十七、鳳仙花と片喰(14.06.28改)
古い記憶がよみがえる。
無数の白黒の光景のなかで、そこだけは淡い赤色に染まっていた。他人のそれよりも、もっと見えづらい自分の視界の中で、そこだけは鮮やかに輝いていた。
碁石を持つ、駒を持つ指先に赤く染まった爪が映える。
無駄のない、流れに迷いのないその筋に、誰もが両手を上げる。それをつまらなそうに眺める尊大な女、それが鳳仙という妓女だった。
付き合いで妓楼に向かうことはあったが、正直どうでもよかった。酒は飲めぬし、二胡も演舞も興味はわかない。いくらきれいに着飾ろうと、自分には白塗りの碁石にしか見えなかった。
昔からそうである。
人間の顔というものの区別がつかない。それでもましになったほうだ。
母と乳母を間違えるどころか、男女の区別もつかなかった。
父はこれでは役に立たぬと、若い妾のもとに通うようになった。
母は自分の顔の区別もつかぬ子どもにかまわず、愛人に走った夫をどうにかして取り戻そうか画策していた。
そんなわけで、名家の長子に生まれながらも、奔放に生きてこれたのは幸運だった。
手習いでおぼえた碁と将棋にのめりこみ、噂話に耳を傾け、ときにちょっとした悪戯も行った。
宮廷に青い薔薇を咲かせたのも、叔父貴の話を聞いてから試してみた。
要領は悪いが優秀な叔父だけは、自分を理解してくれた。
顔ではなく、声や素振り、体格でひとを覚えろといわれた。身近な人間は、将棋の駒に当てはめるとわかりやすかった。そのうち興味のわかない人間は碁石に、少しずつ親しくなった人間は将棋の駒に顔が見えるようになっていった。
叔父が竜王駒に見えたとき、やはり優秀な男なのだと再確認できた。
そんな叔父が西へと留学すると聞いたときどんなに寂しかったことかわからないだろう。それだけ、自分の周りに理解者は少なかった。
遊びの延長である碁や将棋で、自分の才を発揮するとは思わなかった。
家柄のおかげで、武の才はないのにいきなり長をまかされたのが幸運である。自分が弱くとも、部下を無駄なく使えばおつりはくる。ひとが駒となる将棋となれば、なにより面白い遊戯に違いなかった。
遊戯にも仕事にも無敗記録が続く中、底意地の悪い同僚にすすめられ、噂の妓女と対決することになる。妓楼で負けなしの鳳仙と、軍部で負けなしの自分。
どちらが負けても観客は面白いことであろう。
所詮は井の中の蛙。
そんなことを考えていた自分をぶった切るかのように、鳳仙は自分を負かした。白石を持ったとはいえ、後攻であったとはいえその陣地の差は圧倒であった。優雅な爪紅をつけた指は、見事、相手の鼻っ柱をたたきつぶしたのである。
負けたのはいつ以来だったろうか、くやしさよりもその容赦ない切り口にすがすがしささえ覚える。自分が侮っていたのが、気に食わなかったのだろう。一言も語らず、仕草すら素っ気ない様子からわかる。
思わず腹をかかえて笑ってしまった。その様子に周りはおかしくなったと騒ぎ出した。
涙目まじりに、容赦ない妓女の顔を見ると、いつもの白い碁石でなく、不機嫌そうな女の顔があった。名前のとおり、鳳仙花のような、触れたらはじけそうな、人を寄せ付けない眼をしていた。
ひととはこういう顔をしているものか。
当たり前のことを初めて認識できた瞬間であった。
鳳仙は隣に控える禿に耳打ちをする。女童はぱたぱたと将棋盤を持ってきた。
初顔見せには声も聞かせない、高慢な妓女は無言で次の勝負を持ちかけていた。
次は負くるまい。
袖を上げ、盤上に駒を並べた。
ひたすら碁と将棋を繰り返す、それだけの逢瀬が何年続いただろう。
しかし、その頻度はだんだんと減っていった。
才能ある妓女は、ある程度人気者となると売り惜しみが行われる。
鳳仙もまた、そのひとりであった。
頭は良いがきつすぎる対応が万人向けではないものの、一部の好事家に受けているらしい。
まったく物好きがいるものである。
値も吊り上り、三月に一度会うのがやっとだった。
久しぶりに妓楼に行くと、あいかわらず無愛想な面のまま、爪紅を塗っていた。
赤い鳳仙花の花と小さな草が盆の上に置かれていた。
これはなんだとたずねると「ねこあしです」と答えられた。生薬にも使われ、解毒やむしさされに効くらしい。
おもしろいことに、鳳仙花とおなじく、成熟した実に触ると種がはじけ飛ぶらしい。
今度ためしにさわってみようと、黄色い花をつまんでみると、
「次はいつ来られますか?」
と、鳳仙がいった。
珍しい、定型どおりの販促の文しか送らなかった女が。
「また、三月後に」
「わかりました」
鳳仙は爪紅を禿に片付けさせると、将棋の駒を並べ始めた。
鳳仙の身請けの話を聞いたのはその頃だった。
妓女の価値がどうこういうより、ただ、競り合う相手が気に食わないと値をつり上げているらしかった。
武官として出世したものの、異母弟に跡継ぎの立場を奪われた自分には、到底太刀打ちできる額ではない。
どうしたらよいか。
ふと、悪いことが頭によぎったが、それは即座に打ち消した。
やってはならぬことだった。
三月ぶりの妓楼では、囲碁と将棋、二つの盤を並べた前で、鳳仙が座っていた。
開口一番言った言葉。
「たまには賭けをしませぬか?」
貴方が勝てたら、好きなものを与えましょうと。
私が勝てたら、好きなものをいただきましょうと。
「お好きな盤を選んでください」
将棋に分があるのは自分である。
しかし、座ったのは碁盤の前であった。
鳳仙は試合に集中したいからと、女童たちを下がらせた。
その後、どちらが勝ちとはわからぬまま、気が付けば手が重なっていた。
鳳仙から甘い言葉も何もなかった。自分もそんながらではなくある意味、似た者同士だろう。
ただ、鳳仙は腕の中で「碁がやりたい」とつぶやいた。
自分とて将棋をやりたいと思っていた。
不運だったのはその後のことだろうか。
仲の良かった叔父が失脚した。あいかわらず要領の悪い人だった。
父は面汚しだと罵った。
家にまで害は及ばなかったものの、叔父の影響を受けた自分が疎ましかったらしく、遊説を命じ、しばらく帰ってくるなと言われた。
無視してもよかったが、あとあと面倒になるだろう。
武官である父は、親であると同時に上司でもあった。
半年ほどで戻るからと、妓楼に文を送るのがやっとのことで。
身請け話は破談になったと、文を受けたあとだった。
しばらくは大丈夫だとたかをくくっていた。
まさか、戻るのに三年もかかるなど思いもしなかった。
家に戻ると埃かぶった自室には、無造作に置かれた文の山があった。
結びつけられた枝は枯れ果て、歳月を感じさせた。
その中の一通、なぜか開かれたあとのあるそれに目をやる。見慣れた定型文がそこにあった。しかし、その文の隅には赤黒いしみのようなものが付いている。
そばにあった口の半分開いた巾着をのぞく。それにも赤黒いしみがついている。
開くと、汚れた紙に包まれた、小枝か土くれかよくわからないものが二つあった。片方はとても小さく、つまむと潰してしまいそうになる。
小枝の先になにかついているのを確認すると、ようやくそれが何なのか理解できた。
自分の手に十もついているそれだと、気が付くのには遅すぎた。
ゆびきり、そんな呪いが流行っていると聞いていた。
二本の小枝を包み直し、巾着にいれて懐にしまうと、早馬を飛ばして花街に向かった。
以前より明らかに廃れた馴染みの妓楼には、碁石にしか見えないものしかいなかった。あの鳳仙花のような女はおらず、箒で自分を叩くものがやり手婆だと声でわかった。
鳳仙は死んでいた。
大店二つに見限られ、店の名を落とし、信用が地の底に落ちた妓女は、夜鷹のごとく客をとるしか道はなかった。
少し考えればわかること、だが、碁と将棋しか頭にない自分にはたどり着かない答えだった。
ただ地面に這いつくばり、人目をはばからず号泣したところで、時は戻らない。
何もかも、短絡的だった自分が悪かったのだ。
まだずきずきする頭を抱え、羅漢は寝台より身を起こす。
見覚えのある簡素な部屋、たまにさぼりに使う軍部の仮眠室である。
あまり勢いよく娘が飲むものだから、それほど強い酒ではないと思っていたのに。
羅漢に酒の種類はわからない。
一口飲み干すだけで、喉が焼けるような熱さだった。
傍に水差しがあるので、器につがず口につける。
口の中にえぐい苦味が広がって、思わず吐き出してしまった。
二日酔いの薬だろうが、やり方に悪意を感じる。
水差しのそばには桐箱があった。
昔、悪戯の戦利品として、文をつけて届けたものだ。
枯らせてもこうやって形を保つことができるとは知らなかった。
片喰、ねこあしのような娘を思い出す。
あのあと、緑青館の門戸を何度もたたき、そのたびにやり手婆に折檻を受けた。
赤子などいない、早く帰れと箒で殴られる。本当に恐ろしい婆である。
側頭部から血を流し、けだるげに座り込んでいると、隣でなにかをむしっている子どもがいる。
建物の脇に生える草は、黄色い花をつけた見覚えのあるものだった。
子どもに何をしていると聞いてみると、薬にすると答えられた。
碁石のように見えるはずの顔が、なぜか無愛想な子どもの顔に見えた。
子どもは草を両手につかんだまま、走っていく。走った先には、よたよたと老人のような歩き方をするものがいる。普段なら碁石に見えるその顔が、将棋の駒に見えた。しかも、歩や桂馬ではなく、大駒、竜王駒がそこにいた。
ひとつだけ開かれていた文、汚れた巾着をあけたのは誰だったのかわかった。
後宮追放のあと、消息不明となっていた叔父、羅門がそこにいた。
そのあとをひよこのようについていく、ねこあしを持った子どもは『猫猫』と呼ばれていた。
羅漢は懐から汚れた巾着を取り出す。常に持ち歩いていたためだいぶくたびれている。
中には、小枝のようなものが二つ、紙にくるまっているはずだ。
猫猫の駒をうつ手はたどたどしかった。将棋になれていないのも理由にあるだろうが、もうひとつわかるのは左手でうっていたことだ。
赤く染められた爪を見ると、小指だけが歪んでいた。
恨まれても仕方がない。
それだけのことをした。
それでも、そばに置きたかった。
碁石と将棋の駒に囲まれただけの生活はもう嫌だった。
そのために、力をつけた。父から家督を奪い、異母弟を排斥し、甥御を養子にひきいれた。
やり手婆に何度も交渉し、十年たって賠償の二倍相当の金を払い終えた。
今では三姫と呼ばれるようになった禿たちと叔父貴には、猫猫の意思を尊重しろといわれた。
残念なことに、ひとの感情を読み取るということに長けていない羅漢は、ことごとく裏目に出る行動を起こし続けた。
羅漢は、巾着を懐に戻す。
今回は諦めよう、今回は。
粘着質といわれようと、諦めるわけにはいかない。
それに、なにより、娘の隣にいた男が気に食わない。
近づきすぎではないだろうか、試合中、三回も娘の肩に手をかけおって。そのたびに、はねのけられたのはいい気味だったが。
さて腹いせに何をしようか。
羅漢は水差しを手に取り、えぐい薬を飲み干しながら考える。
たとえ、どんなにまずくとも、娘のお手製には違いない。
しばらくは、花につく虫を落とすため、それだけを考えよう。