十、羅漢(14.06.23改)
「勝手に毒を口にするな」
部屋に戻るなり壬氏は猫猫にそんな命令を下した。
(なんというひどいことを)
毒海藻の皿も取り上げられて、猫猫はあんぐりとなった。
今回、二つ皿を用意したのも、ちゃんと猫猫が自分の身体をはって毒物であることを証明するためだった。これは大切な検証であるというのに。しかし、時機の悪いことに、海藻の出先が割れ、誰がこれを購入したかわかったのだった。
倒れた役人の弟だった。
買付先を見つけたところで、簡単に自分が買ったと吐いてくれた。
厨房に入ろうとしたとき、じろじろと見たところから、やはり変だと思ったがそのとおりだったようだ。
見られたくないものがあればあんな態度をとるものだ。
よくある話だ、長子が健在なれば次子はないがしろにされる。面白いほど簡単な理由にある意味拍子抜けしてしまう猫猫たちであったが。
それはさておいて。
毒を食らうな、と言われたがそれ以外のことについてはかなり寛容だな、と猫猫は改めて思った。
よくよく考えてみれば、壬氏の変態行為に目を向けなければ、随分待遇がいい。
(それなのに、自分は好き勝手に)
壬氏に対して、愛想のない返事をしたり、敬わなかったり、変態扱いしたり、這い回る地虫を見るかのごとくながめたり。
自分が主人なら、こんな女官即解雇にしているところだ。むしろ、縛り首にしていることだろう。縛り首は嫌だ、毒殺を頼もう。
(そうなると、薬草が)
給金はどうでもいい、ほかに稼ぐ方法はある。
しかし、渡来物の薬草など花街の薬屋には手の届かない一品だ。
毒実験を数年我慢しても欲しいものはいくらでもある。
今後は、誠心誠意仕えるべきだと、表情筋に妓女教育で鍛えられた営業微笑を貼り付けて壬氏を迎えてみた。
壬氏が呆けた顔をしたので、貼り付ける表情を間違えたのかと思ったら、いきなり壬氏が柱に頭をぶつけだした。がんがんと啄木鳥のような動きだ。
その音で、何事かと高順と初老の女官、水蓮が飛び出してきた。
よくわからないが、高順にじっと見られてしまった。
(今のは私のせいじゃない)
おかしいのはお前さんの主人だ、と猫猫は思いながらぶすくれた。
猫猫の一日の仕事は、主人である壬氏をむかえて終わる。ゆえに、さっさと壬氏に帰ってきてもらったほうが猫猫としては楽である。
疲れた顔で、壬氏が部屋へと入ってきた。
「お帰りなさいませ」
ここで「ご主人さま」っていうのよ、と水蓮は言ったが、猫猫はそれを無視する。いくらなんでも、それを言ったら、舌が回らず噛み切ってしまいそうになるからだ。
ここのところ、壬氏の仕事の帰りが遅い。理由は、溜まっていた仕事を片付けていたかららしい。
仕事をためるくらいなら、先日の事件の際も野次馬根性を見せずにさくっと終わらせてしまえばよかったのにと猫猫は思ったが、それがどうにもやりにくい案件だという。
「馬が合わないというかなんというか、どうも意見が違ってしまうのだ」
壬氏が、水蓮から果実酒を受け取りながら、ため息をついた。この場にいる者は、皆、壬氏に対して耐性を持っているからよいが、どこぞの女官がその姿を見たらそれだけでふらりと気を失ってしまう所業だろう。なんとはた迷惑な宦官だろうか。
そんな人物にも意見ができる人間がいるとなると、逆にすごいことであるが、同時に付き合いたくないとも思わなくもない。
「私にも苦手な人間くらいいる」
軍部の高官らしく、頭は切れるが変人だと有名らしい。
なにかと難癖をつけて、客人を部屋に連れ込み、または突撃し、将棋をさしたり、世間話をしては案件の判をうつのを先延ばしにするという。
今回、標的にされたのは壬氏とのこと。
おかげで、毎日、一時は執務室に居座られ、その分残業していたのだという。
猫猫の顔になんだか嫌な気色が浮かぶ。
「どこの隠居ですか、それは」
「まだ四十路過ぎだ。自分の仕事は終わらせるぶん、たちが悪い」
(四十路すぎ、軍部の高官、変人?)
どこかでおぼえのある言葉だったが、思い出してもろくなことがなさそうなので猫猫は忘れることにした。
まあ、忘れたところで、いつもの嫌な予感はきていたのだが。
○●○
「案件はもう通ったはずですが」
招かれざる客に、壬氏は天女の笑みを浮かべていった。ひきつらないようにするには努力を要する。
「いやいや、冬に花見は難しい。ならば、こちらでと思いましてな」
無精ひげに片眼鏡をつけた飄々とした中年がそこにいた。
武官服を着ているが、その容姿は文官にこそふさわしく、細い狐のような目は理知とともに狂気を孕んでいた。
男の名を羅漢、軍師をやっている。時代が時代なれば、太公望と言われた男だろうが、今の世ではただの変人にすぎない。
家柄は良いが、四十を過ぎても妻帯せず、甥御を養子にとって家の管理を任せている。
羅漢の興味のあるものといえば、碁と将棋と噂話。相手が興味なくても無理やり巻き込んでいく。
ここ最近、壬氏に突っかかってきた理由といえば、緑青館に縁の娘を下女にしたことである。
嘘ではないが、娼館から娘を、となると体裁が悪い。何より、当人が真夏の羽虫の飛ぶ音を聞くような顔をするので、できるだけ穏便に済ませたはずだ。
下女という形だが、人はそれをどうとるのか、問題だった。
それなのに、うら若き娘のごとく噂の好きなこの御仁は、あることないことあること吹き込んで、軍部では壬氏が身請けしたということになっている。いや、間違っているとは言い難いが。
おっさんのどこからわくのかわからない話の数々を右から左に聞き流し、高順の持ってきた書類に判を押す。
「そういえば、緑青館に昔、なじみがいましてね」
意外な話だ、と壬氏は思った。
色事などまったく興味のないことと思っていたが。
「どんな妓女ですか?」
壬氏は、つい興味をひかれて返してしまった。
羅漢はにんまりと笑うと、瑠璃杯に持参の果実水をつぐ。長椅子に寝そべる姿はまるで自室でくつろいでいるのと変わらない。
「いい妓女でしたよ。碁と将棋が得意で、私も将棋は勝てるが碁は負けてばかりだった」
軍師殿を負かすとは、それは強かったのだろう、と壬氏は思う。
「あれほど面白い女にはもう会えないだろうと、身請けも考えましたが、世の中うまくいかないものでね。ちょうど、物好きの金持ちが二人、競り合うように値をつり上げていた」
「それはそれは」
時に妓女の身請け金は、離宮がひとつ建つ額になる。羅漢にも手が出せないというのはそういうことなのだろう。
そんな話をして、この男は何が言いたいのだろうか。
「変わり者の妓女でして、芸は売れど身は売らず。それどころか、客を客とも思わない。茶を注ぐにも、主人に接するというより、下賤の民に施しを与えるような尊大な目で見ておりました。まあ、かくいう私もそのひとりなのですが、背筋にぞくぞくとくる感覚がたまらないものでして」
「……」
壬氏は、どうにも居心地が悪く、目をそらしてしまった。控える高順も一文字にした唇を強く噛んでいる。
世の中、同じ趣味の人間はけっこういるものだ。
その心のうちを知ってか知らずか羅漢は続ける。
「いつか組み敷いてみたいと思っていたものですよ」
にやりと笑う男の目に、狂気に満ちた炎を垣間見た。
「結局、私もその妓女のことは諦めきれず、仕方なく少々汚い手を使いました。まあ、高くて手が出せないなら、安くなれば問題ないわけでして」
希少価値下げたんですよ、と。
「どんな方法をとったか知りたいですか?」
片眼鏡ごしに狐のような目が笑っている。
いつのまに相手を引き込む。これだから恐ろしい。
「ここまできてもったいぶるのですか」
「いやはや、もう時間でして。長居をすると部下に怒られる」
手のひらを返したように、羅漢は果実水を片付ける。もう一本用意していた徳利を壬氏の机の上に置いた。
「部屋付の女官たちにでもあげてくだされ。甘すぎない飲みやすい口ですから」
中年武官は手を振りながら、
「では、また明日」
と去って行った。