指さす。平野をこえ、背に山脈があるあたりだ。
その地方は、これといった大きな街はない。あったとすれば、先帝時代に軍の駐屯地として利用していた砦があったくらいだ。それもここ数十年、平和だったため維持費を減らすために廃した場所だったと記憶している。敵陣が攻め込む場所ではなく、冬は高地にあるため積雪等の処理が大変だったと聞く。
「知っていますか。この付近は昔、湯治場として栄えていたこともあったんです。今は、交易路から離れ、隠れた秘湯という名の過疎地になっていますけど」
「それがどうしたのだ」
遠回しにいう羅半に、やや気が短い馬閃が口を出す。
「硫黄泉があるということです。南方の火山地帯に比べると質も量も劣りますが、年間を通してそれなりの量が取れるかと思います」
硫黄と聞いて、壬氏の耳がぴくりとなる。火薬の材料として一般的な素材だ。
廃された砦、石材、木材、鉄、それに硫黄とくる。
さらに北といえば、子昌の領地に近い。羅漢に名指しされた官たちの領地の位置を考えてみても、それほど悪くない立地にある。
まさにきな臭いというより他ない。
「いかがでしょうか? もっと確実な数字を用意したほうがいいですか?」
予想以上の答えに壬氏は、ため息をつくしかない。その場で、馬閃が地図を持ち、下官を使いにおくりだす。
この小男は、数字がなにかしらの形で見えるというらしいが、そのとおりだろう。『羅』の家のものは、本当に恐ろしい。
「ついでだから、後宮に抜け穴があるかどうか調べもできないか」
思わずそう口にしていた。
「後宮ですか? たしか、一番大きな工事は四十年ほど前にあった拡張工事ですね。今の外壁もそのときに作られたはずですが、できる可能性があるとすればそこでしょうか」
「……本当か?」
子昌が女帝を唆し、後宮を今のように肥大化させたことは知っていた。もしかしたら、工事にも携わっている可能性は高い。
だが、四十年前となるとずいぶん古いものである。まさか、四十年後、自分の娘が脱走するためにそれを使うと思うまいが。
「当時の資料をみれば、そのとき利用した業者はわかります。複数、使われた可能性が高いので、妖しい数字がでたものを選び出しましょうか?」
「……頼む」
「では」
と、取り出したのは、羅漢が壊した修理代のもう半分の請求書だった。半分は壬氏が払うとして、もう半分は羅漢持ちのはずだが。
「……わかった」
壬氏はうなだれながら、全額支払うことを約束する。あとで、水蓮に「あらあら、まあまあ」となんともいえない笑みで責められ、高順の眉間のしわがいっそう深くなるのがまざまざと頭に浮かんでくる。
羅漢を敵にするのも恐ろしいが、この養子もまた敵にしたくないと壬氏は思う。
これだけの能力を持ちながら、なぜ一文官として算盤をはじいているのか謎である。思わずその疑問を口にしていた。
「お前ほどの才能があれば、もっと上へと出世できるだろう?」
その言葉に羅半は、首を振りながら笑ってみせる。
「それでは、歪んだ金の流れが正せないではありませんか?」
数字とは、不明瞭でないからこそ美しいのです、と。
この男もまた、猫猫の従兄弟だと改めて感じた。
独自の美学があるらしい。