十八、爸爸(14.06.28改)
(すごく疲れた)
やはり慣れぬ者の相手をするのは疲れると、猫猫は改めて思った。
あの泥酔した狐目の男を仮眠室へと送り届けて、ふらふらと帰る途中である。
壬氏と高順は別の用があるため、途中違う官とともに行くことになった。この間、鱠の件で一緒に来てもらった官だ。
名前を馬閃というらしい。すでに何回かあっているがようやく覚えた。
この男は無愛想だが仕事はしっかりしているので楽である。相手が話す気がなければ、猫猫も無理やり話を合わせる必要がないからだ。
やはり相容れない、どうしても受け付けないものがあると猫猫は思う。
改めてあの男に会って猫猫は思った。
たとえ相手に悪気というものがなくとも。
ふらふらと歩いていると、猫猫は華やかな一団を目にした。大きな傘を女官に持たせ、一団の中心にいるのは艶やかな衣装を着た楼蘭妃だった。
「……」
隣で舌打ちが聞こえたと思ったら、馬閃が半眼でその集団を見つめていた。なにやら、不愉快な様子だ。
どうしたものかと見ていると、その向こうにふっくらとした官が立っていた。両脇に副官らしき男を率い、その後ろにさらに数人ついてきている。その中に、なんだか見覚えのある顔があった。
(あれは?)
官女が二人混じっている。その一人は、以前、猫猫に言いがかりをつけてきた群れの一人だった。特に自分から口出しをせず、後ろに控えていた背の高い官女だ。
猫猫の視線は一瞬そちらにいったが、特に気にする必要もなかろう。官女として宮廷にいるのであれば、どこぞの派閥に属していてもおかしくない。
楼蘭はふっくらとした男を見ると、団扇で口元を押さえながら親しそうに話しだした。
周りに侍女たちがいるのに、あんなに親しげに話していていいものかと思ったが、
「腹黒親子め」
とどす黒いつぶやきが聞こえてきたため、なるほどと猫猫は納得した。あれが後宮にごりおしした楼蘭妃の父親かと。
噂によれば先帝からの重臣で、実力主義の今の皇帝から見ると目の上のたんこぶだと聞いたことがある。
それにしてもと猫猫は馬閃を見る。
たしかに、聞こえる場所に猫猫しかいないとはいえ、高官の悪口を口にするのはやめてくれよ、と思う。もし、誰かが聞いていれば、猫猫との会話の中でそんな言葉がとんだと思われかねない。
(まだまだ青いなあ)
猫猫は自分とそう変わらない齢の青年を見て思うのだった。
(それにしても)
なんだかやっぱり誰かに似ていると思った。
今夜は後宮に戻らず、壬氏の棟に行くことになった。
「てっきり恨んでるものかと思ってたが」
先に帰ってきた壬氏が待っていた。
「なにがですか」
猫猫は水蓮が用意した粥をすすっている。食べながらしゃべるのは行儀が悪いが、水晶宮で失った栄養を取り戻すほうが先決だった。しばし見ぬ間にやせ細った猫猫を見て、水蓮は粥だけでなく次々と料理を作っている。
ここもまた、翡翠宮と同じで侍女が仕事に制限をかけない。
壬氏は腕を組みながら恐る恐る口を開く。
「ら……」
「言わないで下さい!!」
やっぱり嫌っているじゃないかと、壬氏が不機嫌な顔をする。
恨むと嫌うとでは似ているようでけっこう違うのだ、と猫猫は思う。
「恨んじゃいません。こちらとしては、上手く当ててくれたおかげでここにいますので」
「当……」
他に言い方はないのかと、壬氏が呆れた顔で見る。
(そんなこと言われても)
本当のことなので仕方がない。
「なにを想像したか知りませんが、妓女の合意がなければ子は孕みません」
妓女は皆、避妊薬または堕胎剤を飲み続けている。たとえ、それでできたとしても、初期であれば流す方法はいくらでもある。
生むというのは、その意思を持っていたからだ。
「むしろ謀られたほうなのではないですか」
女は血の流れの周期を読めば、できやすい日時などある程度予測がつく。
妓女ならば訪問を、文で都合の良い日時にかえてもらえばすむことだ。
「軍師殿をか?」
壬氏が水蓮が持ってきた点心をつまみながら言った。
「女とは狡猾な生き物です」
なので、狙いが外れたときは我を忘れたことだろう。
自分を傷つけることすらいとわないほどに、それだけでなく――。
先日、見た夢。
あれは本当にあったことだった。
自分のものだけでは飽き足らず、赤子の小指を添えて文を送った。
妓楼では猫猫に猫猫を産んだ妓女の話をすることはない。やり手婆が口止めしていることくらいわかっている。
でも、そんなもの周りの雰囲気とちょっとした好奇心から洩れていくものだ。
緑青館が潰れかけた原因、それが猫猫であると。
碁と将棋の好きな変わり者が父であると。
「壬氏さま、あの男に執務室以外で話しかけられたことはないですよね?」
壬氏は首を傾げた。
「そういえばないような」
壬氏は回廊ですれ違う時は、いつもあっさり頭を下げられるだけだったと言った。いつも執拗に話しかけられるのは執務室に居座られているときだけだったと。
「ひとの顔がわからないという人間がたまにいます。あの男はそれなんです」
猫猫はおやじから聞いた話を口にする。猫猫はそんなものがあるのか、と正直半信半疑だが、あの男がそれだと言われたらわかったような気がした。
「わからないのか?」
「ええ。どういうわけか。だから、顔以外の部分で、誰なのか認識しているそうです」
おやじがしんみりとした顔で言っていた。あいつも可哀そうな奴だと。
それでも、おやじもおやじなりに考えることがあって、やり手婆があの男を箒で殴って追い出すのを止めたりしない。
「なぜか、私と義父だけはしっかりわかるみたいで、あのおかしな執着もそこに起因しているみたいです」
ある日突然現れた、奇妙な男はいきなり自分を連れ出そうとした。
やり手婆が現れて、箒で殴られ、血だらけになった姿は幼心に恐怖を覚えたものだった。
血まみれの顔でにへらにへらと笑いながらふるふると手を伸ばされたりすれば、誰だって怖がるものである。
それから何度も現れては、予想外のことを行って、血まみれで帰っていくので、段々、大抵のことには驚かない性格になってしまった。
自分を父だと言い張るが、猫猫にとって父はおやじどのであって、あの変人は父ではない。役割から考えると、せいぜい種馬がいいところだ。
おやじである羅門を押しのけ、自分が父親になろうとする。
それはありえない、どうしても譲れない点である。
妓楼の皆は、迷惑を被り、猫猫を生んだ女は死んだのだが、猫猫には関係ない。
あの男だけの責任ではないのだから。
なにより、自分に死んだ女の記憶はない。あってもそれは、母親としての記憶じゃない。恐ろしい鬼婆の記憶だ。
嫌いであっても、恨んでいない。
それが猫猫の持つ、羅漢への感情だった。
苦手なものはあっても嫌いという感情はなかったので、多少、度の過ぎた対応をとりがちになったが。
猫猫は左手を上げると、自分の小指の先を見た。
「壬氏さま、知っていますか?」
「なにがだ?」
「指の先って切っても、伸びてくるのですよ。先だけなら」
「……、食事中に言うことか」
珍しく壬氏が半眼で見てくる。いつもと立場が逆である。
「では、もうひとつ」
「なんだ?」
「あの片眼鏡に『爸爸って呼んで』と言われたら、どう思いますか?」
壬氏は一瞬止まって、珍しく不快な顔を全面に出した。「あらあら」と水蓮が口に手を当ててそれを見る。
「眼鏡かち割りたくなるな」
「でしょう」
壬氏は猫猫の言いたいことがわかったらしく、親父って大変なのかとつぶやいた。
隣に控える高順は、なぜか哀愁を漂わせていた。
なにかあったのだろうか。
「どうしたのですか?」
猫猫が聞くと、高順は天井をあおる。
「いえ、世の中には好きで嫌われる父親なんていないと思ってください」
しみじみ言った。
(はてはて)
とりあえず、猫猫は匙を口に運び、残った粥を片付けることにした。