十五、青薔薇後編(14.06.28改)
春の園遊会は、春牡丹の中行われる。
例年ならば、もう少し早く行われるのだが、毎度寒さに敵わぬものが続出する中このようになった。もっと早くそうすればいいものの慣例を変えることは難しい。
庭園には、赤い毛氈が敷かれ、長机と椅子が並べられている。
楽団が今か今かと、楽器の手入れを行っている。
慌ただしく女官たちが、用意に不備はないのか確認し、若い武官たちがまだ薄い髭をなでながらそれを楽しそうに見ていた。
背後の目隠しに幕が引かれ、裏で誰かが騒いでいた。
げっそりと痩せた小柄な女官が、大きな花瓶を抱えている。
そこに生けられたるは、季節にはまだ早い、色とりどりの薔薇だった。
「本当にできたのか」
壬氏は、まだつぼみの開ききらぬ花を眺める。色は、赤、黄、白、桃、青、それどころか黒や紫、緑色まで生けてある。青い薔薇を作ると言っていたが、まさかこんな華やかになるとは誰が思うだろうか。
一体どういうことだ、と壬氏は目をしぱしぱさせる。
「やはり、難しいですね。開花には至りませんでした」
心底、残念そうに猫猫は言った。
これは、壬氏に対するすまなさというより、自分の思い通りにできないふがいなさがたった言葉であろう。そういう性格の娘だと壬氏にはわかっている、わかっているがなんだか腹立たしい。
実に腹立たしい。
「いや、十分だ」
壬氏は薔薇を一本取った。茎から滴がぽたりと落ちる。
「ん?」
壬氏はなにか違和感を持ったが、今はどうでもいいかと薔薇を花瓶へと戻す。
それにしても青い薔薇といったのに、ずいぶんとにぎやかに盛ったものだ。
壬氏は、過労で倒れそうな娘を翡翠宮の侍女に任せて、花瓶を宴席の上座に飾る。
つぼみのままの花々は、絢爛たる牡丹の花から注目を奪うには十分だったらしい。
遠巻きに皆、驚いている。
できるわけないだろうと鼻で笑っていた高官たちがざわざわと騒ぎ出した。
壬氏は帝の覚えがめでたい宦官だ。その容姿は自分でいうのも難であるが、大抵のものは息をのむことをわかっている。それでも、敵がいないわけではない。
宦官の若造ごときがでしゃばっているさまを好むほど、無欲な官ばかりではない。
壬氏は天女の微笑みを絶やさぬまま、艶やかに笑いながら、背筋を伸ばし、檀上へと向かう。美髯をたくわえた帝が美しき妃たちに囲まれる座をめざす。
壬氏に集まる視線はいろんな思惑を秘めている。色情ならまだよい、いくらでも利用法がある。嫉妬、それもまたよい、扱いやすい。どんな感情であれ、何を思っているのかわかればいくらでも対処できる。
一番困るのは。
壬氏は帝の左側に控える官を見る。ふっくらとした頬、何を考えているのかわからない目。
苦手だといえばそうかもしれない。
この男にとって自分とは、ただの若造であり宦官の一人という認識のはずだ。
じっと見ているようで虚空をながめているような。
そんなよくわからない曖昧な笑み。
現在、後宮にいる妃の一人、楼蘭の実父、子昌である。先帝、いやその母親である女帝の寵愛を受け、今もなお皇帝は頭が上がらない。
悪い意味で。
壬氏はそれでも笑みを絶やさず……。
絶やさないはずだった。
子昌から視線を左にずらす、すなわち帝の右側に坐する男と目があった。
狐のような目をした片眼鏡の男が、場の空気を読まずもごもごと手羽先肉を食らっていた。それでも当人は隠しているつもりだろうか、一口かじっては袖の中に隠し、またかじっては隠している。
今現在、一番厄介な人物はこいつだ、羅漢だ。
それだけならまだいいものの、羅漢は隣に立っている高官の頭をじっと見て、なにを思ったのか冠をそっとつまんだ。
冠の下になぜか黒い毛の塊がついている。羅漢はわざとらしく驚いて見せた。むき出しの官の頭頂が見える、向かい合っていた高官が三人ほど撃沈した。
残酷なことをするものだ。
よくできた鬘だったというのに。
まるで子どものようなその動きに苦笑するもの、呆れるもの、噴出しそうになるのを一生懸命こらえるもの。
表情を崩すのは壬氏だけではなかった。
しかし、壬氏はそこで大笑いでもするわけにもいかず、表情が崩れそうになるところをなんとかこらえて緋毛氈の上で跪いた。
色とりどりの薔薇を皇帝へと掲げると、皇帝は美髯を撫でながら満足した顔で頷いた。
壬氏は大きく息を吐きだしたいのを我慢しながら、後ろへと下がる。
羅漢はわざとらしく薔薇の花瓶をのぞき込みながら、今度は干し葡萄をつまんでいた。
なぜ、こいつが無礼にならないのだろうと、壬氏は思わずにいられなかった。
○●○
「あなた、もう水晶宮にいっちゃだめよ」
宴席より少し離れた東屋にて、桜花が猫猫をひざまくらしている。
桜花は、猫猫が心配でずっとついていてくれたのだ。
懐妊がほぼ確定した玉葉妃は、今回の宴席を見合わせた。表向きは、淑妃こと楼蘭妃のお披露目として席を譲った形となる。
なぜ、桜花が心配するほど猫猫が痩せこけたのかには、原因がある。
どうにも、猫猫は水晶宮にいくと過労になるらしい。
ここひと月あまり、猫猫は再び水晶宮に通っていた。
水晶宮の侍女たちにはあいかわらず物の怪を見る目であつかわれたが気にしない。
それでも、猫猫は青薔薇を作るためにここに来る必要があった。その手はずは壬氏に頼んで了解ずみだ。
壬氏にあらかじめ頼んでおいた場所、それは水晶宮の蒸気風呂だった。
以前、猫猫が梨花妃の治療のため突貫工事で作らせたものである。
梨花妃はあいかわらず高貴なかただが、二つ返事で許可してくれたという。けっこう太っ腹なところがあるのは知っていたので打診したのだったが。
猫猫はただで使うのは悪いと思い、
「これは、主上の愛読書です」
と、先日新たに妓楼から取り寄せた書を渡しておいた。皇帝から違うものをと言われたためである。
梨花妃は中身に気が付くと、優雅な足取りで自室に戻って行った。
猫猫は冷めた目で、侍女たちはこそこそ話をしながらその後ろ姿を見送ったことを覚えている。
まさか、あんなものが高貴なかたへの袖の下になるとは、誰も思うまい。
館の主人のご機嫌を得たところで、蒸気風呂の蒸気が流れ込むように庭に小屋を作る。窓が大きい、天井にも大窓がついた奇妙なつくりの小屋である。湯水のように金がかかるがそれは壬氏の懐から出て行くので気にしない。それにしてもどれだけ高給取りなのだろう。
そこに運ぶのは薔薇の鉢。ひとつふたつではなく、何十、いや百をこえるほど持ち込んだ。
蒸気で温められた空気のなかで、薔薇を育てる。できるだけ日光に当てるようにし、天気の良い日は外に出した。
いまだ霜が降りるような寒い日は、焼石に水をかけ、徹夜で小屋を温め続けた。
猫猫が何をしたかったのかと言えば、それは薔薇を狂わせたかったのである。花は季節に合わせて咲くが、たまにどうしたわけか違う季節に咲くこともある。
つまり猫猫は、狂い咲きをおこしたかったのだ。
なので、すべての鉢がつぼみを付けるとは思わず、大量に用意した。花の種類も、できるだけ早咲きのものを選び、かつ種類はばらけるようにした。
期間がひと月あまりと短く、できる確証はなかったが、つぼみができたのをみたときはどんなに喜んだことか。
なにより、花の色をつけるより、花のつぼみをつけることのほうがよっぽど苦労したのだ。
壬氏から宦官を数人よこしてもらったが、温度調節など微妙なものは猫猫が行わないといけない。間違って、薔薇をすべて枯らしてしまったらおしまいである。
時折、物珍しそうにか、怖いものみたさにか、水晶宮の女官がうろつくので、鬱陶しいからと他の事に目をやるようにした。
なにをすればいいかと、指先を見つめ思いついた。
紅を爪に塗り、布で丁寧に撫でる。
花街では当たり前の爪紅だが、後宮内ではあまりみない。仕事の上で邪魔なのだろうが、普段からあまり仕事をしていない侍女たちは興味津々で食いついてきた。
わざと見せつけるようにのぞかせると、侍女たちは自室に自分の紅を探しに行った。
(これは都合がいい)
少しだけ悪いことを考え、梨花妃にも爪紅をすすめてみた。
後宮には流行がある。そしてその流行最先端となると、大抵、寵愛を受けた妃たちである。
たとえ下女でも、皇帝の御手付きになれば、妃に召し上げられる。ならば、皇帝の気に入った女の真似をするのは不思議ではない。
今現在、後宮の中で一番洒落者を選ぶとしたらおそらく楼蘭妃だろうが、あれだけ頻繁に移り変わるとなると流行の元になれるわけがない。
毒見のために翡翠宮に戻った際、玉葉妃や侍女たちにも爪紅を見せてみる。紅娘は、非効率だといったが、残りはみな興味深そうだった。
(鳳仙花と片喰があればな)
爪紅の異名をとる鳳仙花と、ねこあしの異名をとる片喰を潰して練り合わせて爪につける。片喰が鳳仙花の赤の発色をよくするのだ。
爪紅が後宮内の女官たちに流行るころ、薔薇のつぼみは膨らみ、どれもが白い花びらをのぞかせていた。
猫猫が選んだ薔薇は、すべて白い薔薇だった。
「あれは一体どうしたんだ?」
薔薇をお披露目したあと、壬氏が帰ってきて言った。眉間にしわを寄せている。
後ろに控える高順も興味深そうに見ていた。
桜花は壬氏たちがもう大丈夫だといったので帰っていった。表向き、猫猫は玉葉妃付の侍女だが、雇用形態は壬氏付のままである。
「染めただけですよ」
「染めた? そんなことはない。花びらにはなにもついていなかったぞ」
指で花びらに触れる真似をして壬氏が言った。
「外側ではありません。内側から染めたのです」
猫猫は薔薇を一本引き抜いた。
そして、その切り口に指を当てる。青い薔薇の茎には、青い液体がついていた。
白い薔薇を色のついた水につけ放置した。
ただ、それだけだ。
茎から水ごと色素が吸い上げられ、白い花びらを染め上げる。
だから、薔薇が吸い上げる水ならばどんな色でも問題なかった。
ただ、葉の色はどす黒く汚くなるため、花瓶に生ける際、白い花以外すべてむしっておいた。
同じ花瓶にすべて生けたように見える薔薇だが、そのひとつひとつの茎の根元は、色つきの濡れた綿で包まれ、油紙で固定していた。それを提出する間際まで外さずにしておいたのだ。
実に単純な話である。
方法が方法だけに、なにかしら言いがかりをつけてくる連中がでるかもしれない。その対処法として、前夜、翡翠宮をおとずれた皇帝に種明かしをしておいた。誰もが、一番最初に秘密を教えてもらえるのはうれしいことらしく、何か言われても意気揚々と説明をかってくれるだろう。
どうやら壬氏は皇帝の話を聞く前に退出したようだ。
「つまり、以前青い薔薇を見たというのは、毎日毎日、青い色水を薔薇に吸わせる暇人がいたんですよ」
猫猫は薔薇園がある方向を見ながら言った。
「なんでまた、そんなことを」
「さあ、女を口説く道具でも欲しかったのではないでしょうか」
猫猫はそっけなくいうと、胸元から細長い桐箱をとりだす。冬虫夏草の箱に似ているが、中身は別物だ。秘蔵本を持ってくる際についでにとってきたものだ。
「珍しいな」
壬氏が覗き込んでくる。
「爪を染めているのか?」
「ええ、似合いませんけどね」
薬と毒と水仕事で荒れた手は、左の小指の爪が奇妙な形に歪んでいた。赤く染めても、歪さは変わらない。
これでもまともになったほうである。
じろじろと面白そうに見てくるので、またいつもの水面に浮かんだ魚を見るような目を向けてしまった。
(いかん、いかん)
猫猫は頭を振る。これくらいで気にしていたら、このあとがもたない。
まだ仕事は残っている。
「高順さま。頼んでいたものは」
「ええ、言われた通りに」
「ありがとうございます」
舞台は設置してもらった。
あとは、いけ好かないやつに一泡吹かせるだけだった。