三十、微睡
がたがたと揺れる音が聞こえる。猫猫がゆっくり目を開けると、さらりとした黒い絹の束が見えた。
ぼやけた視界のまま口に手をやる。べとりと何かが唇の周りにこびりついている。口には苦味が、鼻には酸味が残っている。
(吐いたんだろうな)
とりあえず毒を吐かせようと嘔吐剤なり水なり飲ませられたに違いない。うまく処置してくれたらしく、喉につまって窒息死することはなかったようだ。
上から毛皮をかぶせられて、横にされていた。
まだ全身が痒く、息も苦しい。
だらんと横になっていたい気もするが、そうはいかないわけがあった。
黒い絹の束は、猫猫の顔の真上から垂れている。その元をたどると、嫌味なほど美しい顔がじっとまつ毛を伏せて猫猫を見ていた。
「起きたか?」
壬氏は青い顔にやや安堵の表情をのせた。
(壬氏さま……)
声を出そうにも出なかった。口を魚のようにぱくぱくさせるだけで終わる。
がたがたと身体は揺れているのに、頭は痛くない。後頭部に適度な硬さを感じる。
壬氏の顔の位置と姿勢、そして猫猫の横たわった場所を考えると、どうやら大変居心地の悪い様子になっているらしい。
ひざまくらというべきだろうか。
本来、貴人にしてもらうべきことではない。
だるい身体を動かそうとするが、しびれたまま動かなかった。
震える猫猫の身体を壬氏がおさえる。
「大人しくしていろ。お前の養父とやらのところへ連れて行く」
がたがたと揺れているのは、馬車にのせられているからだった。宴が行われている場所は、祭祀場の近くで宮廷内でも随分、端のほうにある。そこから後宮へ向かうなら、馬車でも使わないと倒れた人間一人を運ぶのは難しい。直線距離にして二里(一キロ)以上あるだろうか。
窓の外を眺めようとしても、壬氏が邪魔で見えない。壬氏は壬氏でじっと猫猫を見ている。
「毒を盛られたのか?」
問いかけるように壬氏が言った。
猫猫はゆっくり首を横に振るしかできなかった。
「高順には伝えていたんだろう、どういうことが起こるかを」
確認するように言われると、猫猫は頷くしかない。
壬氏の言うとおりだ。
これは、皇弟に毒を盛られたわけじゃない。猫猫が高順とともにあらかじめ仕組んだことだった。
全身に浮かんだ発疹は、毒ではなく、ある食物を食べた際におこる拒絶反応だった。
「毒らしいものはなかったように見えたが」
壬氏には毒ではないだろう。猫猫だって、人より毒には強い方だ。そんな猫猫にも弱点くらいある。
蕎麦だけは、食べることができないのだ。
壬氏も食べ物に蕎麦が含まれていたら、それに気づくだろう。猫猫がそれを食べられないことを知っていたはずだ。
毒見役がなにを食べられないかということくらい、毒見の前に調べられる。都では、あまり蕎麦を食べることはなく、帝も玉葉妃もそこまで好きではないので、ほとんど食事にでてくることはなかった。
それでも河漏として一度出たときがあったが、その際は紅娘に説明して他の者に毒見を代わってもらった。
なので、料理に蕎麦が使われることはないと壬氏は思っただろう。
猫猫もそれを見越していた。だから、あえて食前酒を焼酒の果汁割にしてもらったのだ。
穀物を材料にした蒸留酒、その中でも蕎麦を使ったものだった。
たとえ酒となっても、その過程で元の蕎麦が混じることは多々ある。そして、今回思った以上にそれが含まれていた。
(まずったなあ)
効き目が遅いといけないので、全部飲み干してしまった。一口で済ませておけばよかったと、後悔する。
他の毒物を混ぜて自演するという手もあった。しかし、それでは誰かが悪役にならねばならなくなる。ばれたら自分に、ばれなくても誰かが犯人に仕立て上げられるだろう。皇弟の毒殺を謀ったとなればただでは済まない。
食前酒に使う酒なら、わざわざ材料まで見られることはないと聞いた。毒見の体質についてそこまで深く考えるものはいない。特定の食べ物に対する拒絶反応は、それほど世間には浸透していないのだ。
今回、猫猫が倒れた件を追及されても、事情を知っている高順が上手く言いくるめてくれるだろう。今回の事件は、今後の課題となれど、責任問題まで発展しないことを猫猫は願う。
損をしたといえば、なにかしら騒ぎを起こしたかもしれぬあの変人軍師かもしれないが、当人は気にしないだろう。
猫猫はただ、あの男、片眼鏡のいけすかない野郎の前で倒れる必要があった。宮廷内で敵に回したくない男として君臨しているあの野郎の前で。
きっと、あの場で倒れた猫猫を見ると、あの男は皇弟の暗殺を真っ先に頭に浮かべるに違いない。そして、それを企てている男たちに牽制をかけるに違いないと踏んだ。
おかしなことに、あれほど猫猫が嫌っているのに、変人軍師が猫猫のためになにかしでかすということについては妙なくらい自信があった。
そういう意味では、猫猫は自分がずるい生き物だと思う。
常人とは違う感性と目を持つあの男なら、今後、ろくでもないことを企てている官を把握しており、なおかつそれを傍観しているに違いないと踏んでいた。きっと、国が傾こうが倒れようが、あの男にはどうでもいいだろう。せいぜい、将棋がしにくい世の中になったと考えるくらいだ。
あぶり出しに使うにはちょうどいい人物だった。
そして、それを唯一使えるのは猫猫とせいぜいおやじである羅門くらいだろう。
あの男に嘘偽りはきかない。もし、壬氏にこれを知らせていたら、それを察する可能性があった。
だからあえて壬氏には伏せてやった。
(それに、反対するかもしれない)
壬氏は妙に猫猫がこんな真似をすることに突っかかる。やんごとなき身の上にいるのであれば、下女の一人などもっとぞんざいに扱えばよい。そのほうがこっちも気が楽だ。
(気が楽なのに……)
壬氏の漆黒の髪の中で鈍い光を放つものが見える。丁寧な銀細工の簪だ。光沢は落としてあるのに、丁寧な細工のため高級感が見てわかる。なにか動物がほられているようだ。
(馬? 鹿?)
燃えるような鬣は彫り物なのにいきいきとしていた。それが壬氏の髪を飾っている。
猫猫はその動物がなにか理解した。
そして、虚ろな目のままじっと見つめる。
馬のような鹿のような姿をしている動物、これで莫迦と呼ぶほど猫猫はふざけていない。
架空の生き物、その意匠を身に着けられるものは限られる。
ゆっくり手を伸ばす。赤い発疹の浮かんだ手は醜く、目の前の貴人に見せるべきではない。わかっているのに。
人のものとは思えぬほど美しいわけだ。男のままでありながら、後宮に出入りできるわけだ。
その資格をこの壬氏と名乗る男は持っていた。
壬氏というのも偽名だろう。本来、この男の名には『華』という文字がつくはずだ。羅門や羅漢が『羅』という家に与えられた字がつくように。
国の華、三つの刀の上に君臨する皇の文字を。
(皇弟)
しっくりくるといえばしっくりきた。
顔を隠し続ける不遇の東宮。
ほとんど仕事らしい仕事を行わず、ただ部屋に引きこもり続けるぼんくらな現帝の弟。
むしろ気づかない猫猫のほうが変だろう。よくよく考えてみれば、それらしいことを言っていたような、言っていないような気がしないでもない。しかし、はっきり言ってくれないとわかるものだってわからないのが人というものだ。
何を言えばいいのかわからず、だからといって口が上手く動くわけでもなくただ伸ばした手をそっと元の位置に戻した。
壬氏は発疹だらけの猫猫の額に手のひらをのせると、そのまま目蓋を閉じさせた。
「大人しく寝てろ」
壬氏は見た目に似合わぬぶっきらぼうな物言いで言った。
猫猫は身体のだるさに耐えられず、その言葉に甘えることにした。