十二、高順(14.06.26改)
壬氏は、湯あみを終えゆっくりと酒杯をあおっていた。
ぱちぱちと炭の音が響くと思ったら、外はいつのまにか雪化粧にかわっていた。冷えるわけだ。
長椅子にかけられた上着を羽織ると、かちゃんかちゃんと音がする。
音は玄関から響くようにこの棟は設計されている。その音で、大体誰が入ってくるかわかるようになっている。
案の定、眉間のしわが元に戻らない従者がやってきた。
「無事、送り届けました」
「いつも悪いな」
高順には、遅くなったときに猫猫の見送りを頼んでいる。前からたまにそうしていたが、あの変人に見つかるようなことがあればただではすまないと今更ながら思った。高順はその点、壬氏の顔色を読んでか黙って仕事をこなしてくれる。
乳離れせぬうちから教育係としてついてきた男だ。一時期、別の仕事をやっていて離れていたこともあるが、最も壬氏のことを理解している一人である。
「明日は後宮だな」
「はい」
高順には、猫猫を送り届けたあと、医局に向かい、調合したあるものを取りに行ってもらった。苦味の多い奇妙な液体である。見ているだけで吐き気がすると、毎度ながら思う。
その薬を銀食器に二つに分け、まず高順が口にする。本来、猫猫が率先してやりたがる仕事だと思うが彼女では意味がなかった。高順が眉のしわを深めながら飲み干して、しばらく待つ。
「問題ないかと。いつもと同じです」
「わかった」
壬氏は器をとり、鼻をつまみながら一気に飲み干した。口の端についた液体を手の甲で拭い、水蓮が持ってきた湯冷ましを貰う。
もう五年飲み続けているが、やはりなれそうにない。
「鼻をつまむのは、人前ではやらないほうがよろしいかと」
「わかっている」
「その所作だけで随分若く見えますので」
「わかっている」
壬氏はぶすくれたまま長椅子に座る。
声色、喋り方、歩き方、動き、もろもろ。そのすべて気をつけなくてはいけない。
壬氏という宦官は、齢二十四の男だ。
まっすぐ姿勢を正し、宦官壬氏の顔をしようとするが。
それでも、薬の苦さが後を引き、つい顔がゆるんでしまう。また、高順が顔をしかめる。
「いやなら飲まなくてもよろしいのに」
「一応のけじめだろ」
現帝の後宮になり、五年。壬氏が歪な仮面をかぶり続けて五年。
こうして男でなくす薬を飲み続ける。
下級妃以下は好きなようにしろ、と皇帝の言葉をもらっているのにもかかわらず。
「そのうち、本当に不能になりますよ」
高順の言葉に、口直しに果実酒を飲んでいた壬氏が噴き出した。口をおさえ、恨みがましそうに高順を見た。
たまには、これくらい言わせてもらうと言わんばかりに、高順が見ている。
「おまえだって同じだろ」
「いえ、先月、孫が生まれたそうです」
高順の子はもう成人している。今更、作る必要もないと言いたいらしい。
「いくつだったか? おまえ」
「数え三十七ですけど」
たしか、十六で妻を娶って翌年から三人続けて子がいると聞いている。
「いや、息子のほうだ。この間いただろ」
先日、海藻による中毒事件のときだ。あのとき猫猫を役人の家へと連れて行った青年、あれはたしか高順の末子だったはずだ。
「たしか、十八です。貴方さまと同じく」
高順は『壬氏』という名前を使わない、そこが要点だ。『壬氏』は二十四歳、五年前に宦官となった男のはずだ。
「そいつの子か?」
「いえ、一番上の娘です。そろそろ妻帯してもいい年齢なのですが」
高順の子は皆、出来がいい。嫁に行った娘もたしか一年ほど宮廷で侍女をしていた。
なんだか壬氏に対しても物言いたげな様子だ。
壬氏は何食わぬ顔で、足を組み直す。
「はやく孫を抱かせてください」
「努力する」
高順は水蓮から、温かい茶を差し出されると口にした。
壬氏はちらちらと恨みがましい従者の視線を無視して、果実酒を飲み干した。
壬氏の定例である四夫人のもとへの訪問は、今回もとどこおりなく終えた。
新しく入った楼蘭妃は、特に後宮に不慣れな様子もなく生活しているようだ。
ある意味力押しで入ってきた妃ゆえ、なにかと騒動が起きないか心配していたが、玉葉妃も梨花妃もいちいち突っかかるほど短絡な性格ではない。以前、二人がいざこざを起こしたこともあったが、あれは特別でそれ以来は当たらず触らずの関係を築いている。
里樹妃にいたっては、あの性格から自分から喧嘩を売るような真似はできないだろう。もし、侍女が妃をせっつく真似をしたらわからないが、その点は注意しておこう。
しかし、新しい妃の宮、かつて元妃阿多が住んでいた宮に入ると改めて寂しくなった。
かつてさっぱりと整えられた無駄なものがない宮は、絢爛の調度に囲まれた華やかな場所へと変わっていた。
楼蘭妃の父親は、先の皇帝、いや正しくは先の皇太后に気に入られた人物であり、かつて後宮女官を三千人まで増やした官であった。
今のところ一番覚えがめでたいのは玉葉妃、次いで梨花妃。皇帝という立場になると好きな妃のところだけ通えばいいというわけじゃない。
後宮には宮廷内の権力調整を保つ機能もあれば壊す機能もある。
下手に楼蘭妃を扱うわけにもいかず、十日に一度は通うようにしているらしい。
そうなると戦々恐々とするのは、他の妃たちだろう。自分たちへの通いのほうが多いとはいえ、子はできるときはでき、できないときはできないものだ。
ただ、相性というものはあり、皇帝はさほど楼蘭妃には食指が動かないことがうかがえた。
理由はわからなくもない、と楼蘭妃を見て壬氏も思っている。
猫猫による謎の授業のとき、楼蘭妃は南国の鳥の羽根を簪にした不思議な衣装を着ていた。
猫猫は不思議そうにその格好を見ていたが、わからなくもない。
楼蘭妃は、あるときは南国の衣装に身を包み、あるときは北方の異民族の服を着る。少年のように胡服を着るかと思いきや、腰を締め上げた西方の衣装を身に着けもする。髪型も化粧も毎度かえる。
ある意味、洒落者であり、ある意味、落ち着きがない。元々、整っているが特徴のない顔立ちなので、その反動でこうなったと噂で聞いたがどうなのだろうか。
皇帝は毎度訪れるたびに、妃が誰なのかわからず混乱するという。なのであまり乗り気になれないと言っていた。
壬氏としても、同じ感想である。だが、女官たちの中には、そんな楼蘭妃のことを新しい流行として見ているものがいるらしく、よくわからないと首をかしげてしまう。
皇帝なりの指針として、十六になるまで手をださないとあるので、あと一年、里樹妃は安泰である。今の帝は父たる先帝の嗜好について、吐き気を催すほど否定しているためだろう。
皇太后の腹には、大きな傷跡がある。それは、皇太后がまだ少女だった頃、小さすぎる身体で現帝を産んだためだ。帝王切開と呼ばれるそれは母体を見捨ててでも子を産ませるために使う手術だという。
それを、当時皇太后だった帝の祖母が命じた。当時、その女は女帝と呼ばれていた。今でもそう呼ばれる。それだけ権力を振るっていたのだった。誰も逆らえない。
そして、いくら後宮を広げて女官を増やしても、一向に子が生まれぬため苦肉の策だったといえる。
もちろん、先帝が月の物もこない少女にしか手を出さないようでは生まれるわけもない。女帝はその原因が自分であるとわかっていなかったらしい。
今の皇太后が一命をとりとめた理由は幸運だったという他ない。たまたま、西方より留学から帰ってきた医官がおり、たまたま、その男が宦官になったという。たまたまというのに策略を感じなくもないが、そのように伝わっている。女帝がいうのだからそのとおりだろう。
その男の施術はすばらしいものであり、傷痕は残るものの、子宮は無事でその十数年後皇太后はもう一人子を産んでいる。先帝の子はあとにも先にも、その二人だけである。
ただ、以前の出産もあってかその医官は当時妃だった皇太后につきっきりになった。同時期に出産の重なった東宮妃はないがしろにされ、結果、残念なことになってしまった。
壬氏は思わずにいられないだろう。もし、今、現帝の最初の子が生きていれば、と。
くだらぬ妄想をしてはいけないと首を振る。
そして、こう思う。さっさとこさえてしまえばいいのに。次の東宮を。
壬氏も高順も同じ気持ちを持っている。
例の妃教育のあと、皇帝の足の運びはずいぶん増えたのだが、結果がでるのはまだ先だろうとおもったが、案外早く出るかもしれない。
心配そうに玉葉妃の侍女頭である紅娘があることを打ち明けた。
昨日も翡翠宮に皇帝が訪れたらしく、玉葉妃はけだるげにしていた。心配そうに紅娘が世話をやく。ぬばたまの黒髪が乱れていた。なにかしら苦労の多そうなこの侍女頭と高順は時折、共感を持っているようだ。紅娘としては高順に対してまんざらでもないようだが、恐妻家の高順相手なのでそのうち諦めてもらうしかなかろう。
ちょうどいいと、壬氏はある提案をする。
玉葉妃は目を輝かせ二つ返事でうなずいてくれた。
紅娘もやれやれといった顔をするが、むしろ歓迎した顔である。部屋の外で聞き耳を立てている侍女三人娘にその話をする。
どうやら選択は間違いではないらしい。
○●○
「後宮ですか」
「ああ。おまえの大好きな仕事だ」
猫猫は銀食器を鏡のように磨き上げていた。
曇りひとつないのを確認すると、もとの棚に戻す。
ながら作業で話を聞くのは失礼なことであろうから、さっさとものを片付ける。
それくらいのけじめはつけたい。
壬氏は蜜柑を食べている。皮くらい自分でむけばよいのに、水蓮にひとつずつきれいに薄皮を取ってもらい、皿にきれいに並べてもらっていた。
まさに坊ちゃまである。
初老の女官は、この宦官を甘やかす傾向にあるらしい。寒いからと綿入れを着せたり、熱いからと茶をぬるめたり。
大の大人が恥ずかしい。
「玉葉妃の月の道が途絶えているらしい」
(妊娠の可能性ね)
鈴麗公主懐妊時に、妃は二度毒殺未遂にあっている。
心中おだやかでないはずだ。
「いつからでしょうか」
「今日からでも行けるか」
「むしろ都合がよいです」
後宮内は男子禁制、名前も聞きたくないあれと顔を合わせることはないだろう。
壬氏が気をきかせてくれたのかもしれないし、都合がよいとしたのかもしれない。
猫猫には、どちらでもよいことだ。
つとめて冷静に動いていたつもりだが、
「あら、いいことあったの?」
と、水蓮が話しかけてきたので、浮足立っていたようである。
もうしばらく後宮勤めになるようだ。