四、精油
商隊が滞在したのは三日ほど、そのあいだ女官たちは普段できない買物を楽しんだ。
上級妃はわざわざ表に出る必要がないので、最初に中級妃、下級妃にその侍女たち、それから役職を持った女官たちと天幕を周り、各々好きなものを購入する。
位の低い女官は最終日に売れ残りを眺める程度だが、それでも楽しそうに見えるのだから、この場所の娯楽がどれだけ少ないかわかる。
今回やってきた商隊は、砂漠の道を渡ってきた者たちで異国の物珍しい品をたくさん持ってきていた。玉葉妃の故郷も通過していたようで、翡翠宮の侍女たちが、懐かしそうに工芸品を触っていたのを見ている。
猫猫はそんなものより、薬の類を見たかったが、さすがにそれらが直接後宮内に入り込むのは駄目なようで、せいぜい茶葉や香辛料がおまけ程度に売られていた。
玉葉妃から多少小遣いをもらったので、三日目に猫猫は小蘭とともに回った。
小蘭は手持ちがなく見ているだけだったが、それでも目を輝かせながら、西方の硝子細工を眺めていた。
猫猫は綺麗な色の髪紐を一本買うと、こそっと小蘭の頭に結んでやった。
ふと鏡を見て気が付いた小蘭にいきなり抱き着かれて倒れそうになった。
猫猫は茶葉と香辛料を買った。翡翠宮の女官たちは、二日目に交代で回っていたが、猫猫は三日目でいいと遠慮していた。
その理由がこれである。
(三日目なら値引いて売られるだろ)
猫猫が欲しがるのは、流行の服でも宝石でもない。服のおまけ程度の茶葉や香辛料なので皆がこぞって買うようなものでもない。それに元々、後宮という特殊な場所だ、適正価格で品物を売るとは思えない。
(簡単にぼったくれるとは思うなよ)
これが猫猫という生き物である。
というわけでそれなりに珍しい茶葉と香辛料をお得に手に入れた猫猫であった。
茶葉は茉莉花茶で、花の蕾に茶葉を染み込ませた工芸茶だった。売れ残ったためだろうか、ずいぶん安い値段で売ってくれた。
得したな、と思っていた猫猫だったが、その後、とあることに気づくのだった。浮かれては駄目だ、と後から反省することになる。
商隊が去ってからの後宮内の流行は、香油だった。
さまざまな花の匂いが、通りがかるたびに漂ってくる。その単品ではとてもいい香りでも不特定多数が、さまざまな種類の香りをつけているとなれば、鼻のいい猫猫は少しげんなりした。
香を焚きしめるような微かな香りではなく、西方の輸入品は実に香りが強いのが特徴だ。
それは猫猫だけじゃないようで、洗濯場に行くと、香油まみれの衣がかさなっており、洗濯係の宦官が顔をしかめて盥に水をはっていた。
流行とはいつもどどっと押し寄せるものだ。
爪紅の流行はだいぶ下火になったため、新しいものに皆飛びついたのだろう。
そして、本当にそれがいいものかわからず、とりあえず流行っているからやってみようという人間も多い。
それが楽しいのならそれでいいが、いつも乗れずに終わる猫猫にとって、あまり好ましくないものだといっておこう。
猫猫はげんなりしながら、洗濯籠を下ろす。この場にいるだけで匂いに酔ってしまいそうだ。
気だるげに突っ立っていると、邪魔だったらしく洗濯物を籠一杯持った下女がぶつかってきた。猫猫は洗濯物を被る羽目になった。
「ごめんなさい!」
まだ甲高い声の下女が服をどける。
この服の持ち主はこれまた流行に敏感なかたのようで、たっぷりと薔薇の匂いが染みついていた。
(薔薇かあ)
先日作った薔薇水を今売りさばけば儲かるかもしれないなどと考えた猫猫は駄目だろうか。
実は先日、作るだけ作った薔薇水だが、使わず保存していたりする。薔薇の精油は、妊婦に悪い影響を与えると聞いたことがあるためだ。
玉葉妃が大量につけなければ問題ないと思うが、それでも何がおこるかわからないので、注意する必要がある。
なわけで、悪くならないうちに、花街でさばく機会を狙っていたのだけれど。
むむっ、と猫猫は洗濯物をつまみながら目をぱちぱちさせた。
くんくんと鼻をきかせて、洗濯物を嗅ぐ。
それを見た下女があわあわと慌てている。
猫猫はそんな下女を無視して、洗濯物をこぼれた籠に投げ捨てると、別の洗濯籠に顔を突っ込んだ。
今度は、下女だけでなく近くにいた宦官、他の下女たちも目を丸くしているが知ったことではない。
猫猫は次々と洗濯籠に顔を突っ込んでは、次の籠へと向かう行為を繰り返した。
そしてあらかた嗅ぎ終わると洗濯籠を持って帰るのを忘れてとある場所へと向かった。
流行、それにもっとも流されやすい場所はどこか、猫猫はよくわかっている。
その日、水晶宮で侍女たちの悲鳴が後宮中に響き渡った。
おそらく来るだろうと思っていたが、案の定、その日の夜、麗しき宦官は翡翠宮にやってきた。
その手には、投書らしき抗議文を手に持って。
「おまえはもう少し節度がある人間だと思っていた」
壬氏の呆れた顔にはやや怒りも混じっている。
その後ろでは、呆れ顔に苦労をにじませた高順に、困りながらもわくわくが止まらない玉葉妃、修羅の表情をなんとか面の皮一枚で誤魔化している紅娘がいる。鈴麗公主はおねむのため、他の侍女たちが添い寝している。
(うむ、その通りだ)
猫猫は思った。でも遅かった。
推定を確信に変えるためには、たくさんの実証が必要である。そのために、ちょうどよかったのが、水晶宮であり、猫猫はつい好奇心に負けてしまったといえる。
「すみません。つい興奮して相手の了承も得ずにやってしまいました」
「なんだその変態親爺の言い訳は」
真正の変態に言われたくないな、と猫猫は思いながらとりあえず頭を伏せて反省したふりをする。
「今度はちゃんと了解をとって嗅ぎます」
「なぜ嗅ぐ!」
口調が荒い、「あらら」と玉葉妃が目をぱちぱちさせている。
いかん、と壬氏は思ったらしく、少しつりあがった目をいつもの柔らかい表情に戻す。
とりあえず猫猫は反省している。
反省しているのは、相手に了承せずに無理やり匂いを嗅いだ点についてだ。ちょっと興奮して、半分剥ぎ取りかかった点も反省しなくてはならない。その相手に、水晶宮の侍女たちを選んだところもだ。
おかげで今までの鬼か妖怪扱いから、さらに格上された気がする。
それでも確かめなくてはならないと猫猫は思ってやった。
(反省はこのくらいか)
猫猫は顔を上げ、じっと壬氏を見る。抗議のおかげで壬氏が早速やってきたことを朗報と思わねばならない。
猫猫は、迅速な判断が必要だと思った。
「これでも理由があるんです」
壬氏をじっと見つめたまま、数秒が経った。
壬氏は、無表情のまま、口を動かす。
「それ相応の理由なのか」
「言うまでもなく」
猫猫ははっきりと言い切った。