十四、杏前編
ざわざわと周りが騒いでいる。
何事かと思いつつ、宮の玄関口のほうへと歩く。
豪奢な作りの玄関には、すでに女官たちが集まっていた。欄干を拭くのも忘れて、雑巾を持ったまま突っ立っている下女たちもいる。
「今更、何の用かしら?」
眉をよせて女官の一人が言った。視線の先には後宮でただひとりの医官がいた。
珍しい。
あの医官は医局から極力出てこない。この宮に現れるのも、もう一年近くぶりではないだろうか。
無能な名ばかりの医官は、幼い東宮の死のあと、気まずくてこちらにでてこられるわけがないというのに。代わりがいないという理由でお咎めもなくのうのうとこの女の園に居続けている。
そやつが今更、何の用というわけだろう。
医官は仰々しく風呂敷包みを持ち、その後ろに女官を連れている。
痩せた女官で、すらりとしており、楚々とした動きで医官に続いている。しっかり閉じられた唇には、真っ赤な紅をつけ、頬もうっすら桃色に粉を叩いていた。
このような女官はいただろうか。
ふとそんなことを思った。宦官の医官につくとあらば同じく宦官であるのが普通だろうと思ったがそうでもないのだろうか。
いや、後宮には二千の女官がいる。自分の知らない顔のひとつやふたつあったとておかしくなかろう。
誰もが、ひそひそと話す中で仕方ないと前にでることにした。
「なにか御用ですか?」
自分の声に気が付き、おしゃべりをしていた女官たちの動きが止まる。慌てて元の持ち場に戻る下女たちを見逃さない。後宮全体はともかく、この宮に仕えるものたちは把握している。
それが自分、杏の仕事だ。
梨花が妃と決まると、ともに入内し、帝の寵愛を得るためにやってきたのだ。
「賢妃にお会いしたいのだがね」
医官の言葉に、杏は目を細める。この男の口から『賢妃』などという言葉を聞きたくなかった。
「申し訳ありません。梨花さまは貴方にはお会いしたくないと思われますが」
やんわりとしかしはっきりした拒絶の言葉をかけると、貧相な髭をした医官は眉を下げる。すでに男としての機能を持たない宦官らしい、情けない髭だ。麗しい立派な髭を持つ帝とは雲泥の差である。
宦官は困った顔をして後ろを振り返る。能面のような顔をした女官がそっと宦官へと耳打ちをする。
宦官はしぶしぶと懐から何かを取り出した。
「このように書状は貰っている」
羊皮紙に書かれた書状を広げる。そこには流麗な文字で、この医官を中にいれるようにと書かれてあった。最後に記されていた名は、『壬氏』とあった。
あの美しい宦官、といったらこの後宮内で最初に思い浮かべられる人物だ。
女であれば傾国となる美貌の持ち主だが、女ではない。そして、男でもない。
杏も思わずため息を漏らす人物であることは確かだが、他の女官と違いそれ以上の感情はない。
杏は後宮になんのために来たのか、それを考えると宦官などに気をとられている暇などない。
一族のためにも皇帝の寵愛を得ることが大切なのだ。それが、杏と梨花が幼いころより言われてきたことだった。
杏の母は、梨花の父の姉である。梨花と同い年ということから、こうして入内し、今住んでいる水晶宮を束ねる立場にある。
水晶宮の侍女たちは、皆、名家の娘たちで、帝に仕えるにふさわしい血統のものたちだ。
「……わかりました」
杏は腑に落ちないが仕方なく、奥へと案内することにした。他の女官たちに任せることもできたが、医官が後宮を統べる者の命でこちらに来ているとなれば、話は違う。
どういうことだろうか。
医官が妃の宮にくるとすれば、妃の体調が悪いときくらいだ。
そんなそぶりはない。
ずっと梨花の傍にいる杏が気づかないわけがない。今日も体調はよく、朝餉も食べていた。
どういうことだろうか、と首をかしげていると、後ろからついてくる足音が聞こえなくなった。杏が後ろを向くと、医官とその連れが立ち止まっている。
庭の先にある小屋を見ている。梨花の部屋は遠く、宮の一番奥の最上階にある。その途中にある物置小屋の一つだ。
「どうしたのですか?」
「いや、あれは何の小屋かと思いまして」
「別に普通の物置小屋ですが」
早く連れて行きたいのに、なぜこんなことを聞いているのだろうと杏は思う。
水晶宮は、東宮が育つべき場所として大きく改築されている。はなれに湯殿や、物置があったとしてもおかしくない。それに、昨年は奇妙なそばかすの小娘が来て、なにやら変なものを湯殿のとなりに作った。蒸気風呂というが、あまり杏は好まず、たまに梨花が使っている程度だ。
ただの物置だと言っているのに、もう一人の女官はなにやらじっと見ている。なにが面白いのだろうか。窓辺に黄色い花をつける植木があるだけで、特に変わった場所でもないはずだ。
たかが物置だ、さっさと行くべきだろう。
女官は宦官の袖をつまむとこそこそとまた何か話している。
宦官はまた、眉を下げると、杏に言った。
「ここ最近、この庭をいじったりしましたか?」
「いえ、いつも来る庭師に頼んでいるだけですが」
「そうですか」
あれ、と杏は思った。そういえば、あんな庭木があっただろうかと。
いつのまにか庭師が植えたのだろうか。
「……」
宦官が黙ると、また女官が宦官をつつく。
宦官はわかりやすく頬を膨らませるが、女官の表情は変わらず、杏のほうを向いた。
黒い目がじっと杏を見つめる。杏はなんともいえず、そっと目をそらそうとしたが。
「今日は、香をつけていらっしゃいますね」
どこか聞き覚えのある声がした。
その声が、楚々とした女官の口から聞こえる。
にやりと女官が唇をゆがめた。笑みというには随分邪悪な、まるで獣が獲物を見つけたときのような獰猛な笑い方だった。
「……」
「お久しぶりです。杏さま、先日は失礼いたしました」
しっかり塗りたくられた白粉と、きっちり区切られた目の線、そして、やたら長いまつ毛がついた顔が近づく。
派手な装飾に目がいくけれど、その輪郭は丸く幼い形をしていた。
じっと見る三白眼に見覚えがあった。
杏の全身が凍りつく。こいつに関わると大体ろくでもないということが、杏の経験上わかっている。
昨年は、この娘が水晶宮にやってきた。梨花につきっきりになり看病をしていたが、その途中突拍子もないことを何度もやらかしている。
そのせいで、この宮の女官の半分はこの娘に逆らえないようになっている。
杏はそんなことはない残り半分だったが、先日やってきたこの娘にいきなり服をひん剥かれそうになった。
というわけで、あまり相手にしたくない人間であるのだが。
娘がじっと杏を見ている。杏はじりじりと思わず後ろに下がってしまった。
そんなときだった。
いきなり宦官が庭へと飛び出した。小太りの身体をなんとか動かして走る先には、あの物置小屋がある。
杏はそれを追いかけようとしたが、目の前には苦手な小娘がいる。それでもはねのけて宦官を追いかけたが、すでに遅かった。
扉の閂を持ち、唖然とした顔で宦官が突っ立っている。
開いた扉の先には独特の匂いがたちこめている。以前、梨花が放っていた独特の臭い、常世へと向かおうとする病人の臭いだ。
娘は杏がはねのけた際に尻もちをついたのか、臀部を擦っているが、特に焦った顔でもない。ただ、眉間に皺をよせ、宦官が持っていた風呂敷を掴む。
「小父さん! お湯! お湯沸かしてください」
今度は耳打ちせずに言うと、より立ち込めた空気の小屋の中へと入っていく。
そこには筵を重ねただけの粗末な寝床があり、そこに横たわる病人がいた。洗濯女として仕えている下女だ。
「わかったよ。嬢ちゃん」
宦官が顎の肉を揺らしながらまた走っている。
娘は、下女に水らしきものを飲ませながら、杏の方を見る。
「どうしてこんな扱いをしているのですか?」
「どうしたもなにもないわ。病がうつらないように隔離するのは常識でしょう」
娘はなにも言い返さない。言いたいことはあるがなにもいえないだろう。
「でしょうね。でも」
娘は変な咳をする下女の口に手ぬぐいをあてる。それをはなすと赤い模様がついていた。
「これはうつる病気です。感染力は低いけれど、このような処置を続けていたら死に至ります。もちろん、下女の一人死んだところで些細な問題でしょうけど」
娘は病の下女を置き、さらに小屋の奥へと入ろうとする。
杏は思わず、娘の肩をつかんで止めようとするが、娘はするりと抜けて奥へと入る。
やめろ、その奥には。
行李を足に引っかけながら娘を止めようとしたが、もう遅かった。
娘がなにかを手にしている。そこには、小さな小箱があった。
「この部屋に入ったとき、あのときを思い出しました。梨花妃が病でふせていたときのことを」
「それがどうしたの?」
「病人臭い独特の臭いを誤魔化すように香がたかれていました」
それがどうしたというのだ。早くそれを返せと、杏は手を伸ばす。
「ここに入ったとき、同じような気がしました。今度は反対ですけど」
娘は小箱を開ける。そこには色とりどりの小瓶が並んでいた。
「香の匂いを誤魔化すように、病人が置かれていたみたいだと」
かつんと小瓶の蓋をあけ、娘が鼻をひくひくさせる。
「水晶宮の侍女は、本当に隠しものが多いですね。また、可哀そうな宦官が鞭打ちにされてしまう」
娘が開けたのは香油の瓶だ。先日、商隊より手に入れた交易品である。そのほとんどは宦官たちによって回収されたものだ。
「ひとつひとつは小さな毒、それが混ざればどうなることやら」
娘はわらべ歌を歌うように、目を細めて笑った。