8 薬棚
どうしたものか。
柳の眉に憂いをひそめ、腕を組んでいる。
性別さえ違えば傾国になるといわれた壬氏であるが、本人がその気であれば性別など意味がないものといえる。
今日もまた後宮の中級妃ひとり、下級妃ふたり、殿中でも武官と文官ひとりずつに声をかけられた。武官には強壮剤入りの点心までいただいたので、今日は夜勤を行うことなく宮中の自室に戻っている。自衛のためであり、さぼりではない。
机の上にある巻物にさらさらと名前を書く。
今日声をかけてきた妃たちの名前である。帝の御通りがないからといって、違う男を寝所に引き入れようなど甚だしい。正式な報告ではないものの、今後、沙汰が下ることであろう。
自分の美貌が女官たちの試金石だということを籠の小鳥たちは幾人わかっているだろうか。
妃の位は、まず両親の家柄に加え、美しさ、賢さを基準に選ばれる。家柄、美貌に比べ、賢さというのは難しい。国母となるにふさわしい教養を持ち、それに加えた貞操観念も持ち合わせねばならない。
意地の悪い我が皇帝は、選出基準に壬氏を使うことにした。
玉葉妃と梨花妃を薦めたのも壬氏である。玉葉妃は思慮深く謙虚である、梨花妃は感情的な性格があるものの誰よりも上に立つにふさわしい気質を持っている。
どちらも皇帝に対する忠誠を持ち、邪まな感情は見当たらなかった。
梨花妃に至っては心酔の域に達していた。
吾主ながらひどいかたである。
自分に国に都合のよい妃を揃えさせ、子を産ませ、その能力がないとあらば切り捨てる。
今後、寵愛は玉葉妃に傾き続けるであろう。
幽鬼のようにやせ細った梨花妃の元に通ったのは、東宮が亡くなったときが最後だった。
梨花妃以外にも必要のなくなった妃は幾人もいる。それらは、折をみて実家に帰され、また下賜される。
重ねられた書類を一枚引き抜いた。
位は正四品、中級妃にあたる。名を芙蓉といった。
先日、異民族を撃退した勲功としてとある武官に下賜されることになった妃である。
「さてさて、上手くいくことでしょうか?」
己の頭の設計通りに事を運べば、問題はないはずである。
それには、無愛想な薬師どのの協力がいくらか占めているかもしれない。
自分を欲情の相手としない人間は皆無ではないが、毛虫のごとく見られたのは初めてである。
本人は上手く隠したつもりだろうが、表情にうっすら浮かんだ侮蔑の目は隠しきれていない。
思わず笑いがこみ上げる。天上から落ちる甘露のような笑みに少しだけ底意地の悪さをまじえて。
別に被虐嗜好はないのだが、妙に面白かった。新しい玩具を手に入れた気分である。
「今後、どうなることやら」
壬氏は書類を硯の下に置くと、眠りにつくことにした。
夜中、訪問者が来ても問題ないように、錠はしっかりとかけて。
○●○
万能薬という言葉はあるが、実際万能である薬は存在しない。
おやじどのの言葉に反感を持っていた頃が猫猫にもあった。
どんな病にも、どんな人間にも効く薬を作りたい。そんなわけで、他人が目を背けたくなる傷を作り、新しい薬を開発してきたのであるが万能である薬はいまのところ完成の目途はない。
大変気に食わないことであるが、壬氏の持ってきた話は猫猫に興味を持たせるに十分であった。
後宮に入ってからというものの、甘茶くらいしか作れなかったのだ。材料になる薬草は驚くくらい後宮内に生えていたのだが、道具もなく、大部屋で怪しげな行為もできずに我慢してきたのだ。
小部屋になって一番うれしいのはそこのところだろう。
材料の調達にとでかけるが、表向きの理由として洗濯籠を背負う。紅娘の計らいで、今後洗濯係は猫猫になろう。
洗濯ものを届けに来たふりをして、前もっていわれていた医務室に入る。中には、以前、狼狽えるしかなかったあの医者と、壬氏によくついている宦官がいた。
医師は薄いどじょうのようなひげに触れながら、値踏みするような目で猫猫を見る。
なぜこんな小娘が自分の領域を荒らすのだと言わんばかりだった。
(醜女をあまりじろじろみないでくださいまし)
医者に比べて宦官は主に接するように丁寧な動きで猫猫を案内する。
三方を薬棚で囲い込まれた部屋に入れられたとき、猫猫は後宮にきて一番の笑みを浮かべていた。頬は赤く染まり、眼はうるみ、一文字だった唇が柔らかい弧を描いている。
宦官が驚いた表情で猫猫を見るが、そんなの関係なかった。
引出の見出しを眺め、珍しい薬を見つけるなり踊るような奇妙な動きをする。喜びがあふれ出て、頭の中で収まりきれなかった。
「なんかの呪いか、なにかか?」
小一時間そんなことを繰り返したところだった。
いつのまにか現れた壬氏が奇異の目で猫猫を見ていた。
引出の端から順につかえそうな材料を集める。それぞれを薬包紙に包み、筆で名前を書く。まだ木簡が書物として使われる中で、ふんだんに紙を使うことは贅沢である。
どじょうひげの医師は、何者だとのぞいてくるので、宦官は戸を閉めた。宦官の名前は高順というらしい。
引出が高いところにあるのは、高順がとってくれる。その上司はなにもしない、しないならどこかいけよ、と無表情の奥に猫猫は思う。
引出の一番上に、猫猫は見覚えのある名前をみつけて身を乗り出した。
高順に手渡されたそれをみると、なんともいえない表情をする。
何かの種子が手のひらにおさまっている。
「これだけじゃあ、足りない」
「ならば、用意すればいいだけのことだ」
無駄に笑顔を振りまいてみていただけの美丈夫は簡単に言ってくれる。
「西の、さらに西の南方にあるものですよ」
「交易品を探せば見つかるだろう」
壬氏は種子を一つつまむ。杏仁に似た形をしたそれは、独特の匂いを発していた。
「これはなんというんだ?」
青年の質問に猫猫は答える。
「可可树です」
と。