十九、熱前編
しばし、品のない話が続きそうなので、前の話は少しソフトに書きなおしました。
翌日、壬氏たちは馬に乗って狩場へと向かった。
壬氏は面倒くさそうに覆面をつけ、『香泉』と名乗っていた。
覆面はわからなくもない。壬氏のような容貌の男がうろうろしていたら、それだけで迷惑だ。ここは宮廷じゃない、彼が宦官など知らない者たちばかりだ。
昨夜、壬氏の客室で騒ぎがあった。壬氏の部屋と言っても、寝ていたのは馬閃だ。その馬閃の叫び声が聞こえた。
なにかと思えば、どこからか忍び込んできた女たちに囲まれて、とてもうらやましい、いや地獄を見ていた。あの食前酒を飲んだあと、自制を保ったのはある意味頑張ったと言えるだろう。
夕食にあれだけ盛られるわけだ。高官たちの愛人になりたいという娘はこの屋敷にはたくさんいる。
壬氏が素顔で歩いていたら、どうなったことやら。やたら、窓を閉め切っていたのも、顔を見せぬためだったらしい。
(それなら覆面の理由は理解できる)
でも、偽名はどうか。
などと、考えたところで、猫猫がとやかく突っ込める話でもない。空気が読める女官なら、黙って合わせていればいいだろう。
ということで猫猫は、鷹狩に行った連中のあとを馬車で追う。馬車には、屋敷の使用人たちがおり、薪や鍋といった調理道具がたくさん積まれていた。
捕まえた獲物をその場で調理するという主旨なのだろう。
こうりゃん畑を横目に、四半時ほど馬車に揺られると、森と草原が見えた。
使用人たちは慣れたもので森の前で、てきぱきとたき火の準備をする。使用人の数人が、森に水源があるらしく、瓶を持って水を汲みに行った。
猫猫はなにか手伝おうかと考えたが、周りの官たちの連れは何もしていない。先に到着していた使用人たちがたてた天幕の中で雑談をしている。
(何もしないほうが無難だろうな)
下手に手伝って因縁をつけられることはよくある。
使用人たちとて、その方がいいだろう。
猫猫は空を見る。青い空に一点の黒い粒が見え、それが滑空する。
その繰り返しを数回見ているうちに、猫猫は森へと目がいった。
(森かあ)
なかなかよい森だと猫猫は思う。
雑多な木が生えている。ああいうところには、いい感じに薬草や茸が生えていたりする。
(入っちゃ駄目だろうな)
うずうずする。猫猫はちらりと周りを見る。
周りは誰も気が付かないだろうか、いやはやしかし。
そんな感じで、気が付けば太陽は南中していた。
肉が焼ける香ばしい匂いがする。
天幕の中で、酒杯が振舞われている。焼けた肉を女たちが配る。椅子に座る官たちが十名ほど、卓には他にも菜が用意されている。
天幕とはいえ、風の通り道を作っており、足元には水が張られた桶が置いてあった。大きな団扇を持った使用人たちもいて、夏の狩という暑苦しいものを快適にする努力が見られた。
使用人たちはせっせと料理を運び入れる。
鷹狩で得た獲物だけでは足りないので、別の肉も焼いていた。第一、肉は魚と違い、とれたてが美味しいというものじゃない。
猫猫は高順の後ろに控え、ぼんやりと宴会の光景を眺めていた。高順にも席が与えられていた。
(そういえば)
部屋にいるとき以外、高順はあまり壬氏とともにいないなあと思った。代わりに馬閃がいろいろやっており、猫猫は自然に高順についていた。
並んだ席の上座に、異様な男が座っていた。
顔を覆面で隠し、料理に一切手をつけていない。酒もだ。
後ろには馬閃が気遣わしげに見ている。
(ここでもつけるなんて大変だあ)
猫猫は他人事のように眺める。酒を配る女たちは、ちらちらと覆面の君こと壬氏を見る。
いかに怪しげな覆面をしていようとこの中で一番の上客だ。高官の妾になったほうが、下手なところに嫁ぐよりよっぽど安定していたりする。そういうしたたかな女たちの集まりらしい。
絡むのは女だけではない、隣にいるふくよかな男が壬氏へとささやくように話しかけている。慇懃な話しかけ方だが、少し無礼に聞こえるのは気のせいか。
それを壬氏は小刻みに震えるように頷くしかしない。
(あれが子昌という男か?)
名前は聞いていても顔はよく知らない。席の位置からそう考えて間違いないだろう。
(何話してるんだろうな)
子昌が話すのをやめて、壬氏より顔をはなす。
壬氏の手は震えたままだ。
馬閃の顔色が悪くなる。
(なにか言われたのか?)
いや、と猫猫は高順に耳打ちする。
あれは様子がおかしい、と。
しかし、高順は、軽く首を振り、何もするなというだけだった。
小用と称し、壬氏が席を立った。
高順が猫猫の袖を引っ張る。
「そろそろ代わりなさい」
猫猫は頷くと、天幕の外にいる他の従者を呼んだ。そして、猫猫はふらふらとした足取りの壬氏を追う。
と、その前に。
「これをいただいてよろしいですか?」
猫猫は水が入ったとっくりを持ち、食事を準備していた使用人に聞いた。
「ああ、いいですよ」
忙しそうな使用人は特に見向きもせず行ってしまった。猫猫はとっくりの中に匙で調味料を入れていく。
それを持って、森の中へと入っていった。
森にはいってしばらくしたところで人影を見つけた。
ふらふらした人物は木に寄りかかっていた。
「じ……」
壬氏さま、と言おうとして猫猫は口をおさえる。なぜかここでは、偽名を使っていた。何て名前で呼ばれていたかな、と思いつつ駆け寄る。
「……おまえか?」
かすれた声が、覆面の内側から聞こえた。
「これを外してください」
猫猫が覆面をはぎ取ろうとすると、壬氏はそれを必死でおさえる。
「だめだ」
「だめじゃないでしょう。ここなら誰もいませんし」
「いや、誰か来るかもしれない」
(ああ、面倒くせえ!)
猫猫はふらふらの男の腕を肩に担ぐと、引っ張っていく。
「そんなに人目が気になるなら、見えないところへ行けばいいでしょう」
森の奥へと進む。森は小高い丘のようになっていた。崖が見え、美しい滝があった。ここから水を汲んできたのだろうと猫猫は察し、川に手ぬぐいをつけた。
(あそこなら大丈夫か)
崖の近くに、ちょうど死角になるような洞穴があった。そこへ入ると、猫猫は上から垂れ下がる蔦を帳のようにする。
脇に古木が生えており、幹に傘のようなものをつけていた。
(さるのこしかけか)
あとでとって帰ろうと猫猫は思う。木の肌のような硬い茸で、薬の材料になる。
洞穴には、古い瓶の欠片がたくさん落ちていた。以前、水汲み場の貯蔵庫として利用していたようだが、久しく使われてないようだ。
「ここならいいでしょう」
猫猫は、そこにあったぼろぼろの筵を重ね、濡らしていない別の手ぬぐいを上に敷いた。その上に壬氏をゆっくり寝かせる。
覆面をとると、真っ赤な顔をした麗しき面があらわになる。
「これを飲んでください」
猫猫は持ってきたとっくりを壬氏の口に当てる。一口一口ゆっくりと飲ませて、あとは壬氏の手に渡す。
「それから、失礼します」
「……!?」
猫猫は壬氏の帯をゆるめ、上着をひん剥いた。面食らう壬氏だが、抵抗する気力はない。猫猫はもろ肌を先ほど濡らした手ぬぐいで拭いた。肌全体を湿らせると脇の下に手ぬぐいを挟む。
「おまえは女官だけでなく、男の服までひん剥くのか?」
「好きでひん剥いているわけじゃありません」
ぼんやりしたまま言う壬氏の言葉に、猫猫は口を尖らせて返す。
野郎の服をひん剥いたところで、面白くない。
壬氏の身体は、熱をおびていた。濡らして多少ましになっただろうか。
まだ辛そうだが水を飲んでいくらか顔色がよくなった気がする。猫猫は膝の上に壬氏の頭を置き、とっくりから水を飲みやすいようにする。
「なんか変な味だぞ、これ」
壬氏がちびちびととっくりに口をつけながら言った。
「そういうものです。醤と砂糖を混ぜてますから。塩がわからなかったので、代用品で。身体の水を増やすには、こういう混ぜ物が良いそうです」
猫猫は、覆面で壬氏の顔に風を送りながら言った。
「こんな天気がいい日に、そんなものかぶっていては、太陽に負けてしまいます」
「……仕方ないだろ」
「無駄に顔がお綺麗なことは、大変ですね」
猫猫は呆れながら言った。
それに対し、壬氏は猫猫をじっと見る。
(いかん。怒らせたか)
つい嫌味っぽい口調になってしまった。猫猫は気まずそうにちらりと壬氏を見る。壬氏の顔は怒っていないようだ。
ほっとすると、猫猫は壬氏の脇に挟んだ手ぬぐいをとる。壬氏の頭をゆっくり置いて立ち上がろうとする。
「どこへいく?」
「もう一度、手ぬぐいを濡らしに」
「濡らさなくていい」
そんなこと言われても、と猫猫は思う。壬氏の体温はまだ高く、もう少し冷やしたいところだ。
でも、そんな猫猫を壬氏は離さない。
「話しておきたいことがある」
かすれた、それでいて真剣な声で壬氏が言った。猫猫をじっと見る目は、磨き抜かれた黒曜石のようだ。
猫猫は自然と反発するように視線をずらす。ふと洞穴の外の古木に目がいった。
「そのつもりで、今回連れてきた」
真摯で、でも少し戸惑いがある声。
そんな中、猫猫は自分の鼓動が大きくなるのを感じた。どくどくと心の臓が血を送り、身体中が火照ってくる。
「壬氏さま、放してください」
猫猫は目を細めて壬氏に言った。彼の目を見ず、ただ外を見ている。
「放さない」
「放してください!」
猫猫は壬氏を振り払い、洞穴を出ようとした。右手を大きく伸ばし、その先にあるものを掴もうとしていた。
しかし、掴まれた左手を大きく引っ張られ体勢を崩す。ぐらりとそのまま地面にぶつかりそうになったところで、汗ばんだ胸元に顔を押しやられる。
なにやってるんだろうな、と猫猫は思う。
伸ばした手の先を見る。三尺ほど先に、梅の古木が見える。その根元に、なにやらにょきりと生えている。
傘だけ木の幹に生えている姿は、さるのこしかけのようであるがちと違う。表面に飴を塗ったような光沢がある。さるのこしかけのようにがさがさしていない。
心の臓の鼓動がどんどん大きくなる。
古来より霊薬として書に記された茸、霊芝、または万年茸とよばれるそれがそこにあった。
なのに、伸ばした右手はそれには届かない。
代わりに、壬氏に抱きすくめられ、そして――。
そして、残った左手はなんだかぐにゅっとしたものを掴んでいた。
薬屋が今度は文庫化されます。くわしくは活動報告に書いてあります。
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