十五、杏後編
さてと、どうしようかな、と猫猫は手ぬぐいで顔を拭きながら思った。
白粉がきもちわるかった。赤い紅はなかなか落ちず、香油でかためた髪もあとできれいに洗わないといけない。髪の毛先を細く短く切って編み上げて糊で目元につけた。目元の貧相な妓女が使う裏わざだが、はがれおちてないか心配だった。
普段より長い裳を身に着け、その下に身長を誤魔化すため底の厚い履を履いたのだがいらぬことだったかもしれない。
水晶宮の連中はまったく気づいてくれなかった。
猫猫は不貞腐れながらも、上げ底の履を脱ぐ。
服も違うものへとかえる。先ほど、重病人の看護をした際、服に痰がついてしまったからだ。血がまだ混じっていなかっただけよかった。感染力が低いとはいえ、それで歩き回るのもどうかと思い、着替えを用意してもらった。水晶宮で用意したので、多少機能性に乏しい侍女服だが仕方あるまい。
本当なら風呂まで入りたいところだが仕方ないから諦める。
こざっぱりしたところで、猫猫は皆が待つ部屋へと向かった。
水晶宮の応接間では、曇った面の皆々様が集まっていた。色とりどりの調度にふさわしく豪華な面々だが、化粧を落とした猫猫が入るとなんだか分不相応な気がしてならない。
梨花妃に壬氏に高順、そして、すらりと整った顔立ちの美女がいる。梨花妃にたのんで他の侍女たちには退室してもらった。やぶ医者もこの中に混じりたそうだったが、他に仕事があるのでそちらを優先してもらった。
梨花妃の侍女頭の杏という女だ。梨花妃の従姉妹であり、血筋もやんごとなき人であるがゆえ、誇り高そうな後宮でも目を引く美女である。血縁のためだろうか、梨花妃とどことなく面差しが似ている。
侍女頭というが、身分を考えると、中級妃くらいなってもおかしくない立場だ。
(あえて侍女頭ということかな)
皇帝の寵愛をえる相手はすべて妃だというわけじゃない。皇帝のお眼鏡にかなえば、時に下女ですら国母になることもあるというのが、歴史上皆無ではないのだから。
ならば、美しい花を一か所にためておいた方が、より目を引くのではないか。
上級妃に仕える侍女が御手付きになる。そのとき、侍女の身分が妃になるにふさわしいものであれば、すぐさま位を与えられよう。
(当人たちにとってはどうだろうか)
猫猫には梨花妃の実家の話などわからない。ただ、複雑な感情が当人たちの間では廻るものだろう。それを越えて厚い信頼に包まれていれば、世の中平和だ。
(玉葉妃は恵まれている)
侍女頭の紅娘は、その手のために送られてきた人材ではなく、ただ玉葉妃のために侍女としてあろうとする。おかげで婚期を逃してしまったので、いつか玉葉妃がいい嫁ぎ先を斡旋してくれるといいが。
他の侍女たちも、たしかに皆愛らしく整った顔立ちをしているが、皇帝の寵をえようなどと大それた考えを起こそうとも思わない。
対して、こちら梨花妃の侍女といえば――。
「これはどういうことだろうか」
壬氏が目を細めて、卓子の上を叩いた。そこには、数種類の香油と香辛料が置いてある。
さきほど病人が置かれていた物置から見つかったものだ。その一つ一つなら、目立たないだろうが、数種類混ぜるとなれば匂いが籠もる。
その残り香が、杏という侍女頭の周りに漂っていた。
その侍女は以前まったく香の臭いをさせていなかったというのに。
香の臭いをさせてなかったが故、他の侍女と違い買ったものを取り上げられなかったのだろうか。そうでなくとも上手く隠し通しただろうが。
「……」
杏は黙ったまま、目を瞑っている。
(黙秘ですか)
彼女の罪は、禁止された香油や香辛料を隠し持っていると同時に、それを使って何かを作ろうとしている点にあった。
下女を物置に隔離した点については罪に問えないだろう。
感染を防ぐため大部屋から移動させるのは適切な処置だ。後宮には医官が一人しかおらず、下女を見せるのは本来駄目なのだろう。
(暇すぎて宦官の茶飲み場になってるけど)
診療所につれていくとしても、それを下女が一任できるわけじゃない。女が医療行為を行うことを嫌うものたちもいる。
だが、それゆえに人が死に至るとあれば困ったものだが、仕方ない。
それだけ、下女たちの命は軽い。
壬氏もそれを踏まえて証拠の品を突き付け、問える罪を問おうというのだろう。
しかし、杏という侍女頭は知らぬ存ぜぬの顔をして、立っている。もともとやんごとなき血筋のため、壬氏という宦官が何を言おうが文句を言えるだけの立場なのかもしれない。
そして、不思議なのは、梨花妃だった。
眉を下げて、ただ自分の侍女頭を見ている。憂いを帯びた顔だ。
杏は顔を下げずまっすぐ質問してきた宦官を見た。
(ほうほう、なかなかやりおる)
大抵の女官ならば、壬氏に問い詰められようものならそれだけで、ふらりと倒れてしまうだろう。この女官相手ならば、そんな妖じみた能力も使えないらしい。
「なんのことかわかりません。たしかに、下女をあそこへと移動するように言ったのは私ですが。それよりも、いきなりやってきて梨花さまに会わせろと言った挙句、物置をあさるなんて真似をしたほうが問題ではありませんか?」
きりっとした物言いだった。確かに物置にあったものが、杏のものであるという証拠にはならない。
病人がいる場所ということで皆、食事を運ぶくらいしか接触しなかったそうだが、逆を言えば誰が入ってもおかしくない場所だ。
「では、あの場にいた下女に聞けばよいことだ」
「熱にうなされて朦朧としている下女の言はどこまで信頼できるのですか」
「熱にうなされていることは知っていたんですね」
すかさず猫猫は言った。
杏の顔色が一瞬変わる。
「お優しいのですね。わざわざ端女の容態を見に来ていたなんて」
猫猫はいけしゃあしゃあと付け加える。
「ならば、身体に香油の匂いが残っていてもおかしくありませんね」
猫猫は卓子の上から一本小瓶をとる。
(だめだ、これ以上出過ぎるな)
思っていても、身体は動いていた。不愉快でたまらなかった。
自分の立場云々より、腹の立つことはあるものだ。
「この香油と同じ匂いがします。この瓶は行李の中に丁寧に置かれていたというのに。滲み出すほど強い匂いでしょうか。念のため、確かめさせてもらえませんか?」
猫猫は杏の袖を掴もうとした。しかし、杏はそれを跳ね除ける。その際、爪が猫猫の頬をえぐる。長く伸びた爪だった。
周りがざわめく中、猫猫は親指でえぐれた痕をぬぐう。大した血の量じゃない、薄皮一枚はがれた程度だ。
「申し訳ありません。私程度のものが触れてよいわけありませんでしたね。違うかたに調べてもらいましょう」
淡々と言う中、部屋の視線はすべて杏に集まる。
唇をぎざぎざに歪め、目を血走らせる杏。嫌な汗の匂いが漂ってくる。瞳孔が開いている。
人は緊張すると汗をかく。運動で発汗したものと違いぬめぬめとした汗だ。臭いがきつく、気持ち悪い汗である。
目も同様だ。猫ほどわかりやすい動きはないが、人もまた瞳孔の大きさが変わる。色素の薄い玉葉妃は、その点他のものよりわかりやすいので、他の妃と茶会を開くとき、薄く目を閉じて笑うことが多い。
(もう一息)
猫猫が一歩前にでたときだった。
「その辺で、私に任せていただけないかしら」
気位は高いが高慢じゃない声が聞こえた。
長椅子に座っていた梨花妃が立ち上がった。長い裳を擦りながら、猫猫、いやその先にいる杏の元へと近づく。
(おや?)
梨花妃のきている服は、玉葉妃が最近着ている意匠とよく似ていた。商隊が来た際に購入したものだと考えれば問題ないのだが。
「この者の罪状はどうなるのでしょう?」
「梨花さま……」
杏が言った。その目には、いろんな感情が含まれているようだったが、なぜか乞うような視線は感じられなかった。
「仮に堕胎剤を作ろうとするならば、帝の子を殺すのと同義」
そこまで言えばわかるだろうと、壬氏は目を瞑る。
「そうですか。それはどの妃であってもですか?」
「上級妃も下級妃も同じです」
梨花妃は眼を伏せると、杏を見る。
(そう言えば)
『梨』に『杏』、揃えられたような名前だ。
ふと猫猫は思った。
この杏という侍女頭は、頭が悪いようには思えなかった。ただ、頭はよくても愚かな人間は世の中巨万といる。
その多くは、感情というものに支配されて行う。
猫猫は、杏もまたその一人であると思った。
そして、その結論を出したのは梨花妃だった。
「たとえ狙っていたのが私だけであっても?」
「妃! それは!」
壬氏が身を乗り出した。
高順も目を見開いている。
梨花妃の一言で、納得がいったのは猫猫だった。
ずっとおかしいと思っていた。
梨花妃は妃としての才覚は十分だ。なのに、ろくな侍女が見つからないとずっと思っていた。
そういうわけじゃなかった。
そのような者をかき集めて作られたのがこの水晶宮の侍女集団であり、それを集めていたのがこの杏だった。
以前、毒白粉の事件があったとき、辞めさせられたのは侍女一人だった。でも、その上にいた者はどうだったろうか。のうのうと仕事を続けている。
そして、その侍女頭に対して梨花妃といえば……。
「杏、貴方は一度も私のことを『妃』扱いしてくれなかったわよね。国母にふさわしくないと思っていたんでしょう」
梨花妃の言葉に猫猫は納得する。杏は一度も『妃』と呼ぶことはなかった。
「貴方と私、最後までどちらが妃になるかわからなかったものね」
梨花妃の声は悲しげだ。
梨花妃は杏に対して、情を持っている。しかし、杏といえばどうだろうか。唇を噛み、憎しみの目を梨花妃に向けている。
「……なに上から目線で言っているの?」
蔑んだ声が侍女頭の口から洩れた。
「そういうところ、昔から嫌いなのよ。勉強も私のほうができた。他にもいっぱい、貴方よりも優れているのに、なんで周りは皆」
(胸の大きさが)
そんなことを考えた自分を猫猫は恥じた。杏とてそれなりの大きさである。
「当主の娘だから? 私は貴方よりも下なわけ? そんなわけないわ。ずっとずっと、国の母になるために私は育ってきたのよ」
杏は狼のように八重歯をむき出しにする。いつ飛び掛かってもおかしくないと猫猫はおもい、とっさに梨花妃の前に向かうが、すでに高順と壬氏が間に入っていた。
「それは自白ととらえていいか?」
壬氏の問いかけに対し、杏は卓子にのった香油の瓶を持つと梨花妃へと投げた。高順が手を払い、小瓶が床にぶちまけられる。
「石女として、花園で枯れるがいい」
呪詛のような言葉をかける杏を高順が両手を掴み取り押さえる。
「宦官ごときが触るな! 汚らわしい!」
杏が暴れるが宦官とはいえ男に勝てるものでもない。
やんごとなき口から汚い言葉がどんどん飛び出てくる。
(いるよなあ、こういう人)
猫猫は一通り、言い終えて息継ぎをする杏の前に立つと、にやりと笑った。
「なによ!」
「いえ、なんでも。ただ、杏さまは皇帝をよほどお慕いしているようですね」
「当たり前じゃない! 何を言い出すの!」
「いえ、私はてっきり、国母という立場を愛しているように見えましたので。梨花妃と違って」
猫猫はもう一度、歯をむき出しにして笑った。ぽかんと口を開けたままの杏。
梨花妃にあって、杏にないもの。
それははっきりしていた。
「杏、そんな風に思っていたのね」
梨花妃が目元を震わせながらも凛とした態度で言った。
そして、杏の前に立ち大きく手を振り上げると、そのまま杏の頬を打った。
(まあ、それくらい怒るよな)
猫猫がそんな風に思っていると、梨花妃はこれまた予想外なことを言い出した。
「壬氏殿、私はこの侍女頭を解雇します。主に暴言を吐きました。私が手を出してしまうほどに」
壬氏はぽかんと口を開いている。
「それは妃……」
「平手では足りないということですね」
梨花妃は、頬を打たれて放心している杏の襟をつかみ、今度は拳を作る。
慌てて止めに入る壬氏と高順。猫猫だけは思わず、噴出してしまった。
(やるなあ)
梨花妃は昔の妃ではない。自分の玉の緒がついえるのを待つはかなげな女性ではなくなった。
「この者は解雇します。そして、今後一切、後宮への立ち入りを禁じていただきたい」
凛として言い放つ梨花妃。
叩かれたことで放心したままの杏。
どれだけの温情かこの女はわかっているだろうか。逆恨みはしないだろうか。
(いや、どうでもいいか)
いくらやんごとなき血筋であろうと、醜聞にて後宮から出戻った女が妃に報復などできるわけがない。
猫猫としてはそれでも甘い処置だと思うが、気位だけは高い女がそんな待遇になれば、どれだけ屈辱か、それを考えておこう。
杏はそのまま高順によって、部屋の外へと連れ出される。
何事かと部屋の外には、観客が集まっていたが猫猫が睨むと蜘蛛の子のように散っていった。
(大丈夫かな、この宮)
猫猫がそんなことを考えていると目の前に大きな指先が見えた。
思わず猫猫は半歩下がる。
「なんですか? いきなり」
指先の主は壬氏だった。
「……怪我、手当しろ」
壬氏は不貞腐れた顔をして、手ぬぐいを猫猫に差し出した。
猫猫はようやく頬を引っかかれたことを思い出した。
(たいした傷ではないのに)
壬氏に渡された手ぬぐいは香がたかれた上等のものだった。
猫猫は目を細め、血がつくと勿体ないからと、懐に入れて自分の手ぬぐいで顔を拭いた。普通、返すべきだろうが、壬氏はけちくさくないのでくれたと思っていいだろう。あとで誰かに売ろうと猫猫は考える。
(一応、解決なのかな)
猫猫はそう思いながらも、部屋の窓辺を見る。
大輪の薔薇のような美貌の妃が窓の外を眺めていた。
その先に誰がいたのかは言うまでもない。
「ひとつ聞いていいか?」
「なんでしょう?」
壬氏が水晶宮の回廊を歩きながら言った。視線の先には、下女が閉じ込められていた物置がある。
「いくら水晶宮にいたこともあったからって、すぐに病人がいる場所などわからないだろう。何度も訪れてもおかしくないよう、わざわざ変装までしたというのに」
そうだ、あんな格好をしたのも、水晶宮では猫猫の面がわれているため目立つからとの配慮だった。医官につく女官ということでどちらにしろ注目を浴びることになったが、猫猫の姿でいるよりましだと判断した。
水晶宮の下女たちは口が堅かった。おそらく上の侍女たちにかたく口止めされているのだとわかる。
「すぐ見つかりました」
猫猫としてはいそうな場所はすでに選んでいた。下女たちが眠る場所と少し離れた場所、もしくは目立たない場所に置いてあるのだと思った。
猫猫がいた間、具合の悪い下女は病をうつさないよう寝床をかえるという配慮をなされていたからだ。それ専用の場所も、宮内にあった。
(まさか物置とは)
杏が漂わせる匂いで妙な感じはしていたが、そんなことになっているとは思わない。
あれを見つけたのは偶然である。
「あれです」
猫猫が指す方向に花が植えてある。白粉花だ。植え替えてからまもないのか、下の地面の色が違う。庭師がやったにしては拙い配置だった。物置のすぐそばにある。
黒い実をつけ、中に白粉となる白い粉が詰っている。
「あれがどうした?」
「風水では緑色のものが健康にいいそうです。白と組み合わせるといいと聞いたことがあります」
咲いている花は皆白い。白粉花というが、ほとんどが赤い色をしているはずだ。わざわざ白い花をつけている株だけを選り分けて植え替えたのだと気が付いた。
たしか、水晶宮にはもともとなかったはずだ。後宮のどこかで咲いていたのだろう。
誰が植え替えたのかはわからない。ただ、病人を思ってそんなことをしたのだろう。そのようなものがいる、そう考えると、猫猫はどことなくほっとした。
(それにしても白粉花とは)
病人とともに見つかったものを考えると猫猫は皮肉だなと考える。
大きく息を吐いたが、そこで誰かの視線に気が付いた。
ふと、振り返ってみると、柱に半分身体を隠すようにこちらを見ている。
「どうした?」
壬氏がたちどまった猫猫を見た。
柱に隠れていた者がふらりとなにかにあてられている顔をする。
「壬氏さま、先に行ってください」
「どうしてだ?」
「支障をきたします」
猫猫がはっきりいうと、壬氏はどこかむっとした顔をした。それを、戻ってきた高順が牛でも宥めるようにはなしてくれる。
空気が読めるというのは本当にいいなあと、猫猫は高順に感謝して手を合わせる。
「どうかしましたか?」
猫猫は柱に隠れた娘を見た。猫猫より年上に見えるが、どこかおどおどしている。それは、猫猫に対してなのか、それとも他も同様なのかわからない。
「あっ、あの。あそこにいた子なんですけど」
娘の手には新しい白い花があった。緑色と白、はっきりした色だ。拙い喋り方でおどおどしているが、気立ては悪くない。
「もういません。後宮をでることになりましたが、今よりいい環境で治療を受けることができます」
「……でていっちゃったんですね」
下女は顔を伏せたが、一方でほっとしているようにも思えた。
娘は潤んだ目を誤魔化すように顔を撫でると、猫猫に頭を下げて元の仕事に戻っていった。
娘が去ったあとには、小さな白い花びらだけが落ちていた。