十七、子翠
のしかかってきた人物は、きょとんとした顔で猫猫を見た。どこか栗鼠を思わせる顔をしていると猫猫は思った。
「どいてもらえるとうれしいのだけど」
猫猫は言ったが、娘はどこうとしない。猫猫の頭の上に手を置いたまま動こうとしない。
なんだかその表情は気まずそうな顔をしている。
猫猫はなんとなく察しがついた。
「早くどいてくれるとうれしい。頭に虫をつけたままにしたくない」
娘が飛び掛かった瞬間、くしゃっという音がした。
なにがつぶれたかは、お察しだ。
娘は苦笑いを浮かべて、ゆっくりと猫猫の上からどいた。
冷たい井戸の水は頭からかぶると気持ちよかった。気持ちよかったが、気持ち悪さはぬぐえなかった。
娘はびしょぬれの猫猫に手ぬぐいを差し出す。猫猫はありがたく受け取ると、滴を拭きとった。
娘の帯にかけてある虫かごには、焦げた色をした虫が数匹入っている。羽を震わせ、鈴のような音を立てている。
「その虫を捕まえようとしたの?」
「うん」
娘は気まずさとともに、きらきらとした目を猫猫に向けている。
どうやら猫猫が虫の話をしたことが原因らしい。
そうなるとどうすればいいだろうか、と考えていると、娘は猫猫の手をとり井戸の裏側に引っ張った。木陰になっており、ちょうど座りやすい位置に木箱が置いてある。ここに座れと、娘は木箱を叩く。
(……)
とても嫌な予感がした。
そして、それは大体当たる。
「でね、この虫は東方の島国に生息している虫でさ、羽をふるわせて音を鳴らすんだよ」
虫かごを眺めながら、娘は話す。
「たぶん、交易品の中にあったやつが逃げたんだろうね。この国では、ここしか、生息してないと思うよ」
そうなのね、と猫猫はだるそうに相槌を打つ。
「ちょっと色が油虫に似てるけど、違う生き物だからだいじょうぶだよ」
聞かなきゃよかったと、猫猫は思った。もう一度、ごしごし手ぬぐいで頭を拭く。
舌足らずな喋り方をする娘はこういうわけで、間延びした虫談話を四半時してくれた。猫猫はちょいちょい話を折って、退散しようとするが、その度に袖を引っ張られて止められる。
仕方なく話を聞いている。
つい自分の興味があることは話し込みたいのはわかるが、聞いているほうは面倒だと伝えたい。
(薬の話なら、まだいいんだけど)
そういえば、と猫猫は思い出す。
「ねえ、薬には詳しいの?」
無理やり話を変えることにした。たしかこの娘は、医局に薬をとりに行っていた。やぶ医者の話が本当なら調合ができたはずだ。
「えっ、薬? それなりかなあ。覚えておきなさいって、姉さまに仕込まれたから、簡単なことはできるけどさ。前に薬、ここのおっさんから貰ったけど、ひどい出来だったもん。あれなら自分でやったほうがましだわ」
やぶ医者はずいぶんな言われようだ。まあ、仕方ない。本当のことである。
「姉に仕込まれたの?」
それはちょっと気になると猫猫は思った。
皆無ではないが、女の薬師は少ない。興味がわく。
「うん、小さいころにね。簡単な薬しかわからないけどさ」
「後宮にいるの?」
「後宮じゃない、宮で官女やってる」
それは残念と猫猫は思う。
話が途切れたところで、猫猫はようやく立ち上がることが出来た。
「私は、仕事があるから」
「ええ、もう少し話そうよ」
「……、虫以外の話なら考える」
いや冬虫夏草の話ならいけるかもしれない。
濡れた手ぬぐいをそのまま返して帰ろうとすると、娘はにんまりと笑った。
「私、子翠っていうんだけど」
「猫猫」
猫猫はそれだけいうと、翡翠宮に戻ることにした。
子翠は、「またねー」と大きく、手を振っている。
悪い子じゃないと思う、思うのだが。
猫猫は頭を触る。
まだ、ぐしゃっとなった感触が残っていた。
翡翠宮に戻ると、定例の宦官訪問中のようだ。宮の外で、壬氏付の宦官たちが待っていた。宮に入るのは壬氏と高順くらいなので、それ以外の宦官たちは外で待たされる。
(暑い中ご苦労なことで)
宦官たちは、暑そうに団扇であおいでいた。水が外の卓子に置いてあるのを見ると、誰かが差し入れたのだろう。この季節、水分補給を怠ると倒れかねないので、いい判断だと猫猫は思う。
「猫猫」
戻るなり、貴園が猫猫を呼んだ。
「玉葉さまがお呼びよ」
猫猫は急いで、玉葉妃のいる広間に向かった。
大体、こういうときは、何があるか想像できるものだ。
案の定、ゆったりと長椅子に座った宦官が待っていた。
猫猫はそっと会釈をすると、玉葉妃の前に立つ。
「玉葉さま、なにか御用でしょうか?」
「用があるのは、私じゃないのよね」
玉葉妃は、温い果実水を飲んでいた。本当なら、高価な氷を浮かべた果実酒を好むのだが、身重のため避けてもらっている。
暑さを避けるため、隣で紅娘が団扇を扇いでいた。
「用があるのは、私のほうだ」
相変わらずの麗しき顔をした壬氏が言った。
高順も紅娘と同じように、壬氏を団扇で扇いでいた。
本来、こういうのはもっと下の立場のものがやるべきだが、いないところを見ると、いつもの内緒話だろう。
「どのようなご用件で」
「数日、返していただきたいと思いまして」
『返して』というのは、猫猫が壬氏から玉葉妃に貸し出されている形をとっているからだ。玉葉妃の出産が無事終わるまで、猫猫は彼女の元にいる話になっている。
「あらまあ。そのあいだ、毒見はどうするの?」
わざとらしく玉葉妃が言った。
「その点は、ぬかりなく。代わりにうちの侍女を貸しましょう。この娘ほどでないにしろ、毒の類は慣れた人物ですから」
「信頼できるかしら?」
「厳しいお言葉だ」
玉葉妃は意地悪な笑いを浮かべている。
壬氏の侍女といえば、猫猫には一人しか思いつかない。初老の女官、水蓮だ。
確かにあの人なら、猫猫の代わりくらいやってくれそうだ。
しかし、そうなると壬氏の世話は誰がやるのだろうと猫猫は思う。気のいいばあやは、大の大人の坊ちゃんをいつまでも甘やかしている。
「数日というと、どこかへ出かけるのかしら?」
「ええ、鷹狩に誘われまして」
「それはまたまた」
(鷹狩ねえ)
それはまた、上流階級な趣味だ。
「子昌さまの領地へと」
にっこりと笑う壬氏だが、その顔に隙はなかった。
(子昌さまねえ)
たしか、楼蘭妃の父親だという高官だ。
なんとなくきな臭いと思うのは気のせいだろうか。
面倒くさいことに巻き込むなよ、と猫猫は思う。いや、鷹狩なら新鮮な兎でも食べられるかな、とか考えた。
(どうせなら、兎の肉より、兎のついた餅がいいなあ)
月にいる兎は、杵で薬をついている。そんなおとぎ話がある。
「大変ねえ。お付き合いも」
「こちらとていろいろありまして」
「それで、猫猫を借りたいというのね」
「ええ、その娘を返してもらいたいと」
玉葉妃の目がきらりと光った。
「猫猫じゃなくてもいいんじゃないかしら? うちの子は他にもいい子がいるわよ」
「いえ、その娘を返していただけたら、それでいいので」
なんだか壬氏と玉葉妃の間で、火花が散っているのは気のせいだろうか。猫猫はとりあえず、手が疲れてきた紅娘に代わり、団扇を扇ぐ。
「ええっと、どの子を貸せばいいんだったかしら?」
「だから、その娘を返していただくだけで」
玉葉妃は、目を細めくすりと笑う。
「ふふふ、さっきからずっと『その娘』としか言わないのね」
「……それが何か?」
壬氏の顔が、少し歪んだ。
「ねえ、高順。あなたは猫猫のことを何て呼んでいるの?」
玉葉妃が楽しそうに寡黙な従者に聞いた。
「私は小猫と」
寡黙な割に、気安い呼び方をするおいちゃんだ。
玉葉妃が獲物を追い詰める目を壬氏に向ける。
「ねえ、じゃあ貴方は普段、猫猫のことを何て呼んでいるの?」
「……」
壬氏が気まずそうな顔をして、ちらりと猫猫を見た。
(そういや、一度も名前呼ばれたことないなあ)
猫猫は、改めて気が付いた。
(別にどうでもいいことだけど)
それなのに、なぜか壬氏が居心地悪そうにしているのが不思議だった。
そんな猫猫に、紅娘が肘で小突いて何か言いたそうな顔をしていたが、それもよくわからなかった。