二十、熱後編
前回のおさらい
壬氏→猫猫→茸
謎の感触に、猫猫は困惑していた。どくどくどく、と音が聞こえる。もろ肌に押し付けられ、心の臓が間近に動いていた。
(なんだろう、これは?)
しかし、起き上がることのほうが大切だ。身体を立て直すため起き上がろうとし、そのわけのわからないものに体重をかける。早くあの目の前の万年茸を手に入れねばと焦っていた。
「んぐっ!」
うめき声が下から聞こえた。
(いかん)
下には壬氏がいる。猫猫の左手は壬氏に掴まれ、背中にはもう一つの手が回っていた。転びかけた猫猫をかばってくれたようだが。
猫猫は古木に生えた霊草を名残惜しそうに見ると、視線を壬氏へと落とした。
「……壬氏さま?」
壬氏は猫猫から顔を背けていた。そらした顔はなぜか冷や汗をかいている。眉間にしわを寄せ、なにか苦しそうにしていた。
「ほら、また熱がぶり返します」
猫猫が顔を拭こうと手ぬぐいを差し出すと、壬氏は回していた右手を離し、猫猫を制止した。
「いや、それよりも、ちょっとどいてくれないか」
顔を背けたまま、壬氏が猫猫の顔をちらりと見た。
「……さわりがあるんだ、その、その手の位置は」
壬氏の人差し指が猫猫の左手を指す。その左手の下には、壬氏の袴があり、ぐにょんとした感触があった。
(えっと、ぐにょん?)
いや、だんだんぐにょんではなくな――。
猫猫は思わず飛びのいた。目を見開き、横たわった宦官を見る。
いや、宦官といっていいのだろうか。
宦官にあってはならないもの、それがそこにあった。
壬氏は、ふうっと前髪をかき上げながら息を吐いた。そして、猫猫を見る。
「ある意味、手間が省けたということか」
憂いを帯びた美しい天女のような顔。なのに、こやつは天女ではない。微笑みの一つで国を滅ぼすような貌を持ちながら、こやつは女ではない。
そして、男の象徴を捨てた宦官でもなかった。
上着をはいでもろ肌になった上半身。そこに、たるんだ肉はついていない。適度に引き締まった、鍛錬された肉体。たしかに、天女のような顔立ちであるが、その肉体は鍛え抜かれた武人と変わらぬものだった。
本当は宦官ではないのかもしれない、それを頭に入れなかったのが不思議でならない。
いや、本当は無意識にそれに気づかないようにしていたのかもしれない。
「お前に伝えたいことがあると言っただろう」
猫猫は思わず耳をふさぎたくなった。これ以上、聞いてはいけない、猫猫は瞬時に悟った。しかし、耳を塞いではそれがばれてしまう。
後宮内に宦官でない男がいる。それが公になれば、どうなるだろうか。もし、その男が妃に手をだし、帝以外の子種が混じったらどうなるか。
猫猫は半眼になる。
(やめてくれ。そんな面倒事に巻き込むな!)
今まで散々、壬氏に利用されてきた。どれも大なり小なり面倒なことに違いなかったが、これくらいなら、と思わないでもなかった。
しかし、これは別だ。
知ってしまえば、墓まで持って行く必要がある。
(墓まで付き合う気はないぞ!)
というわけで、猫猫は。
「実は俺は――」
「壬氏さま!」
猫猫は壬氏の声を遮るように言った。
「先ほど、着物の下に蛙がいたようですが」
「……蛙」
壬氏の顔が怪訝に歪む。それでもいい、何が何でも押し切ろうと猫猫は思った。
「ええ、蛙です。申し訳ありません、ここはじめじめしたようで」
ぐにょんとした感触は蛙だ、蛙と猫猫は自分に言い聞かせる。近くに沢もある、夏場だし蛙の一匹や二匹いたところでおかしくない。
「いや、蛙では」
「申し訳ありません。私が粗雑なため。壬氏さまは早く熱を冷まして、宴へ戻ったほうがいいでしょう」
猫猫がごく自然に洞穴を出ようとすると、やはり止められた。
壬氏が逆上せた顔のまま、出口を先回りした。猫猫が避けて出ていこうにも、出て行けない。
「壬氏さま、どいていただけませんか?」
「誰が蛙だと?」
ぐぐぐっと顔を近づけてくる壬氏に猫猫は一瞬ひるみそうになる。しかし、ここで負けてはいけない。
猫猫も負けじと壬氏を見る。鼻先二寸ほどの位置まで近づいてみる。
「蛙でなかったら、何なのでしょう?」
あれは蛙、あれは蛙、猫猫は言い聞かせる。左手のぐにょんとした感触は蛙だ。
「蛙にしては、大きかっただろう?」
壬氏がさらに一寸、猫猫に顔を近づける。
「いえ、この季節、そこそこ大きい蛙などたくさんいます」
「そ、そこそこ……」
壬氏がたじろぐ。どこか衝撃を受けた顔だが、猫猫はそこにずいっと顔を近づける。鼻と鼻がくっつきそうな位置で止まり、とどめを刺す。
「ええ、そこそこです! そこそこの蛙でなかったら、そこそこの何ですか?」
本当はそこそこじゃなかったが、ここはそこそこでいい。そこそこで十分だ。
数秒、いや数十秒にらみあったまま、負けたのは壬氏だった。
壬氏は唇をぎざぎざにしたまま、動きを止める。猫猫は、その隙に壬氏の脇を潜り抜けた。
(か、勝った)
猫猫はほっとしながら、右拳にぐっと力を入れる。
何事も知り過ぎることはよくない。分相応に、下女がお似合いな猫猫は、何も知らず生きていくのがいい。何が起ころうと、上司が何をしようと、ただ猫猫は「私は何も知りません」と言うだけだ。
手ぬぐいを濡らしに沢まで行くがその前に、梅の古木の前に座り込む。愛おしい艶やかな傘を持った茸が根元に生えている。
猫猫がうっとりとその姿を見る。
すると、後ろから影がかかった。
「一つ聞くが、お前は蛙など触るのは平気だよな」
疲れた声で壬氏が言った。かろうじて、動いているという感じだ。
「ええ、庶民は食べますから」
鶏肉に似た淡泊な味だ。猫猫もよくさばいていた。
「そうだな、なら触っても平気だよな」
壬氏の顔に、うすら笑いが浮かぶ。
猫猫は思わずぞくっとして、梅の古木に寄りかかる。
壬氏の人差し指が猫猫を指した。
「なら、なんでさっきから左手をぬぐっているんだ?」
ぼろぼろの倒れそうな表情で、壬氏が言った。
「あっ……」
猫猫は、ぐにょっとした感触を忘れるために袴で拭っていた左手をそっと下ろした。無意識にずっと拭っていたらしい。
その行動に壬氏はひどく切ない顔をして見せた。
「なあ、どうしてなんだ?」
満身創痍の壬氏は、最後の力を振り絞った。
その一撃に、猫猫は負けてしまった。
〇●〇
主賓が帰ってきてから、間もなく宴は終了した。
高順はその疲れた様子が気になったが、今の自分はその立場ではないと首を振る。
宦官である『壬氏』の従者である『高順』は、主賓と親しくする理由はない。あくまで、主たる『壬氏』の代わりにやってきたに過ぎない。
出過ぎた真似はしないほうがいい。
そして今の高順には、仕事がある。
今宵の宴は、池に船を浮かべた趣向を凝らしていた。飲んでも飲み干しきれない酒と、美しい女たちを集めたそれは、酒池肉林を元にしているのだろう。
やれやれ、と高順は思う。
曲りなりにも宦官である高順だ。女に現を抜かす気はないし、抜かしたとすれば恐ろしいことになる。息子の馬閃を産んだ女、すなわち妻のことを考えると、指先一つ動かそうとも思わない。
「宦官にとってこれはつまらない趣向だったな」
ただひたすら酒を飲む高順に近づくのは、官の一人だ。同じ船には、自分の子より若い女たちをはべらせている。
「いえ、いい月夜酒ですよ」
高順はそれだけ言うと、空を仰ぐ。半月が美しい。騒がしい男たちの自慢話と、女たちの嬌声がなければそれなりに楽しめただろう。
「それにしても、今宵も参加なされないのですね」
「そのようですね」
誰を指しているのかわかる。
主賓の参加なしで、夜宴はすすめられる。
高順は酒をぽたぽた、水面に落としながら波紋を眺める。早く終わればいいと思う。
「あれでは、帝も心配でしょう」
官は顎髭を指先でつねりながら、ため息をつく。
「あれが東宮となれば」
『あれ』という言葉に、敬いは見られない。
それもそうだろう、ほとんど部屋から出ず、公の場にも出てくるとすれば覆面をつける。そんな皇弟が、政ができるはずないと皆思おう。
今回の鷹狩り、主賓は皇弟だ。
集まった高官たちは、面白半分で集まったことだろう。滅多に表に出ない東宮を見ようと。
一体どんな人物か、それを見定めることが必要だと考えるのは間違いではない。
そして、この官は東宮を無能者と決めたのだろう。
「昨年の、皇子さまの薨御より、誰か身ごもった妃はおらぬものでしょうか?」
本題はこれか、と高順は思う。
誰が身ごもったか、それがどの妃か、産むのは男か女か、それによって宮中の勢力図は大きく変わる。
高順はゆっくり首を振る。
「残念ながら。妃はたくさんいますので、そのうち誰かが身ごもるかと思いますけど」
「そうか、そうなると」
官はちらりと四阿を見る。そこには小太りの官が立っていた。客人が楽しんでいるか、眺めている。宴を開いた当人、子昌だった。
高順は、しばしのごますり相手を見極めた官を見送り、ふうっととっくりの酒を注いだ。
「ちゃんと説明したんでしょうか」
ぼそりとつぶやき、そして、否定するように首を振る。
あの帰ってきたときのやつれようを見たら、無理だと確信した。少なくとも、本題までうつっていないだろうと。
「なにやってるんですか」
高順は月に照らされた屋敷を見る。その最上階で一つだけ、明かりのついた部屋があった。