二十五、子
猫猫が壬氏に呼ばれた場所は宮官長の部屋だった。いつもどおりそっと席を外す宮官長にぺこりと頭を下げて猫猫は中に入る。
広いが簡素な室内には、ゆったりとくつろいだ様子で壬氏が長椅子に座っていた。なんだろう、いつにも増して御尊顔麗しく、すなわち無駄にきらきらしている。
猫猫はゆっくり頭を下げる。後ろで高順が扉を閉める音が響く。
先日、壬氏にあってから何日がたっただろうか。あの時は、壬氏は真っ白な顔をして何も言わなかった。猫猫もなにも聞けなかった。聞こうとは思ったが詳しく聞くことなどできず、なにより手に入れた霊芝で頭がいっぱいだった。これは仕方ないことだ。
なので、ここ数日、いつこの宦官、いや宦官もどきが翡翠宮にやってくるのか恐れていたが、直接呼び出すとは。
猫猫は着物の衿をぎゅっと掴む。
「御用は何でしょうか?」
猫猫は覚悟を決めて口にした。
その様子を見て、壬氏はにやりと笑う。
「先日の続きを話そうかと思ってな」
(やはりそう来たか)
猫猫は深く息を吐く。
この男が何を言いたいのか。猫猫は予想していた。
「わかりました」
猫猫は懐から布袋を取り出す。
それを卓子の上に並べる。
「ちゃんと覚悟してまいりました」
きりっと表情をかためる猫猫に対し、壬氏が軽く首を傾げる。
「……えっと、何の覚悟だ?」
なにをとぼけているのだろうか、この男は。
猫猫は袋の中を開けて見せる。
「今はまだ調合が不十分ですが、もう一種、薬を組み合わせれば、完成です。完成品なら、心の臓が驚く病で死んだと思われるでしょう」
もう一種の薬はここでは手に入らないので壬氏に用意してもらおう。これくらいやってくれるだろう、異国の多少値のはる薬だが、だからこそ証拠が残らないというものだ。
最後の望みくらいきいてもらおう。
試したい薬で死なせてくれと。
考えないようにしていたが、猫猫だって自分の生死について思うところがある。
どうせ死ぬなら、好きな形で死なせてもらおう。
そんな些細な望みなのに。
壬氏は渋い顔をしている。
なんだ。もしかして、そんな高い薬は買えないとでもいうのだろうか。いや、そんなはずはない、しかし、もっと安上がりに始末しようという魂胆なのだろうか。
「壬氏さま?」
恐る恐る猫猫が名を呼ぶと、壬氏は先ほどの優雅な様子から一変して渋い顔になっている。眉間に指を当てているかと思えば、行儀悪く頬杖をつきはじめた。
「……一応聞いておくが、それは何のつもりかな?」
「なんのつもりかと言われましても、自分なりに覚悟を決めてまいりました。証拠が残らない死に方を考えてきたつもりですが」
壬氏の顔が手のひらからずれ落ち、ごつんと卓子に当たる。思わず猫猫は仰け反る。高順が壬氏に近づくが、壬氏は手で制する。
「一つ聞いておくが、もしかしてここ数日、ずっとそんなことを考えていたということか?」
そんなことというのは、壬氏が猫猫を処分するということだろうか。それについては肯定するしかない。
「はい。私が目障りでしょうがないでしょうから」
もしくはどう口止めする方法を考えていたとか。その場合、人質をとるのが一番だろう。妓楼の小姐たち、いや、おやじだろうか。
おやじは今まで散々苦労して生きてきた。これ以上苦を負う必要はないと猫猫は思っている。
だから、こうして薬を用意した。
その薬を使うことを拒まれたなら、どうなるかといえば。
「手っ取り早く縛り首ですか? なにか粗相を押し付けて」
がたんと大きく卓子が動く音が聞こえたかと思うと、のっそり壬氏が猫猫の前に立っていた。
背をかがめ、じっとりした目で猫猫をねめつける。
猫猫は思わず一歩後ずさる。しかし、それを追うように壬氏が一歩前にでる。
「……壬氏さま、長椅子でくつろがれたほうがいいのでは?」
「くつろげぬ対応をしているのはどこのどいつだ?」
一歩、また一歩、猫猫が下がるとともに壬氏が前に出る。高順に助けを求めようにも、高順は高順で手のひらを合わせて何もないはずの天井を見ていた。
気が付けば猫猫は壁まで追いやられていた。どんと耳の横に手が置かれる。壬氏が壁に手をつき、猫猫を見下ろしていた。
「……言っただろうが、言わなくちゃいけないことがあるって。それでなんで、お前を始末する理由がある?」
ふうっと息を吐いて壬氏が言った。
(そんなこと言ったっけ?)
多分、そのときの記憶はいろんな茸のせいでぶっとんでいたのだろう。よく覚えていない。
うん、茸が悪い。
「すなわち、壬氏さまは私を始末するつもりはないということですか?」
猫猫が壬氏の顔を見上げると、壬氏はびくりと身体を震わせた。
「そのつもりだが」
「それは何より」
猫猫がほっとして息を吐く。
「……」
その様子を壬氏はとても複雑な顔で見ていた。
「どうしたんですか? 壬氏さま」
「いや、ほっとしているところ悪いが、ここはほっとするところではないと俺は思うぞ」
なにやら意味の分からないことを壬氏は言っている。
ふむ、と猫猫は周りを見渡す。
壬氏が猫猫を追いやったまま、上から覗き込んだ姿勢だ。
「壬氏さま、誤解がとけたところでどいていただけませんか?」
猫猫が率直に述べる。壬氏が邪魔で壁から動けない。すり抜けることも可能だが、貴人の足を股ぐ形をとっては失礼だろう。
「……やっぱりお前、まったくわかってないだろ。俺は、その、宦官ではないということがどういう意味かわかっているか?」
「それは、ここでばれると大変でしょうね」
後宮という皇帝のためだけに作られた花園に男がいる時点で駄目だ。しかし、よくよく考えてみれば、壬氏ほど目立つ官を皇帝が放置しているとは思えない。何かしら、理由があって男のまま置いていると考えるのが普通ではないだろうか。
(まさか!?)
皇帝は下級妃あたりに壬氏の子でも産ませようという魂胆でなかろうか。上級妃ならともかく下級妃の産んだ子の継承権は低い。男なら面倒だが、女が生まれたらどうだろう。
男であれ国を一つ二つ滅ぼしそうな顔を持つ壬氏の娘、それはさぞや外交の切り札となろう。気の長い話に聞こえるが、政略結婚は娘が十にもならないうちに決まってしまう。
色々問題は多いかもしれないが、それだけうまみがあるかもしれない。
(なんと恐ろしい皇帝、そして種馬!)
猫猫はなんともいえない視線を壬氏に向ける。半分侮蔑、半分憐れみの目だ。
「壬氏さまの立場が複雑なことはわかります。ただ、それ以上は私には少し重すぎる話です。これ以上は、ご勘弁できませんか? 口が裂けても他言はしませんので」
猫猫が言えることはこれだけだ。
「……勘がいいと思っていたが、気づいていたのか」
「ええ、今、確信しました。難しい立場にいるのはわかりますけど、私には分不相応な話です」
「……わかった、それについては納得しよう」
壬氏の顔は浮かない。ふるふると震えながらなにやら懐に空いた手を突っ込んでいた。なにか取り出そうとして、それを止めているようだ。
なにか複雑な感情が壬氏の中にあるらしい。
「いや、なんというかそれもあるが、他にあるだろ? なんというか、俺の立場というより、俺自身についてだが」
「壬氏さま自身ですか」
種馬らしくご立派なものをお持ちで、とでもいえばいいのだろうか。そう言えば、妙にこの男、自分の身体を自慢したがるのだ。
「いや、見るわけじゃないし」
思わずぼそりと言ってしまった。
壬氏の顔が引きつっていた。
やばいと猫猫は高順を探す。高順は悟りでも開かんばかりの神々しさが芽生えかけていたが、とんとんと扉を叩く音に反応した。
壬氏はようやく猫猫の前から離れ、何事もなかったかのように長椅子に横たわると外で待っていた宮官長が入ってきた。
「どうしたんだい?」
壬氏がきらきらしい笑顔をはりつけて、中年の女官に言った。
「はい、今日の夜伽は楼蘭妃の元へと、主上がおっしゃられたそうなのですが」
「そうなのか。今宵はこちらには足を運ばれないと聞いていたが」
壬氏は尊大な態度で首を傾げる。
後宮に皇帝が足を運ばれる際、事前に報告される。足を運ばれる部屋もいろいろ前準備が必要だ。妃は湯浴みをし、香を焚きしめた衣をまとい、化粧をするし、食事もそれにあった夜食を用意せねばならない。
少し慌てた顔をしている宮官長を見るなりなにやら問題があったようだ。
「はい。楼蘭妃が宮にいらっしゃらないということでして」
「……ほう、散歩だろうか」
「それがその……」
宮官長がなにやら言いにくそうな顔をしている。
「楼蘭妃は、いつもどこかへ足を運ぶことが多いらしく……」
ごにょごにょと濁すように話す宮官長。
どうやら皇帝が来る際、いつも知らせるたびに楼蘭妃を探す羽目になっている女官たちを見ているらしい。本来、宮官長が口を出すことでもないが、今回は時間がないため、どうしようかと壬氏に頼ったのだ。
(はて?)
上級妃が出かけるのであれば、誰かお付がいるはずだ。それなのに、誰も行先を知らないなんてことはあるのだろうか。
まるでそれではお忍びで出かけているみたいだ。
(お忍び……)
ふと猫猫は楼蘭妃を思い出そうとする。毎度、異なる衣装を着る変わり者の妃。派手な化粧をいつもしていた。
洒落者だと言ってしまえば、それで終わりかもしれない。しかし――。
猫猫はふと高順のもとに近づいて話しかけた。
「高順さま、一つお聞きしたいことがあるのですが」
「なんでしょうか?」
「楼蘭妃のところにいる子翠という女官はご存じですか」
猫猫の質問に高順は答える。
「私も宮のすべての女官を把握しているわけではありませんが、その名の女官はいないはずです」
はっきり言い切る高順。
「それはどういうことですか?」
「子翠、それほど珍しい名ではないですが、楼蘭妃の元にいられる名前ではないからです。妃の父は、『子昌』。この名前の意味はお分かりでしょう」
猫猫は額を押さえた。
どうして気が付かなかったのだろう。
貴い血筋の中には、名に家を表す文字を入れることがあるという。子昌であれば『子』、その子どももまた『子』がつくかもしれない。ほとんどが直系の男子につける風習だが、女子に付ける場合も皆無じゃない。
だとすれば、わざわざ実の子である楼蘭妃の元にそんな紛らわしい名前の女官がいるわけがないということだ。楼蘭妃の名にその文字が入っていないのに、他の女官に入っていたら実に紛らわしい話となる。
そうなると、一つ問題が出てくる。
「あの子翠という女官ですか?」
おずおずと口を出してきたのは、宮官長だった。猫猫たちの声が聞こえていたらしい。
「知っているのですか?」
「少し前の記憶で、ちょっと曖昧なのですが」
宮官長は、部屋の書棚の中からごそごそと帳面を持ってきて開き始めた。ぺらぺらとめくって、ある頁で手を止める。
「これですね。本来、楼蘭妃とともに入る予定だった女官です」
宮官長が開いた帳面を皆覗き込む。
ただの女官にしては事細かく書いているかと思ったら、家族構成を見たら納得した。
「子昌さまの娘、楼蘭妃の異母姉にあたるかたです」
猫猫はぼんやりと帳面を眺めると、ふっと力が抜けた気分になった。
(なんか見覚えがあるわけだ)
そう思いながら――。