八、身請作戦中編
お約束回。
世の中不思議なものである。
猫猫は思う。
なぜ今、自分は正座をしているのだろう。そして、目の前には壬氏が、冷え冷えとした目で猫猫を見ている。
先ほどまで同じ部屋にいた李白は半裸のまますごすごと帰っていった。
ずるいなあと思いつつ、いたらいたでよりややこしかったのでいなかったほうがいいかもしれないとも考える。
「おまえは何をしていたのだ?」
美人は怒ると怖いなあ、と猫猫は思いながら顔を上げる。
壬氏は威圧するように両腕を組み、仁王立ちしていた。その後ろで、高順が無我の境地に至った僧のような顔をして、手を合わせている。
二つの入口の前には、宦官二人が疲れた顔をしながらも、ちらちらと麗しの宦官長どのを見ている。
きっちりしまった扉の向こうには、きっとわさわさと女官たちがでばがめをしていると思われる。出て行くとき、どうしようかな、と猫猫はあとのことを考える。
「何をしていたと言われましても、相談を受けておりました」
翡翠宮ではちゃんと紅娘に報告しておいた。洗濯は午前中にすませたし、今日は茶会の予定はないため、毒見の必要はない。夕餉までに帰ってくれば仕事上問題ないはずだ。
「では、なぜあの男はあんな格好をしていた?」
ああ、そのことか、と猫猫は思う。
確かに、見張りがいる前とはいえ、後宮外の男があんなほとんど裸のような格好をしているのは問題すぎる。
ちゃんとここはしっかりと誤解を解かねば、と猫猫は思った。
「やましいことはありません。何も触れず、ただ、じっくり見ていただけです」
見ていただけを強調して伝える。指一本触れていない。そこはわかってもらいたい。
しかし、壬氏の表情は目を見開き、やや仰け反った姿勢になる。
高順の顔が無我の境地から解脱へと移行している気がする。なぜ、菩薩のような顔で猫猫を見るのだろう。
「じっくり、見ていた、のか?」
「はい、見ていただけです」
「何のために?」
「何のためとは言われましても、相談の結果、実物を見て上手くいくか確かめようと思ったまでです」
白鈴の身請けについて云々考えていたが、猫猫としては、白鈴の気持ちというのも重視したい。恋多き彼女であるが、より好いた男の元へと行くのが好ましいと猫猫は思ったからだ。
だから、彼女の好みを知る猫猫は、どの程度、李白が白鈴の守備範囲に入っているか確かめたかった。いくら猫猫とて、李白が白鈴の好みからかけ離れすぎている場合なら、こうして相談も受けたりしないだろう。そこまで、他人の世話を見るほどお人よしではない。
猫猫はおやじに引き取られるまで、緑青館で育てられていた。そのとき、面倒を見てくれたのは三姫である白鈴、梅梅、女華とやり手婆だ。
白鈴は子を産んだことがないが、母乳が出る特別な体質だったため、猫猫はそれを貰って育った。猫猫が生まれた当時、まだ白鈴は禿を卒業したばかりだったが、肉体は十分成熟していたらしい。
いつも白鈴を『小姐』と言うが、実際は『妈妈』に近い存在だ。ちなみに『大姐』でなく『小姐』なのは、梅梅と女華に怒られるからである。
身請け話は上がっているがおそらくどちらも白鈴の望む生活は得られないだろう。
だからといって、あのままやり手婆のようになってしまうのは猫猫としてはどうかと思う。
妓女だったからという理由で、子を持つのを諦める女は多い。常に避妊薬と堕胎剤に浸かり、その胎に子をなす力がなくなる場合もある。
猫猫は、白鈴がそうなのか、そうではないのかわからない。ただ、幼き頃、あの腕に抱かれて揺らされながら眠る日々を思い出すと、勿体ないと思う。
彼女は色欲の強い女であるが、それと同じくらい母性を持った女である。
李白は妓女である白鈴に惚れている。彼女が妓女であり、自分以外の客にもそんな奉仕をしていることを十分理解している。
多少、駄犬っぽいところはあるが、根は真面目そうだし、女のために出世しようという愛すべき馬鹿なところもある。
こういう性格はけっこう一途なので、簡単に情が冷めることもないだろう。冷めたとしても、別れる際の手回しは猫猫にもできそうだし。
なにより体力は絶倫だ。
猫猫が李白の相談を受けたのもそういう理由があったからだ。もっとも、当初は別の用件をにおわせていたので、それも気になったわけだがどうなったのだろう。
(結局、返されないままだな)
象牙の煙管のことだ。誰も使わないのであれば、質に入れる気でいた。
そういう品定めをしている最中に壬氏はやってきたのだ。
後宮を管理するものとしては、ほいほい女官が外の男と会っているのが気に食わなかったのだろう。変なところで仕事熱心だ。
「う、うまくいくだと!?」
「はい、見た目は人間の一要素にすぎませんが、あるにこしたことはないでしょう」
李白の身体つきはほぼ合格だった。最後に、一番大切な部分を確認して、今後、どう白鈴に訴えかけようか考えていた。
猫猫は身請け金を銀一万と言ったが、やりかた次第では半分まで落とせる。それは、白鈴が李白をどう思っているのかにもよる。
「見た目は大事か?」
壬氏がようやく仁王立ちをやめて椅子に座った。まだいらいらは続いており、履で床をかつかつ叩いている。
「それ相応に」
壬氏が言うと、なんだかもやっとくるな、と猫猫は思った。
「お前がそういうのは意外だな。それで、あの男の見た目は、どうだったのだ?」
質問ばっかりだな、と猫猫は思う。しかし、すべて答えなくてはならないのが、下っ端のつらいところだ。
「実に均整のとれた肉体でした。基礎の鍛錬がしっかりしており、上下の筋肉に無駄がありませんでした。毎日、訓練を欠かさない真面目なかただと見受けられ、武官の中でもかなり腕がたつほうではないかと思われます」
猫猫の発言に、壬氏は少し目を丸くした。猫猫の口にしたことが意外だったととれる顔だ。そして、ものすごく不機嫌な顔つきになる。
「お前は他人の身体つきで、どんな人間かわかるのか?」
「おおよそ。生活習慣は身体に如実に現れますゆえ」
自分のことを語らぬ客に薬を渡す際、それを見極めるのは大切なことだ。薬屋をやっているうちに、嫌でも取得できるようになる。
「私の身体を見ても、同じようにわかるか?」
「……はっ?」
猫猫は思わず間抜けな声を上げてしまった。
壬氏の顔を見ると、少し不貞腐れた顔をしている気がしないでもない。
(もしかして)
この男は、李白に嫉妬しているのではないかと思った。
先ほど、さらに不機嫌な表情に変わったのもそれが理由だろう。猫猫が、手放しに李白の肉体美を誉めてしまったからだ。
(なんという男だ)
猫猫はため息をつきたくなった。
(自分のほうがきれいだと誇示したいなんて)
壬氏の顔は美しい、それはもう、女であれば国をどんどん転覆させるだけの美貌だし、男であっても不可能でない気がする。
十分すぎておつりが足りないくらいの美しい顔を持ちながら、今度は身体まで自慢しようというのか。
(別にしてもいい、してもいいよ)
ちらりと見たことがある壬氏の身体は意外なほど引き締まっていた。まじまじと見ないまでも、美しい身体つきをしていることはわかる。
でも、それを見たところで何になろうか。李白よりも整った肉体であれば、こちらを白鈴にすすめろとでも言いたいのか。いや、白鈴の話は、壬氏にしただろうか、などと考える。
壬氏は卓子に肘をつき、やや唇を尖らせたまま、じっと猫猫を見ている。
その後ろでは、見張りの宦官がびくびくしながらも、壬氏の怒り顔にうっとりしていた。
高順は、涅槃図のような穏やかな様相で猫猫を見ている。
壬氏には悪いが、ここははっきり言っておこう。白鈴が身体の要素で一番大切に考えている部分は、壬氏にはないのだから。
いくら、他の部分が優れていてもそれがなければ意味がないのだから。
「壬氏さまの身体を見たところで、何の意味もありません」
恐る恐る猫猫は言った。
一気に凍りつく周りの空気。
高順は涅槃図から一転、蜘蛛の糸が切れた罪人のような顔をしている。
「残念ながら壬氏さまは、私の小姐とは合わないと思いますので」
「はっ?」
間抜けな声が、壬氏の口から聞こえた。
高順は、壁に頭を突っ伏していた。