幕間、ある官の決意
かつかつかつ、と足音が響いてくる。
馬閃は、部屋の中からその音を聞くと、椅子から腰を上げ、訪問者がやってくるまえに出迎えた。
石造りの回廊を通りやってきたのは、書類を抱えた官吏だ。馬閃は「ご苦労」と頭を下げると荷を受け取る。官吏は丁寧に頭を下げながらも、ちらりと本来持って行くべき執務室を見た。
宮廷の最奥に近い場所に設けられたそこの主は、滅多に顔を出さないことで有名だ。たとえ表に出たとしても、その顔を拝むことはできない。
表にでたときは常に覆面をし、その素顔を見ることはない。幼い頃、火傷で皮膚がただれた、その容姿の醜さにふさぎ込んだやんごとなきお人。昔は、前髪を垂らして隠す程度だったが、ここ数年、完全に顔を見せなくなっていた。
そんなおかたに対して、宮中で変な噂を流すな、というほうが難しいかもしれない。
可哀そうな末の子を皇太后は猫かわいがりしているとか、帝がうとんじているとか。
それが、現在の東宮だった。
その醜い容貌は、先の帝の花の園で枯れていった女たちの怨念のせいであるなどといわれている。先の帝の在位は長かった。そのあいだに、後宮内で散った花の数は数千とも言われている。
醜い容貌が呪いであるか。
馬閃にとっては失笑ものの話である。
馬閃は書類を持ったまま、執務室へと入る。ふんわりと柔らかい香が漂う中、執務机に座る人物がいる。
長い髪を後ろでひとまとめにし、紙の上に筆を滑らせる人物がいる。
一瞬、馬閃は主かと間違えたが、よく見ると別人だ。
顔立ちではない、雰囲気がよく似ていた。
中性的な顔立ち、凛々しくすっきりした輪郭。無駄のない動きは洗練されており、その筆の運びが主によく似ている。
しかし、そこにいるのは別人に他ならない。
性別さえ違う。
「ようやく仕事か?」
凛とした声が聞こえる。男にしては高く、女にしては低い。背丈もそうだ。女にしては高く、男にしてはそれほどでもない。
男とも女ともいえないそのかたは、昨年まで後宮で上級妃をやっていた。阿多は、後宮を去ったあと、帝の離宮に身を寄せていたはずだ。
だが、しかし。
阿多は貰った書類を見て、唇をゆがめる。笑うというより嗤う。そんな顔をする。
彼女は、後宮を出たのち、ここで馬閃の主の影武者をやっている。やっているといっても、かわりに貰った仕事を片付けているだけに過ぎないが。
「どうしようもないな、これは」
阿多は指先で筆をくるりと回す。
言わんとすることはわかる。これらの書類は形だけ見せればいいものだ。名目上、個々を通しさえすれば、予算が下りるようになっている。
阿多は書類を二つに分ける。是か非か、その二つに。
分けたのはいいが、結局どちらとも通すのだ。それが、無能なお飾りの役どころだ。それを数年続ければ、こうやってわんさと非の書類が増えていく。
後程、別のところからつついてやればいい話だ。
元々、その仕事を行うのは、馬閃の仕事だった。
ほとんど訪問者のいないこの執務室で、それだけの仕分けをする。面白みもなにもないが、それが役割なので仕方ない。
ここ最近は、阿多が代わりに行っているため、馬閃は外へ出て違う仕事を請けるようになった。
これもまた、普通とは異なったものが多い。本来つきたかった武官の仕事とは、大きく開きがあった。
それでも仕方ないと我慢する。
東宮の正体を知る者は少ない。
そう思えばこそ、やりがいがでてくる。
自分は、それだけ信頼に足る人間だと自負していた。
それなのに。
父上はなにを考えているやら。
父、現在は『高順』と名乗る男を思い出す。
高順だけじゃない、主についても物申すところがある。
なぜ、あんな娘を引き入れようとする。
そこが不思議でたまらず、思わず父に問いただしたところ、なんとも微妙な顔をした。どういうわけだ、と今度は娘本人に詰め寄ろうとしたら殴られた。
後程、父から受けた説明では、娘を手もとに置いておいたほうが色々と便利だと聞いた。前々から、薬学について詳しいと聞いていたが、それならばわざわざ手もとに置く必要はないと思った。
しかし。
あの娘は『羅』の家の出自だと言う。
それを聞いたとき、馬閃は思わず身をすくめた。
この国では、姓と名の他に、家を表す一文字が与えられることがある。主に、代々、帝に仕えてきた家柄がそれを持ち、直系の男子には名にその一文字を与えられる場合が多い。
馬閃の場合、『馬』。帝より数代前に賜った名で、馬閃とその兄、そして、高順の本来の名に使われている。
問題の『羅』の家はというと、古くからある家柄だ。主に、武官を輩出する家だが、それ以外にもいろんな才能を発揮する。この国こと茘の歴史上、何人もの天才を輩出している。
その方向性は多岐にわたり、当人の興味によって大きく変わる。
当人の興味によって、それによりわかるのは、『羅』の家の天才たちは変わり者が多い。
今の当主は、羅漢、軍師殿と揶揄される変人である。その行動は予測できず、常に宮廷内で面白いことがないか歩き回っているような人物だが、その才能は折り紙つきだった。人材を見極めることに関しては、誰よりも目がきく。彼の採用した人材は、皆、その分野で一目置かれるものばかりだ。
変わり者のこの男に派閥に組するという考えはない。
おもしろいか、おもしろくないか、気に入るか気に入らないかそれだけだ。
この男とは近づきたくない、しかし、敵にだけは回さないほうがいい。それが、宮廷内における暗黙の了解だった。
そして、その男の身内といえば養子にした甥が一人いるだけで、妻帯もしていないはずだった。そう聞いていた。
しかし、実際は娘がおり、しかも溺愛しているという。
それがあの娘だと聞いたときは、馬閃は開いた口が塞がらなかった。
と同時に納得した。
『羅』の一族は、天才を多く輩出する。その一方で、人間としてなにかが欠けているものが多いらしい。
かくいう羅漢も、なにを考えたのか、ある日突然、当時当主であった自分の父と弟を家から追い出している。追い出された二人は、『羅』の一族では比較的まとも、すなわち無能だった。甥は、甥で羅漢についたほうが得策と、養子に入っている。
天は優れた才能を与える代わり、致命的な欠点を付与するのかもしれない。
そんな男が娘を溺愛するとなれば、首を傾げたくもなるし、一方で納得もしてしまう。情とはときに偏ってしまうものだ。
現在、宮廷ではいくつかの派閥ができている。その中で一番幅をきかせているのが、女帝の時代よりおぼえめでたき子昌の一族だ。
正直、帝にとって目の上のたんこぶの存在だろう。先帝の時代の膿がそのまま残っているのだから。
先の時代に肥え太った輩をどうすべきか、それが頭にいく。
宮廷内で中立派のその男を陣営に引き込んだらどうなるだろうか。
権力という意味ではそれほど大きいものではない。しかし、その印象は大きく違う。
ある意味、理にかなっている。しかし、それ以上に面倒事が多い気がする。
馬閃は、鷹狩りの後の主を思い出す。
強い日光に当てられ、逆上せてしまった主は宴の途中でていってしまった。その後、具合が良くなって戻ってきたと思ったら、出た時以上にひどい顔をしていた。まるで、幽鬼に精気をすべて吸い尽くされたかのような、そんな顔をしていた。
ふらふらと歩くその後ろに、なぜか茸を大事そうに抱えた娘がいた。微妙な顔をしながらも、時折、手の中の茸を眺めては緩んだ顔をする。
一体なにがあったのか、それを聞ける馬閃ではなかった。
ただ言えるのは、主の視線をたどる限り、疲れた原因は娘にあり、その娘を主の傍に置いていていいものかという疑問が浮かぶことである。
このままにしておけない。
馬閃はそう思いながら、阿多が仕分けた書類を片付けるのだった。