二十六、縁
白や赤の白粉花が咲き乱れる。中には花を落とし、黒い丸い粒をつけているものもある。
猫猫はその向こうへと進む。丈の長い草むらが広がっている。
りぃん、りぃんと鈴の音のような虫の声が聞こえる。
猫猫は草をかき分ける。原っぱの中心にしゃがみ込む影がある。
背丈は大きいがあどけない顔をした娘は、虫をつまみ、虫かごへと入れる。一匹、二匹、三匹目を入れようとしたところでようやく後ろにいる猫猫に気が付いた。
「どしたの? 一緒に集める?」
にんまり笑いながら虫かごを見せる子翠。
猫猫は首を横に振り、ゆっくり頭を下げた。そして、顔を上げ、口を開こうとすると、子翠は首を振って口に人差し指を当てた。
「もう少し、このままでいさせてくれない? せっかく仲良くなれたのにね」
「……」
子翠は猫猫の態度からなにかに気が付いたらしい。あどけない笑みにどこか寂しげな表情が浮かぶ。
「そうもいかないか」
遠くから誰かを呼ぶ声が聞こえる。女官たちが、『楼蘭妃』を探しているのだ。
子翠は猫猫の前に立つと、虫かごを差し出す。
りぃんと鈴の音が響く。
「この虫ね。雌が卵を産むとき、雄を食べちゃうの。すごくきれいな鳴き声なのにね」
まつ毛を伏せて、子翠は猫猫の耳元で囁く。
「まるで、ここみたいよね」
あどけない少女の声ではなく、少しかすれた女の声がした。そして――。
「悪い虫が禍を運ぶわ。止めるのが薬師の仕事よ」
子翠は猫猫の横を通り過ぎた。猫猫が振り返ると、そこにはあどけない少女はどこにもいなかった。
凛とした眼差しの女が、数人の侍女に囲まれている。女の肩に艶やかな衣がかけられる。化粧気のない唇に紅がさされ、額に花鈿が塗り込められる。
奇妙な異国の鳥の羽根をつけた冠をつけると、そこには見知った女官は消えていた。
「妃、早く戻りましょう」
「わかっているわ」
硬質な女の声は、猫猫を置いていく。
そこには明確な壁があった。
ただの女官と上級妃、そこに主従がなければなんの接点もない。
そして、猫猫と羽根の冠をつけた妃に接点はない。
長い尾羽を風に揺らめかせながら、妃たちは去っていった。
まるで猫猫をないものと扱うように。
そして、虫かごに鈴の音だけが響き渡った。
『悪い虫が禍を運ぶわ』
最後に子翠が言ったのはどういう意味だったろうか。
猫猫は銀食器を磨きながらうなった。うなったところで手を止めると、どこからともなく侍女頭の紅娘がやってきて折檻しそうなので手は止めない。最近、えぐるような拳骨がどんどん上達してきてけっこうくるのだ。
(悪い虫に禍か)
それはなんらかの比喩だろうか。それともそのままの意味だろうか。
禍など猫猫はどうとでもない。世の中、悪いことが起きるのはそれになにかもとになることがあるからだ。
ただ、禍に薬師と言われると、それは病の類にも聞こえる。
(虫が運ぶ病もある)
その意か。
(それともからかっている?)
どうとでもとれた。
ただ、猫猫は子翠という少女について考える。彼女について何も知らないといえば知らない。ある程度知っているといえば知っている。
つまりよくわからない。
よくわからないまま夜が来て、帝が足を運ばれた。玉葉妃の大きくなった腹を見て複雑な顔をしている。
最近、梨花妃のところにもまめに通っているときく。
猫猫は香酢がきいた粥をすすり、ちらりと帝を見た。
愛おしそうに娘である鈴麗公主を見ている。
一度、玉葉妃がいないときに猫猫は帝にたずねられた。腹の子の性別がわかる方法はないかと。
猫猫は知らないと首を横に振るしかできなかった。
帝が「そうか」といいながら少し目線を下げたことを思い出す。
二人の上級妃にともに腹の子がいるとして、そうなると性別と順番が物を言う。
先に生まれるとすれば玉葉妃の子、しかしその性別はわからない。もし女であれば、どうなるか。
正直な感想を述べると、帝は玉葉妃に男を産んでもらいたいようだ。だからといって、梨花妃をないがしろにするわけじゃない。玉葉妃と梨花妃、寵愛の差というより、政治的な面で玉葉妃のほうがなにかと帝に都合がいいように思える。
鈴麗公主を膝にのせ、風車をふいて遊んでいるとよい父のように見えるが、彼は殿上人である。やんごとなきお人には、血縁というものは味方であり同時に敵でもある。男児が生まれたところで、その父親が邪魔となり消しにかかる妃の親族たちは、歴史上多々いる。
少なくとも、玉葉妃および梨花妃の親族に対してはその心配が少ないというのが、帝の考えだろうか。
(食えないおっさんだよな)
そして、他の妃の元にも向かう。
昨日は、楼蘭妃のところだったはずだ。
「……」
「どうしたの?」
粥をすくう匙の動きが止まり、少し怪訝な顔で紅娘がきいた。
「いえ。なんでもありません」
猫猫は粥茶碗を卓に置くと、口の中をゆすいだ。そして、次の菜に手を付ける。
こうして翡翠宮では猫猫が毒見役として動いているが、水晶宮ではどうだろうか。ちゃんと梨花妃のところの侍女はまともになっているのかが心配だ。
ちらりと玉葉妃を見て、猫猫は目を瞑る。
今度、高順あたりにでも聞いてみようと思った。
翌日、高順が一人でやってきて、紅娘といろんな打ち合わせをしていた。壬氏は忙しいようで、またなにやら宮中での仕事があるらしい。
高順の話によると、梨花妃のところに新しく配属された女官は、四十路を過ぎた中年と、他に若い女官が三人入ったらしい。
昔、梨花妃と元侍女頭を教育した人らしく、その点は抜かりないといっていた。
猫猫はなんとなく紅娘と水蓮を合わせて二で割ったような人を想像し、水晶宮の侍女に手を合わせた。
「それより小猫」
高順がいつもより眉間のしわを深くして言った。
猫猫はなんだか嫌な感じがして、思わず同じように眉間にしわを寄せる。
「楼蘭妃の姉についてだが」
猫猫はぴくりと動く。
「このような娘をご存知でしょうか?」
高順は懐から紙を取り出して、猫猫に広げて見せた。細い線で描かれた似顔絵はどこかで見たような顔をしていた。ほっそりとしていて、顔立ちは整っている。背丈は五尺六寸とある。
「……これは」
以前、猫猫に突っかかってきた官女の一人に似ていた。背丈も高かった。
たしか、青薔薇のとき見かけた子昌たちの一団にその官女がいたことを思い出す。
「このかたが本物の子翠なんですね」
「ええ、普段は翠苓と名乗っているようです」
妾の子ともあれば、肩身は狭かろう。下手に名前に一文字貰ったとすれば、周りにやっかまれることもあるかもしれない。異母妹が上級妃となればなおさらだろう。
(変な感じだな)
子翠、いや楼蘭妃はとても楽しそうに姉の話をしていた。
対して、猫猫は本物の子翠が笑ったところを見たことがない。どこか無気力で、つまらなそうな顔ばかりしていた。
子翠は楼蘭妃となら楽しそうに話すのだろうか。それとも、楼蘭妃が一方的に慕っているのか。そんなのはよくわからない。
「そのかたがどうしたのでしょう?」
猫猫の質問に高順はちらりと周りを見た。部屋には他の侍女はおらず、もう一人、付き添いの宦官がいるだけだ。
「母親が市井の女だと話にあり、もう死んでいるようなのですが……」
濁すように高順が言う。なんだか猫猫に言うのをためらっているようだ。
(聞かない方がいいだろうか)
そう思いつつ、むくむくと膨らみはじめた好奇心はじっと高順を見て、返事を催促した。
「子翠を育てたのが、元医官のようで」
「元医官ですか」
それなら、楼蘭妃の言った薬に詳しい姉というのがわかる。猫猫と同じように、薬学の知識を教え込まれたのだろう。
そうなると、いろいろよからぬことが浮かんでくる。
「ええ。元は異国に留学するほど優秀な医官だったそうです」
異国に留学となればそれはすごい。猫猫は、自分のおやじである羅門を思い浮かべる。おやじもまた西方に何年も留学していた。
なんだかじわりと嫌な汗が浮かんできたが、高順は話を続ける。
「女帝の怒りを買い、やめさせられましたが」
「……」
「それで、やめさせられた――」
「あっ、もういいです」
猫猫は耳をふさぎたくなった。
好奇心に負けそうになったが、やはり身の安全に天秤を傾けたくなった。これ以上、話を聞いてはならぬと猫猫の中で警鐘が鳴り響く。
「やめさせられた理由というのが、後宮にて女官を孕ませたとのことで」
「……」
高順は言いきってしまった。はっきりと言い切ってしまった。
戻れないところへとずんずん足を突っ込んでいく。
「なぜ宦官がと思いませんか?」
「……」
「昔は医官だけは去勢を免除されていたので」
聞きたくないことを次々と言ってくれる高順。
「その事件より、例外はなくなりました」
責任をとり、官の位をはく奪されたという。
その後、入る医官はすべて去勢されることになったという。
(女帝にしては寛大すぎる処置だな)
嫌な汗をたらたら流しながら、猫猫はそんな疑問にいきつく。高順はすぐにその答えを教えてくれる。
「孕んだ女官は、まだ十を過ぎたばかりの娘だったそうです」
思わず唾を吐き捨てたくなる話だった。世の中、幼女趣味が多いのか、そんなに野郎どもは若いのがいいのかよ、と吐き捨てたくなった。しかし、特殊趣味ばかり世の中蔓延しても困るものである。
猫猫は約一名、どうしようもない幼女趣味を持っている人物を知っている。未だ、後宮内で噂を残すかの人物だ。
「医官の減刑は、先帝よりの申し出とのことで」
(そりゃあねえ)
「子は医官が引き取り、女官は後宮に残りました」
(あれ?)
猫猫は引っ掛かることを思い出した。
以前、似たような話を聞いたことがなかっただろうか。
「女官はその当時、上級妃についていた侍女でした」
侍女のその後は知っている。妃に疎まれ、後宮を出ることも叶わず、一人怪談話だけを楽しみに生きて、そして、死んだ。
「元上級妃は現在、子昌へと下賜されています」
そして、楼蘭妃はその娘となり、子翠といえば――。
(仮に子翠の母が、医官が後宮より連れ帰った子だとすれば)
先の帝には二人しか子がいない。
その前提が覆される。
「小猫は、ここまで言えばわかるでしょう」
猫猫は首を縦にも横にも振らず、ぼうっと突っ立ったままだった。
複雑な人間関係を暴露すると、高順は少しつきものがとれたような顔をした。これで、お前も共犯だぞ、と言わんばかりだ。
少しうきうきした様子で帰っていく高順の後姿を、猫猫は恨みがましく見送った。