十一、価値(14.06.25改)
昨夜、猫猫は変な夢を見た。
昔の夢、いや、昔あったとされる夢。
覚えているはずもない、それが本当なのかもわからない出来事。
大人の女が上から猫猫を見下ろす。ざんばらの髪とやつれた頬、ぎらぎらと飢えた目で睨み付ける。化粧がはげ、紅が唇からはみ出している。
女が手を伸ばす、猫猫の左手が掴まれる。ちいさなちいさなえくぼの見える椛のような手だ。
女の右手には刃物が握られていた。猫猫の手を持つ左手には赤く濡れたさらしが何重にも巻きつけられている。ひらひらと舞うさらし、なんだかさび臭い。
猫の鳴き声のような声が声帯から洩れる、自分の泣き声だと理解する。
布団に左手を押し付けられ、女は大きく右手を振り上げる。歪んだ唇は震え、赤くはれた目は涙をためていた。
(馬鹿な女だ)
女はそのまま小刀を振り下ろした。
「あらあら眠いの? おねむの時間はもう少し待ってね」
あくびをする猫猫に水蓮が言った。
丁寧な口調だが、このばあやはなかなかしたたかなので、猫猫は姿勢を正し、銀食器をしっかり磨く。
「そんなことありません」
ちょっと変な夢を見たせいだ。少し睡眠が足りず、夕方になってから眠気が襲ってきた。
どうしてだろうか。
(昨日、あんな話をするからだ)
壬氏が昨日言っていた人物、それが猫猫の記憶に突き刺さったのだろう。
(不愉快だ、忘れよう)
まさか当人ではあるまいと猫猫はふうっと息を吐く。
からんと皿を重ね、棚に戻すとかつかつと足音が聞こえてきた。部屋にはもう蜜蝋が灯っている。主人の帰る時間である。
ここ最近、疲れた顔をしている壬氏が居間を通り過ぎ、厨房までやってくる。水蓮は、猫猫が綺麗に拭いた皿に菜を盛りつけている。
「変人からの土産だ。水蓮と飲んでくれ」
壬氏が徳利を卓の上に置く。
猫猫が栓を開けると、甘酸っぱい柑橘の匂いがした。果実水だろうか。
「変人からですか」
猫猫は、なんの感慨もわかない声で答える。
壬氏は居間に入ると長椅子に寝そべる。猫猫は火鉢に炭を足す。
高順は、底を尽きかけた炭をみると部屋を出て行った。とりにいってくれるのだろう、さすがまめ男である。
壬氏がぶっきらぼうに頭を掻きながら猫猫をみた。
「緑青館のなじみとかくわしいのか?」
いきなりそんな質問をされ、猫猫は首を傾ける。
「派手に立ち回るひとであれば」
「どんな奴がいる?」
「守秘義務ですので」
壬氏はそっけない答えに眉をひそめる。
質問の仕方を間違っていることに気づいたらしく、違う言葉で言い換えた。
「では、妓女の価値を下げるにはどうすればいい」
「不愉快なことを聞きますね」
猫猫は軽くため息をつく。
「いくらでもありますよ。特に上位の妓女ならば」
最高級の妓女になると、仕事の数も月に数回と少ないものだ。売れっ子が常に客を取っているわけでない。むしろ、客を毎日とらねばならぬのは、夜鷹といったその日の銭にあえぐものたちである。
上位の妓女ほど、露出を好まない。露出をひかえることで、客は皆、勝手に価値を上げてくる。
詩歌や踊り、楽を学び、その教養にて客をとるのだ。
緑青館では禿時代に一通りの教育を済ませる。そのなかで、容貌の悪くない、見込のあるものと、そうでないものに分ける。
後者は、顔見世が終わるとすぐ客をとるようになる。芸ではなく身を売るのだ。
見込みのあるものは、茶飲みから始まり、より顧客をつかむ話術の長けたもの、才知の長けたものはどんどん値をつり上げられる。そこで、わざと人気妓女の露出を減らすことで、茶飲みだけで一年の銀が尽く売れっ子妓女が出来上がるのだ。
なので、身請けまで客に一度も手を付けられない妓女もいる。まあ、男の浪漫というもので、花を最初に手折るのは自分でいたいと思うのだ。
「手つかずの花だからこそ、価値があるのです」
猫猫は鎮静効果のある香を焚く。ここ最近疲れている壬氏のために焚いている。
「手折れば、それだけで価値は半減します。さらに」
猫猫は小さく息を吐いて、鎮静香を吸い込んだ。
「子を孕せれば、価値などないに等しくなります」
なんの感慨もなく言ってのけたはずだ。
○●○
どういうことだろうか、と壬氏は深く息を吐きながら、書類に判を押す。
「失礼するよ」
扉を叩く音とともに、にやにやとした狐のような御仁は、昨日の言のとおりに現れた。
ご丁寧に柔らかい座布団付の長椅子を部下に持ってこさせていた。
一体、どれくらい居座るつもりなのだ。
「昨日の話の続きをしましょうか?」
羅漢は持参の徳利から果実水を手酌で注ぐ。
茶菓子まで持ち込んで、書類だらけの机の上に、乳酪香る焼き菓子が置かれた。直に置くのはやめていただきたい、書につく油の跡を見て高順が頭を抱える。
「本当に、随分あくどい事をなされたようですね」
壬氏は、書類に判を押しながらいった。書類の中身は頭に入らなかったが、後ろに控える高順が何も言わないので問題ないだろう。
猫猫の答えから、このずる賢い狂人が何をやったか想像がついた。
そして、もうひとつあまり歓迎できない憶測が頭に浮かんだ。
理解できないわけじゃない、辻褄もあう、いくつかの点で納得ができる。
なぜ、緑青館の身請け話から突っかかってきたのか。
なぜ、昔の馴染みの話をしたのか。
しかし、そのことを認めてしまいたくなかった。
「あくどいとは失礼な。とんびに言われたくない話だ」
片眼鏡の奥の目を細め、羅漢が笑う。
「ようやく、やり手婆を説得したのに。十年以上かかったんだ。横からかっさらわれた身にもなってみるといい」
羅漢はからんと杯を傾ける。果実水の中には氷の欠片がうかんでいた。
「油揚げを返せと?」
壬氏が『油揚げ』と形容したそれは、無愛想な小柄な娘のことだった。
「いいや、いくらでも出しましょう。昔と同じ轍は踏みたくないのでね」
「嫌だといったら?」
「そういわれると、何も言えませんな。貴方様に逆らえるものなど、片手の指折るほどにしか存在しない」
羅漢はじわじわと回り込む言い方をする。壬氏はすこぶる居心地が悪い。
彼の言には一応、筋が通っているからだ。
羅漢は片眼鏡を取ると、手ぬぐいで拭く。曇りがとれたと確認すると、左目につけた。さっきまで右につけていたので、ただの伊達であることがわかる。さすが変人だ。
「ただ、娘がどう思うかなのですけど」
羅漢は、『娘』という言葉を強調する。
ああ、いやだ、つまりそういうことなのだろう。
羅漢は猫猫の実の父親だ。
壬氏は判を押す手を完全に止める。
「そのうち会いに行くと伝え願えますか?」
羅漢は乳酪だらけの指を舐めると執務室を出て行った。
長椅子を置いて行ったままなので、また来るということなのだろう。
壬氏と高順は、示し合せるわけでもないが、同時に頭をうなだれると、大きなため息をついた。
「今度、おまえに会いたいという官がいるのだが」
壬氏は、部屋に戻るなり、伝えないわけにもいかず、正直に猫猫に言った。
「どんなかたですか」
猫猫は無表情の奥になにかうずうずしたものを隠していているようだが、いつもどおり冷静な口調であった。
「ああ、羅漢という……」
壬氏が最後まで言葉を紡ぐ間もなく、猫猫の表情が変わった。
いままで、地虫のように、干からびた蚯蚓のように、汚泥のように、塵芥のように、蛞蝓のように、潰れた蛙のように、とりあえずいろんな侮蔑の目で見られてきたが、そんなもの生ぬるいものであったと気が付いた。
到底、筆舌に尽くしがたい。
たとえ壬氏でもこれを向けられたらさすがに生きていけないだろう。
心の根底を叩きつぶし、煮えたぎる鉄に流し込まれ、灰も残らないような。
そんな表情を猫猫は作っていた。
「……どうにか断っておく」
「ありがとうございます」
壬氏は、放心状態のまま、それだけしか言えなかった。
心臓が止まらなかったのが不思議なくらいだ。
猫猫はもとの無愛想な顔に戻ると、自分の仕事に戻るのだった。
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