三十一、羅半
かつかつと足を鳴らしながら壬氏は、書類を眺める。眺めてはふと窓を見る。
「壬氏さま」
お目付け役の高順がじっと壬氏を見る。
「仕事に集中してください」
当たり前のことを言われたが、壬氏はそれに対して素直に頷けない。
数日前、決死の毒見をやらかした娘は、今、後宮にて安静状態にある。以前、食べ物で人が死ぬこともあると説教していた本人がそれを口にして倒れてどうするといいたい。
しかも、それは当人とは関係がないところで起きたごたごたを鎮めるためにだ。
ゆえに、壬氏はお目付け役である高順を許せないでいる。あの娘がやらかすことをわかっていながら、目を瞑るどころか協力していた。主である壬氏に知らせずに。
「……」
壬氏は反抗的なまなざしのまま、書類に手をかける。
「壬氏さま」
高順は、眉間に皺をよせたまま山となった書類に手を置いた。
「これは、小猫のおかげで手に入った資料です。それを無駄にするようでしたら、それでもいいですよ」
「わかっている」
手にした資料は宴の際、羅漢が指した人物たちだった。名前の列に、壬氏も想像しなかった人間がいることに驚かされる。そして、叩いてみれば怪しい埃がでてくるものだ。
こんなところでつながっているとは思わなかった。
以前、高官がその弟に毒殺されかけたという事件があった。容疑者として捕まった弟は、獄中で中毒死となった。食中毒とも毒殺ともわからないまま、事件は終わったのだが、そこに怪しい影が今更浮かび上がってきたから仕方ない。
高官が死ぬことで得する人物が、名前の列の中にあったのである。そして、それ以外にもいくつか、ここ最近起きた変な事件に関わりあいがあるものがあった。どれも、事件というより事故として処理され、誰が犯人ともつきとめられないまま終わったものばかりだ。しかし、結果として羅漢に指された人物たちの益になるものが多い。
風が吹けば、桶屋がもうかるというが、そういう因果で結果として利益を手にしている。ゆえに、誰も当人たちがやったとは思わないだろう。
「怪しいといえば怪しいが」
「物的証拠はなにもありません」
高順がいらぬことまで付け加える。
あくまで猫猫がしたのは、羅漢という宮廷内で一番敵に回したくない男を怒らせただけにすぎない。
毒を盛ったのが、宴で指した人物たちでないと知ったら、そやつらに嫌がらせする興味が失せたらしい。倒れた猫猫の病状を見るべく、後宮に突入しようとして、もう三度ほど失敗している。宮廷内で火薬を使うのは止めてもらいたい。
そんな中、ちりんと鈴の音がした。
高順が部屋に見えないように設置された鏡を見る。やや首を傾げながら、執務室の扉の前で来訪者を待つ。
中に入ってきたのは、小柄な文官だった。くせのある髪をして丸い眼鏡をかけている。目が狐のように細いのとくせ毛以外は、これといった特徴のない青年だった。
どこかで見たことあるような雰囲気を持つ青年は、袖に手を入れて礼をする。帯になにか引っかけているなと、壬氏は気づいた。目を凝らすと、算盤のように見える。
「はじめてお目にかかります。羅半と申します」
至極簡単に自己紹介を終えた青年はにまりと笑ってみせる。
名前を聞いて、誰かに似ているというのがはっきりした。
『羅』の家の者、外廷内でその名前を語る者は二人しかいない。羅漢とその養子だけだ。あと数えるとすれば、先日、羅門という男が後宮に医官として入ったくらいだ。
羅漢の養子が何のようだろうかと、首を傾げる。
「それで、私になにか用か?」
官位としては壬氏のほうが上だ。いきなり現れた羅半という男は、その点を考えると非礼と言える。しかし、ここでいちいち顔を強張らせていては上手くいかない。壬氏が宦官であるということを理由にもっと非礼な態度で話しかけてくる官はもっといる。
「これをお見せしようと思いまして」
羅半は袖から巻き物を一本取り出した。それを、控えていた高順に渡す。高順は目を細めて見ながら、壬氏へと渡す。
羅漢の養子ということもあって、なにかしら意味があるものを持ってきたのかと思った。素直に中身を確認することにする。
しゅるしゅると紐を解き、壬氏が中身を目にする。
「!?」
「どうでしょうか?」
にんまりといやな目つきをしてこちらを窺ってくる羅半。
いかにも、どうだすごいだろうと自慢げな顔だが、それに相応する内容のものが書かれていた。
数字と単語の羅列、しかし、それは見方によってちがうものになる。
「先日、義父がご迷惑をかけたかたがたのものです」
迷惑をかけたといった。
なぜ、それを壬氏に言うのだろう。
壬氏はあの場にはいなかったことになっている。もし伝えるなら、もっと他の人間に伝えるべきことなのに。
しかし、羅半という男は、壬氏に用があった。
羅半は、少し気の毒そうにいうが、差し出したそれはとてもその心情を窺えるものではない。
金銭出納帳、その抜粋だ。国庫を預かる部署に所属するのであれば、それは閲覧可能なものである。部外者であっても、手続きを踏めば閲覧できるようになっている。
「実物を閲覧してもらうのが一番かと思いましたが、少々、数が膨大になりますので、私が目につく範囲で抜粋させていただきました」
抜粋というが、専門外の壬氏にも理解できるように並べられている。ここでわかるのは、明らかにここ数年の金額の推移が大きくなっている部署があるということだ。
「面白いんですよ。ここ数年、干ばつも蝗害もなかったはずなのに、どうして穀物の値段が上がっているのでしょうか? おかしいなと思って、市井の値も調べてみましたが、ここ数年のうちで一番安定した値でした」
わざとらしく言う羅半。
他に値上がりしたものに便乗して、毎月、少しずつ値上げしているようだ。
「それからもう一つ。なぜか鉄の値も上がっているんです。これは、国全体の金属の価値が上がっているんですが、どこかで大きな像でも作っているのでしょうか?」
羅半という男の言いたいことがなにか、壬氏にはわかった。
壬氏は巻き物をおくと、抜け目ないところが養父にそっくりな青年を見る。
穀物の値というと、それ自体は大したことないようだが、その量は膨大だ。値上がりするとなれば、その差額は膨大なものになる。
羅半は、その差額を横領としてとっているのでは、と示唆している。
そして、金属に至っては、全体が値上がりするというのはその需要の高まりを意味する。派手な事業、わかりやすくいえば権力を見せつけるために作る巨大な銅像など作る場合は、いたるところからかき集められる。鍋や農機具まで集められ、溶かされて使われる。
それ以外に価格が上がる理由があるとすれば――。
「私なら、ここ数年の流通を調べることができます」
壬氏が欲しいと思ったことを羅半は口にした。
まるで、最初からそれを言うために来たようだった。
壬氏は、羅半の目がなにか訴えかけているように見えた。彼が、壬氏にこんなものを持ってきたのはそれが理由だろう。
なにかしら利害が一致しないとこの手の人間は動かないだろう。
「それで、要求はなんだ?」
壬氏は率直に言った。
その言葉を待っていたのか、羅半の目元がゆるんだ。
少し気まずそうに、懐から紙を取り出す。
「こちらの額、少しお勉強していただけませんか?」
そこには、後宮の壁の修理代が書かれた見積書があった。
羅半の養父、羅漢が壊したものだった。